第30話 「影心迷宮・第三階層:孤独の影と、手継ぎ鍋」
――誰かを救うだけでは、同じ食卓には座れない――
第二階層から戻った秘密基地には、一人分の膳が置かれていた。
向かいの席は空いている。
茶太郎が近づくと、膳の上に一枚の木札が現れた。
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”一人では完成しない料理を作れ。”
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「みんなで料理すればいいんじゃない?」
ウリハが前足を上げる。
「キュイッ! ぼく、野菜を運ぶ!」
「……ぼく、水を選ぶ」
ナギも続いた。
レオは少し考えてから、首を横に振る。
「でも……作ってるところを、一人で見てるだけの人がいたら……その人は、まだ一人だよ」
「見てるだけ……」
茶太郎は、一人分の膳を見つめた。
皆で作った料理を、孤独な者へ差し出すだけでは足りないらしい。
その者自身が料理へ加わらなければ、「一人では完成しない料理」にはならない。
「食べる人にも、手伝ってもらう料理にしよう」
茶太郎は《鳥の手継ぎ鍋》を考えた。
鍋の具を一度に入れず、一人が一つずつ順番に加えていく。
最後の具は、食べる者自身に入れてもらう。
けれど問題があった。
「鶏は高いで」
父・宗次が言う。
「卵を産む鶏は、商屋にとっても大事な財産や。鍋のためだけに潰すわけにはいかん」
近くの農家に、卵を産まなくなった老鶏が一羽いた。
茶太郎たちは、茶葉の選別と畑の手伝いをする代わりに、その鶏を分けてもらうことにした。
「もらった命や。余らせたらあかん」
志乃は肉だけでなく、骨と皮も分けた。
骨は生姜、葱と一緒に煮て、鍋の汁にする。
肉は細かく刻み、味噌と生姜を少し加えて練る。
子どもたちは生肉へ触れず、志乃とかん太が下ごしらえを担当した。
「丸くしないの?」
茶太郎が尋ねる。
「二本の匙で、食べるときに鍋へ摘み入れるんよ」
「じゃあ、最後の一つは、影の人に入れてもらえるね」
具材は、それぞれ別の包みに分けた。
・ナギが選んだ井戸水
・ウリハが運んだ蕪
・レオが摘んだ青菜
・ゆかりが切った豆腐
・マキトが守った火種
・志乃が作った鳥肉の練り身
・茶太郎が調えた味噌仕立ての汁
誰か一人が欠ければ、同じ鍋にはならない。
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翌朝。
茶太郎たちは再び、阿字池の底から影心の迷宮へ入った。
第二階層の三つの卓は消え、三色の組紐だけが扉に残っている。
茶太郎が触れると、第三の扉が開いた。
その先には、荒れた堂があった。
柱は朽ち、床には埃が積もっている。
灯明は消え、外から聞こえるはずの風や鳥の声もない。
「……音がない」
レオが小さな声で言う。
ナギが床下へ耳を澄ませる。
「水も……一か所で回ってる。外へ行けない」
堂の中央に、一人の僧が座っていた。
顔は暗く、表情が見えない。
「帰れ」
影僧は茶太郎たちを見ようともしない。
「誰かと共にいる振りなど、もう飽きた」
「あなたが、第三の影?」
「私は、権力を持つ者へ人々が重ねた孤独だ」
影僧の周囲に、公卿たちの幻が現れる。
「仰せのとおりに」
「御意にございます」
「まことに見事な御判断」
全員が同じ言葉で頭を下げる。
しかし顔には、何の表情もない。
「皆、私の力を見ていた。私自身を見ていた者など、一人もおらぬ」
次の瞬間、公卿たちは消えた。
残された影僧の前には、豪華な膳だけが並んでいる。
「料理を置いていけ。褒美は取らせる」
「一緒に作ってほしいんだ」
茶太郎が答える。
「なぜ私が」
「一人では完成しない料理だから」
影僧は鼻で笑った。
「そなたらだけで作ればよい。私はここで見ている」
「それじゃ完成しないよ」
茶太郎は、堂の中央へ鍋を置いた。
マキトが持ってきた火種を火鉢へ移す。
「我が守ってきた火だ。茶太郎、受け取れ」
「ありがとう」
茶太郎が鍋へ汁を注ぐ。
ナギは水の流れを確かめた。
「……強く沸かしたら、水が苦しくなる。今くらい」
汁が静かに温まる。
ウリハが蕪を運んできた。
「キュイッ! 次、ぼく!」
蕪を鍋へ入れ、その場をレオへ譲る。
「……青菜、入れる」
レオの次は、ゆかり。
「豆腐を入れるね。崩さないように、そっと」
具が加わるたび、冷えていた堂へ少しずつ音が戻ってきた。
煮える水の音。
器が触れ合う音。
仲間が場所を譲り合う声。
影僧は、黙ったまま鍋を見ている。
「できたではないか」
「まだだよ」
茶太郎は、鳥肉の練り身が入った椀を影僧の前へ置いた。
「最後は、これを入れて」
「断る」
「どうして?」
「手を出せば、失敗するかもしれぬ。味を損ねれば、そなたらは私を責めるだろう」
「責めないよ」
「口では何とでも言える」
影僧は顔を背けた。
「私は、誰にも頼らぬ。誰も私を頼らせぬ。そうしていれば、裏切られることもない」
茶太郎は二本の木匙を持った。
一人で練り身をすくおうとするが、椀が動いてうまく取れない。
「……できない」
影僧は反応しない。
「椀を押さえて」
「仲間に頼め」
「あなたにお願いしてるの」
影僧が、初めて茶太郎を見た。
「私に?」
「うん。一人じゃできないから、助けて」
堂の静けさの中で、その言葉だけが残った。
命令ではない。
慰めでもない。
茶太郎は、影僧へ役目を渡したのだ。
「私が失敗してもよいのか」
「落としたら、もう一回すくえばいいよ」
影僧は迷いながら、椀へ手を添えた。
茶太郎が二本の匙で練り身をすくう。
「鍋へ入れて」
「私が入れるのか」
「最後の一つは、あなたの分だから」
影僧は匙を受け取り、練り身を鍋へ落とした。
ぽちゃん、と小さな音がする。
その瞬間、止まっていた水が流れ始めた。
堂の外から、風の音が聞こえる。
「……私が加えたものも、この料理の一部となるのか」
「うん。これで完成」
影僧は鍋を見つめた。
「施しを受けるのではなく……私も作ったのか」
「一緒に作ったんだよ」
全員が鍋を囲む。
影僧のためだけに用意した上座はない。
茶太郎たちと同じ場所へ、影僧の椀が置かれた。
鍋の汁には、鶏の旨味と味噌の香りが溶けている。
影僧は、自分で入れた鳥肉を口へ運んだ。
「少し、形がいびつだ」
「ぼくのも丸くないよ」
ウリハが自分の椀を見せる。
「私の豆腐も、少し崩れちゃった」
ゆかりも笑った。
影僧の口元が、わずかに緩む。
「失敗しても、同じ鍋に残るのだな」
「失敗したら、みんなで食べ方を考えるんだよ」
影僧の姿から、黒い影が剝がれ落ちていく。
「孤独とは、誰もいないことではなかった」
「違うの?」
「誰にも頼まず、誰からも頼まれぬ場所へ、自らを閉じ込めることだったのかもしれぬ」
茶太郎は断言せず、静かに答えた。
「一人でいたい日もあるよ。でも、手伝ってほしいときは、言っていいと思う」
「ああ……そうか」
影僧は目を閉じる。
「助けてほしいと、私は言えなかった」
「今度は言える?」
影僧はしばらく黙り、それから茶太郎へ椀を差し出した。
「もう少し、汁をよそってくれぬか」
「うん!」
茶太郎が汁をよそう。
影僧はそれを両手で受け取った。
堂に朝の光が差し込み、朽ちていた柱へ元の色が戻っていく。
鳳凰の声が響いた。
『第三の結び目はほどけました』
『孤独をほどくのは、大勢で囲むことだけではありません。助けを求め、誰かの願いを引き受けることです』
影僧は淡い光となり、鍋の湯気へ溶けていった。
その奥に、第四の扉が現れる。
扉には、消えかけた灯明と、冷えた料理が描かれていた。
「次は……火が消えそう」
茶太郎が呟く。
鳳凰の声が、遠くから答える。
『第四の結び目は、死への迷い』
『止まらない時の中で、何を料理として残すのか。秘密基地へ戻り、考えなさい』
第四の扉は開かなかった。
茶太郎たちは空になった鍋を片づけ、帰路へ向かう。
堂を出る直前、影僧の声がかすかに聞こえた。
「手伝ってくれて……ありがとう」
茶太郎は振り返り、誰もいなくなった堂へ答えた。
「ぼくも、手伝ってもらったよ」
再び静けさが訪れる。
けれどそれは、もう孤独の静けさではなかった。




