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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第一章 ~三歳の茶太郎、宇治を巡る~
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第32話 「影心迷宮・第五階層:心鏡と、名もなき一椀」

 ――価値を証明できなくても、食卓に座っていい――


 第四階層から戻ってから、茶太郎は元気がなかった。


 秘密基地の壁には、黒い鏡のような扉が浮かんでいる。

 その表面に映る茶太郎は、何度見ても同じ言葉を繰り返した。


 ”お前には、何もない。”


「ぼくには……何もないのかな」


 料理の知識は、前世から持ってきたもの。


 茶葉は父と母が育てたもの。

 水はナギが選び、火はマキトが守る。

 文福茶釜も、金長きんちょうから受け取った茶釜から生まれた。


「ぼく一人の力って、何だろう」


 茶丸ちゃまるは答えを教えなかった。


『それを見つけるのが、最後の試練なのだろう』


 茶太郎は、自分にしか作れない極上の料理を考えた。


「誰も食べたことがないお菓子なら、ぼくの価値を証明できるかもしれない」


 使うのは、


 ・卵

 ・麦芽水飴

 ・挽いた茶

 ・文福茶釜の湯


 前世で食べたプリンを、今ある材料で再現しようと考えた。

 ただし牛乳も白砂糖もない。

 作れるのは、茶の香りをつけた甘い卵蒸しだった。


 茶太郎は卵と水飴を混ぜ、湯で練った茶を加える。


 一度目は火が強すぎて、表面に穴が開いた。


「ぼそぼそしてる……」


 二度目は志乃しのに蒸し方を教わった。


「湯を荒く沸かしたらあかんよ。蓋を少しずらして、静かな湯気で蒸すんや」


 今度は滑らかに固まった。


 淡い茶色の《甘茶の卵蒸し》。


 レオがひと口食べる。


「……やわらかい。甘い……」


「おいしい?」


「うん。すごく、おいしい」


 ウリハも夢中で食べた。


「キュイッ! これ好き!」


 皆が褒めてくれた。

 けれど、茶太郎の胸にある冷たい味は消えない。


「これを作れたら、価値があるの?」


 誰もすぐには答えられなかった。


「失敗したら、価値がなくなるの?」


 志乃が茶太郎の隣へ座る。


「母ちゃんは、茶太郎が料理を作れんようになっても、茶太郎を追い出したりせえへんよ」


「どうして?」


「料理が上手やから、家族なんやないもの」


 茶太郎は、完成した卵蒸しを見つめた。

 珍しく、甘く、滑らかで美しい。


 だが、それを差し出して「これほどの料理を作れる者には価値がある」と証明しても、自己否定の迷いはほどけない。


「極上の料理じゃ、だめなんだ」


 茶太郎は卵蒸しを仲間たちへ分けた。


「これは、試練が終わってから、もっとおいしくする。今日は持っていかない」


 そのとき、宗次そうじが米俵を選別していた。


 床には、欠けた米や小さな粒が落ちている。

 売り物にはしにくい米だった。


「父ちゃん、そのお米は捨てるの?」


「捨てへんよ。集めて家で食べる」


「欠けてても?」


「形が悪いだけや。炊いたら腹を満たしてくれる」


 茶太郎は、欠け米を一握り分けてもらった。


「最後の料理、これにする」


「具は?」


「入れない」


「茶も?」


「入れない」


 水、欠け米、ほんの少しの塩。

 ただの白粥だった。

 名前もつけなかった。


 ◇


 翌朝。


 茶太郎たちは、第五の扉の前へ戻った。


 黒い鏡に映った茶太郎が、冷たく笑う。


「料理も、霊力も、仲間も、すべて借り物だ」


「うん」


 茶太郎は否定しなかった。


「一人では水も選べず、畑も耕せず、火も守れぬ」


「うん。できないよ」


「ならば、お前自身には何がある」


「まだ、分からない」


 鏡の中の茶太郎が顔を歪める。


「分からぬまま、ここへ来たのか」


「分からないから、みんなに手伝ってもらった」


 茶太郎は黒い鏡へ手を当てた。


「借りたものは、だめなものじゃないよ。ぼくも、誰かに返せばいいんだと思う」


 鏡に細い亀裂が入った。


 扉が開く。


 その先は、何もない白い空間だった。

 床も壁も見えない。


 ナギは水の流れを探したが、何も感じ取れなかった。


「……水がない。道も、分からない」


 マキトも帰路の印を灯そうとする。


 しかし、白い光は足元へ落ちる前に消えた。


「ここでは、我の守りも形を得られぬ」


 空間の中央に、小さな影が座っていた。


 豪華な装束も、冠もない。

 年齢も身分も分からない、名もなき人影だった。


「何を持ってきた」


 茶太郎は白粥の入った鍋を置いた。


「お粥です」


「それだけか」


「はい」


「珍しい材料は?」


「ありません」


「霊を癒す力は?」


「入れてません」


「食べれば、私の価値を証明できるのか」


「できません」


 影の声が鋭くなる。


「では、なぜ持ってきた!」


「お腹がすいてると思ったから」


 白い空間が揺れた。


「私は価値のない影だ」


「うん。あなたが、そう思ってるのは分かる」


「否定せぬのか」


「ぼくには、あなたの価値を決められないから」


 茶太郎は椀へ白粥をよそった。


「でも、価値があるって証明できなくても、ごはんは食べていいと思う」


「なぜだ」


「ここにいるから」


 影は、差し出された椀を見つめた。


「この米も、欠けた米だよ。きれいな形じゃないから、売り物にはしにくいんだって」


「私に、価値の低い米を食わせるのか」


「違うよ」


 茶太郎は自分の椀にも、同じ白粥をよそった。


「父ちゃんは、捨てなかった。形が欠けてても、お腹を満たしてくれるって言ってた」


 茶太郎は先にひと口食べる。


 米と水と塩だけの味。

 強い旨味も、甘味もない。

 それでも、温かかった。


「あなたも食べる?」


 影は震える手で椀を受け取った。


「私は、何も成し遂げられなかった」


「食べてから考えたら?」


「自分を好きになれない」


「嫌いなままでも、食べていいよ」


「明日も答えが出なかったら?」


「明日も食べよう」


 影が白粥を口へ運ぶ。


「……味が薄い」


「塩、少なかった?」


「いや」


 影は、もうひと口食べた。


「何の証明も求めてこない味だ」


 白い空間に、初めて影が生まれた。


 茶太郎の影。

 レオの影。

 ナギ、ゆかり、ウリハ、マキト、茶丸の影。

 そして、粥を食べる名もなき者の影。


「私は……ここにいてよいのか」


「もういるよ」


 茶太郎が答える。


「いてよいかどうかを決める前から、あなたはここにいる」


 名もなき影の目から、涙がこぼれた。


「価値を見つけたから、消えずに済むのではないのか」


「見つからない日もあるよ」


「それでも?」


「うん。それでも、次のごはんを食べよう」


 影は椀の白粥を最後まで食べた。

 身体を覆っていた黒い色が、少しずつ薄くなっていく。

 そこに現れたのは藤原道長本人ではない。


 権勢を失う恐れ。

 家族と分かり合えない迷い。

 孤独。

 死。


 それらを経験した人々が、長い年月をかけて平等院へ重ねてきた、自己否定の影だった。


「私は……名を持たなくてもよいのか」


「欲しくなったら、一緒に考えよう」


「今は?」


「今は、一緒にごはんを食べた人」


 影は穏やかに笑った。


「それでよい」


 名もなき影が光へ変わる。


 白い空間に、これまでの四つの料理が浮かび上がった。


 《帰り火の煮込み麺》

 《三つ椀の結び鍋》

 《鳥の手継ぎ鍋》

 《命継ぎの茶粥》


 そして最後に、名もない白粥。


 五つの料理は金色の輪となり、迷宮全体へ広がっていった。


 鳳凰の声が響く。


『五つの結び目はほどけました』


『料理は、人の価値を証明するためのものではありません。今日を生きる者へ、次の一椀を渡すためのものです』


 茶太郎は尋ねる。


「道長さんは、極楽へ行けたの?」


『それを決めることは、私たちにはできません』


 鳳凰の声は静かだった。


『ここにあったのは、道長の記憶だけではない。後の世の人々が、その名へ重ねた願いと恐れです。あなたがほどいたのは、道長本人の魂ではなく、この地に滞っていた影なのです』


「そっか……」


『ただし、恐れから解かれた祈りは、あるべき流れへ戻りました』


 白い空間が、阿字池の水面へ変わっていく。

 迷宮は崩れるのではなく、朝霧が晴れるように薄れていった。


 茶太郎たちは、平等院の岸辺へ戻っていた。


 茶丸が茶太郎の足元へ寄り添う。


『よくやった』


「ぼく一人じゃできなかったよ」


『それでよい』


 秘密基地へ帰ると、黒い鏡の扉は消えていた。

 代わりに、壁には五つの小さな椀の印が残っている。

 その前には、試練へ持っていかなかった《甘茶の卵蒸し》が置かれていた。


 茶太郎は皆へ取り分ける。


「今度は試練じゃないよ」


「じゃあ、何?」


 レオが尋ねる。


「終わったお祝い」


 ウリハが飛び上がる。


「キュイッ! いっぱい食べる!」


「一人一つやで」


 志乃に止められ、ウリハはしょんぼり座り直した。


 秘密基地に笑い声が広がる。


 極上だから価値があるのではない。

 失敗しても、答えが見つからなくても、同じ食卓へ戻ってこられる。

 茶太郎が第五の階層で見つけたのは、自分だけの特別な材料ではなかった。


 誰かから受け取り、誰かへ返していく。

 その流れの中に、自分もいてよいという答えだった。

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『茶太郎がゆく』
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