↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
PR
322/349

第310話 「返さなくてよい一杯と、針の借り札」

 ――助ける前に、何を求めないのかを伝えなければならない人もいる――


 京の受け場にいた若い女は、出された湯へ手を伸ばさなかった。


 年は十七ほど。


 雨に濡れた髪が頬へ張りつき、左手には《欠けた輪と一本の針》の木札を握っている。


「毒やないよ」


 茶太郎が言った。


 女の肩が震えた。


「毒やと思うてるんやない」


「ほな、熱い?」


「飲んだら、いくら増える」


 茶太郎は答えられなかった。


「湯一杯で、借りはいくら増えるんや」


 女の目は、湯ではなく木札を見ていた。

 おすみが、土間の入口から静かに言う。


「ここで出す湯に、銭も働きも求めへん」


「あとで変わる」


「変えへん」


「みんな、最初はそう言う」


 善意を疑っているのではない。

 善意として渡された物が、あとから借りへ変えられた経験があるのだ。


 茶太郎は湯を勧めるのをやめた。


「先に書こう」


「何を?」


「この湯は、返さなくていいって」


 《水輪藁紙》へ短く記す。


『湯一杯。

 受け場より渡す。

 返し不要。

 銭、荷運び、働きによる返礼を求めない』


 お澄と弥七やしちが立会人として印を付けた。


 紙は女にも読めるよう、ゆっくり読み上げる。


「これを持ってて」


 茶太郎が紙を差し出した。


「ほんまに何も返さんでええの」


「うん」


「なんで」


「喉が渇いてるから」


 女はしばらく動かなかった。

 やがて両手で椀を持つ。


 一口。

 口の中へ含んだまま、すぐには飲み込まない。

 温かい湯が安全だと確かめるように、少しずつ喉へ送った。


 椀を半分空けたところで、女の目から涙が落ちた。


「おいしい?」


「ただの湯やろ」


「うん」


「ただの湯やのに……」


 女は顔を伏せた。


 名はまい


 京より北の山裾で、母と暮らしていた。


 父は前年に亡くなっている。

 父が病んだ冬、旅人を泊める小屋から粟と古布を借りた。


 借りた量を舞は知らない。

 父も詳しく話さなかった。

 春になると、欠けた輪の木札を持つ男が家へ来た。


「父の借りを返せ言われた」


「何を返す約束やったん?」


 茶太郎が尋ねる。


「粟二升と、古布一枚。それに泊めてもろた三日分やって」


「証は見た?」


「帳面を見せられた。父の名も書いてあった」


「お父さんの印は?」


「なかった」


「借りたときに立ち会った人は?」


「分からへん」


 舞は荷運びを命じられた。

 北の小屋から京の手前まで、薪や炭、干した山菜を背負う。


 一日働けば、借りが一つ減ると言われた。


「何日働いたん?」


「四十二日」


「減った?」


 舞は首を振った。


「食べた粥。寝た場所。雨の日に借りた蓑。全部、また借りに足された」


 返すために働く。

 働くために食べる。


 食べれば、また借りが増える。

 輪はいつまでも閉じなかった。


「逃げたんか」


 善十郎ぜんじゅうろうが問う。


「逃げた」


 舞は木札を握り直した。


「母まで働かせる言われたから」


 お澄が舞を奥の部屋へ案内しようとしたが、足元がふらついた。


 土地の医師に診てもらう。


 熱はない。

 大きな怪我もない。

 ただ、食事を十分取れておらず、疲れが溜まっていた。


「急に多く食べさせん方がええ」


 医師が言う。


「温かい物を、少しずつや」


 茶太郎は台所を借りた。


 米は少量。

 麦を柔らかく煮、細かく刻んだ蕪を加える。


 出汁は薄く。

 塩も控える。

 最後に焙じた茶葉の香りだけを移した。


 《水霊麦やわらぎ粥》。


 椀へ盛る前に、もう一枚の紙を書く。


『麦粥、一椀。

 返し不要』


「食べるたびに書くん?」


 かん太が尋ねる。


「今はね」


 茶太郎は答えた。


「舞さんが、書かんでも信じられるようになるまでは」


 舞は、まず一匙を口へ運んだ。

 少し休み、もう一匙。


「……借りにならへん味がする」


「味で分かるん?」


「分からへん」


 舞の口元が、ほんの少し緩んだ。


「でも、そう思いたい」


 食後。

 舞が持っていた木札を調べることになった。


 本人の同意を得て、机の上へ置く。

 札は新しい樫の木で作られていた。


 表に欠けた輪。

 中央に一本の鉄針。

 裏には、縦の刻みが七本ある。


「七日分の借り?」


 かん太が尋ねる。


「違う」


 善十郎は刻みの深さを見た。


「この印は、昔なら渡した物の種類を示す。粟、布、寝床。それぞれ形を変える」


「全部同じ線やね」


「せや。それに、貸した者の印がない」


 《道箱》の二冊目には、古い《針借り》の決まりも残されていた。


 何を渡したか。

 誰が渡したか。

 受け取った者が、返し方を理解したか。


 二人以上が確かめたか。

 働いた分を、誰が減らしたか。

 そのどれかが欠ければ、受け場同士で争いを止め、確かめ直すと書かれている。


 舞の木札には、貸した者の名も印もない。

 日付もない。

 父が受け取った証もない。

 働いた四十二日も記録されていなかった。


「ほな、借りは嘘なん?」


 舞が尋ねる。


「嘘とも、まだ決められへん」


 茶太郎は答えた。


「お父さんが粟と布を借りたんは、ほんまかもしれない。けど、この木札だけでは、今いくら残ってるか分からへん」


「なら、まだ働かなあかんの?」


「それを、貸したって言う人だけに決めさせたらあかん」


 借りがあると言う側の帳面。

 舞が働いた日数。

 一緒に荷を運んだ者の話。

 渡した品と、その時の約束。


 別々に確かめなければならない。


 茶太郎たちに、借りを裁く権限はない。

 だが、証のない請求を理由に舞を引き渡さないことはできる。


 決まりが作られた。

 調べ終わるまで、舞は京の受け場に留まれる。


 居場所は外へ知らせない。

 食事と寝床を、新しい借りにしない。

 相手が来ても、舞の同意なく会わせない。


 話を聞くときは、受け場の者を二人以上立ち会わせる。


「借り札はどうする?」


 お澄が問う。


「壊したら、あかん」


 舞が先に答えた。


「これがないと、されたことまで嘘や言われる」


 木札は燃やさず、袋へ入れた。

 舞が自分で持つ。

 受け場では形と刻みを写し、別の帳面へ残した。


「ほかにもおる」


 舞が言った。


「同じ木札を持たされた人?」


「七人は見た。もっとおるかもしれへん」


「名前、分かる?」


「分かる人もおる。でも書いたら見つかる」


「今は書かんでええよ」


 茶太郎は頷いた。


「無事におるかだけ、分かる?」


「一人は北の小屋。二人は荷運び。あとの人は——」


 そのとき、表の戸が強く叩かれた。


 どん、どん、どん。


 返し手の合図ではない。


「ここに、借りを残した女が来たはずや!」


 男の声が響く。


 舞の顔から血の気が引いた。

 木札を握る手が震える。


 お澄は奥の部屋へ続く戸を閉めた。

 弥七が表へ立つ。


「誰の借りや」


「針屋の借りや。女を出せ」


「証を見せてくれ」


「証なら帳面にある!」


「その帳面を持ってきたんか」


 戸の向こうが、一瞬静かになった。


「帳面は北の小屋や」


 舞が小さな声で言う。


「みんなの借りを書いた帳面も、そこにある」


 茶太郎は《道箱》に刻まれた北の道を見た。


 人を助けるための受け場が。

 今は、人を借りへ縛る小屋になっている。


 北の返し路を開く前に確かめる場所が、決まった。


 欠けた輪の帳面が置かれた——名もない山の小屋だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
面白いと思っていただけたら、ぜひブックマークや評価(★)をお願いします!
『茶太郎がゆく』
style=
目次からブックマークをお願いします
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。