第309話 「戸を開ける前の三つの証」
――信じるとは、疑わないことではなく、確かめる手間を引き受けること――
善十郎は、戸の外で待った。
「いつまで待たせる」
「確かめ終わるまでや」
弥七が答える。
「寒いんやが」
「追われてるかもしれん者を、すぐ中へ入れるわけにいかん」
「追っとるのは俺や」
「誰をや」
「それを話しに来た」
「ほな、まず証を出してくれ」
黒い三角の付いた木札だけでは、返し手だと決められない。
盗んだ札かもしれない。
古い印を真似て作った可能性もある。
だが、疑わしいという理由だけで縛ることもしなかった。
善十郎は表の軒下へ座り、湯の入った椀を渡された。
「中へ入れへんのに、湯はくれるんか」
「寒いのと、信用できるかは別やから」
茶太郎が答える。
「ほんまに六つか、お前」
「またや!」
第一の証は、善十郎の木札だった。
お蓮の木札と並べる。
表には、閉じた翼と三本の水。
裏には黒い三角。
同じ印だが、よく見ると翼の向きが違う。
お蓮の札は、翼の先が南を向いている。
善十郎の札は、北。
「持ち場の方角や」
善十郎が戸越しに説明した。
「伏見の返し手は南向き。北の止め手は北向きに削る」
《道箱》の帳面にも、同じ違いが記されていた。
第一の証は合った。
第二の証は、返し手の合図。
三度鳴らしたあと、間を置いて二度。
「この合図には、返す言葉があるはずや」
千早が問う。
善十郎は答えた。
「戸を一度、床を一度。戸は人が聞く。床は土地が聞く」
お蓮が父から聞いた返し方と同じだった。
しかし合図も、誰かから聞き出せる。
まだ戸は開けない。
第三の証を確かめるため、シオに文を託した。
送り先は、京都の受け場を預かるお澄。
『善十郎という北の止め手を知っていますか。
知っていても、こちらの問いに合わせず、最後に会った時と用件を書いてください』
答えを誘わない尋ね方にした。
善十郎は軒下で待ち続けた。
逃げなかった。
受け場へ入ろうともしなかった。
昼を過ぎた頃、シオが戻る。
『善十郎、知る。
三年前の冬、山で足を傷めた子を背負い、京の受け場まで運んだ。
名を残すことを嫌い、黒い三角の木札だけを見せた。
その後、二度、北の道は使えぬと文あり。 お澄』
三つの証がそろった。
印。
合図。
別の受け場に残る行動の記録。
「戸を開けよう」
茶太郎が言った。
弥七は、善十郎の身体と荷に危険な物がないか本人の同意を得て確かめた。
持っていたのは、短い杖。
乾燥した飯。
水筒。
それに、針を通された小さな木札が三枚。
「それは?」
善十郎の顔が硬くなる。
「北の道で見つけた」
木札には、欠けた輪が描かれている。
中央を一本の針が貫いていた。
善十郎を土間へ通したあと、《道箱》の二冊目を開いた。
読む者は先ほどと同じ。
人の名が出れば、白い紙で覆う。
欠けた輪と一本の針の印は、最初の頁に記されていた。
『針借りの印』
「針を貸す人?」
かん太が尋ねる。
「最初は、そうやったらしい」
善十郎が答えた。
旅の途中で衣が裂けても、針と糸を持たない者がいる。
怪我をして、布を縫い合わせる必要があることもある。
そこで一部の受け場では、針、糸、布、食事を旅人へ渡した。
返せる者は、次の受け場へ同じ量を預ける。
返せない者は、荷運びや掃除を手伝う。
助け合いのための仕組みだった。
だが、やがて使い方が変わった。
『針一本を、針二本として返させる』
『粥一杯を、米一升として記す』
『返せぬ者の木札へ、針を通す』
『輪が閉じるまで、荷を運ばせる』
欠けた輪は、返していない借り。
一本の針は、その借りを取り立てる者の印だった。
「返し路を使うた人を追ってたんは、こいつらか」
お蓮が呟く。
「全部とは決められへん」
千早が言った。
「帳面に書かれとるんは、この受け場で起きたことや。ほかの土地まで同じやったとは限らん」
茶太郎は善十郎が持ってきた三枚の木札を見た。
「これは誰に付いてたん?」
「北の山道を歩いとった者や」
善十郎は、一人ずつ事情を話した。
一枚目は、病んだ母を背負う青年。
粥と一晩の寝床を借りた代わりに、北へ荷を運ぶよう言われた。
二枚目は、夫を亡くした女。
雨覆いを借り、返せない分を働くと約束した。
三枚目は、十二ほどの少年。
自分で借りたのではない。
父親の借りだと言われ、木札を渡された。
「子どもにも背負わせるん?」
茶太郎の声が低くなる。
「背負わせようとした。せやから止めた」
「その三人は?」
「別の場所へ移した。今のところ無事や」
「今のところ?」
「木札を外しても、記録を持つ者が追ってくる」
善十郎は三枚の札を机へ置いた。
「二十年前と同じや。受け場を辿って、人を見つけようとしとる」
「誰が?」
「分からん。名乗らん。欠けた輪の印だけを使う」
昔の《針借り》が戻ったのか。
誰かが古い仕組みを真似ているのか。
それすら確かではない。
「北の返し路を開けたら、その人らを追う道にもなる」
お蓮が言った。
「せやから閉じたままにせえ、と言うんか」
千早が善十郎を見る。
「今のままならな」
善十郎は答えた。
「道を知られずに人だけ助けるにも、限りがある。せやけど大勢が通れば、また跡を辿られる」
道を開けば、人を逃がせる。
同じ道を、追う者も使える。
閉じれば、受け場は守れる。
だが、助けを求める者が辿り着けない。
茶太郎は帳面を閉じた。
「すぐには開けへん」
「怖じ気づいたか」
「違うよ」
茶太郎は善十郎を見る。
「道を開く前に、追われた人が止まれる場所を作る」
「場所?」
「京の受け場と伏見の間に、名を言わんでも休める場所を一つ。借りを勝手に増やさへん決まりも作る」
「それだけで追っ手は止まらん」
「うん。せやから、木札を誰が作って、誰が渡してるかも大人が調べる」
弥七が頷いた。
「北へ入るんは、まず俺らだけや。子どもは京の受け場より先へ行かせん」
「ぼくも行きたい」
「行かせん」
「まだ何も言うてへんのに!」
「今、言うたやろ」
かん太が笑い、お蓮まで口元を緩めた。
決まったことは三つ。
北の返し路は、まだ開かない。
追われた者の名と居場所は、《道箱》へ書き足さない。
欠けた輪の木札を受け取った者を、借りがあるというだけで引き渡さない。
その日の夕方。
お澄から、もう一通の文が届いた。
『京の受け場に、若い女一人。
左手に欠けた輪の木札。
荷はなし。
名も言わず。
ただし、伏見へ行けば、借りを終わらせられるかと尋ねる』
茶太郎は文を握りしめた。
「借りを終わらせるんやない」
「ほな、どうする」
茶太郎は、針に貫かれた三枚の木札を見た。
「まず、その借りがほんまにあるんか確かめる」
北の道を開く前に——人を道へ縛りつける、見えない縄を解く仕事が始まった。




