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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
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第308話 「道を閉じた父と、黒い三角の意味」

 ――道を絶つことが、誰かを守る最後の手段になる夜もある――


 茶色い頭巾の男は、人混みへ紛れた。


「追うで!」


 かん太が戸口へ向かう。

 だが弥七やしちが、その肩をつかんだ。


「子どもは出るな」


「逃げてまう!」


「せやから大人が見る」


 友照ともてると海燕衆の女水夫が、男の後を離れて追った。


 捕らえるためではない。

 向かった方角と、誰に会うかを確かめるためだった。


 茶丸と白灯あかりも受け場へ残る。

 知らない者を追って、伏見の入り組んだ路地へ入る役目ではない。


 男は川沿いを北へ進み、薪を積んだ舟の陰へ消えた。

 友照たちは深追いしなかった。


「見失ったん?」


 戻ってきた友照へ、茶太郎が尋ねる。


「うん。せやけど、逃げ方が妙やった」


「妙?」


「こっちを撒こうとしたんやない。誰かに見つからんよう、顔を隠してた感じや」


 男が避けていたのは、茶太郎たちだけではないのかもしれない。


 《道箱》を追っている。

 けれど、奪おうとはしない。

 おれんと同じだった。


「ほな、箱の続き読もか」


 千早ちはやが言った。


「ただし、さっき決めた通りにする」


 三冊の帳面は、すべてを一度に出さなかった。


 最初の一冊だけを机へ置く。

 残りは《道箱》へ戻し、蓋を閉める。


 読み手の前には白い紙を細長く切ったものが並べられた。

 人の名が現れたら、その上へ紙を置いて隠すためである。


「名前を見んようにして、どうやって読むん?」


 かん太が不思議そうに尋ねる。


「道の部分だけ読むんや」


 茶太郎が答えた。


「名が必要になったときは、なんで必要か決めてから見る」


「面倒やな」


「面倒にせんと守れへん物もある」


 お蓮は黙ったまま、父の形見の木札を握っていた。

 帳面の最初には、五つの返し路が簡単な印で記されていた。


 一つ目。

 海を渡る路。

 大きな波の印の上に、太い横線が引かれている。


『船、戻らず。

 受け場、焼失。

 海路を休める』


 二つ目。

 南の島々を結ぶ路。

 これは千早たちが別の船で確認した路だった。


『潮と季節を知る者が減る。

 同じ船だけに任せず、二つの船で確かめること』


 千早の目が止まる。


「二十年前から、同じこと書いとる」


「同じ船だけの話を信じたらあかん、ってこと?」


「そうや。船が一つ戻っても、道が戻ったとは決められん」


 二つ目の返し路を別の船で確認した意味が、古い帳面にも残されていた。


 三つ目。

 伏見から京を通り、北の山へ向かう陸路。

 その頁には、人の名が多かった。


 茶太郎たちは白い紙で一つずつ覆う。


 宿の名。

 舟を出した者の名。

 怪我人を預かった寺の名。

 その間に、短い記録があった。


『北へ返した親子、後をつけられる。

 京の受け場、一つ知られる』


 次の行。


『子二人、移す。

 水場の印を削る』


 さらに次。


『この路を閉じる』


 お蓮の指が震えた。


「この字……」


「知ってるん?」


「父の字や」


 形見の木札へ書かれた文字と見比べる。


 跳ね方。

 墨を置く位置。

 『水』の最後を長く引く癖。


 同じだった。


「父が、道を閉じたんか」


 お蓮の声が低くなる。


「返し手やったのに」


 帳面には続きがあった。


『道を守れぬ者が、道を残してはならぬ。

 印を知る者が後をつければ、受け場ごと危うくなる。

 人を守るため、道を閉じる』


 父は返し路を裏切ったのではなかった。

 路を使って逃げる親子の後を、何者かが追ってきた。

 このまま道を残せば、次の受け場も、その次の家も知られる。


 だから印を削り、自ら道を絶った。


「なんで、うちには言わんかったんやろ」


 お蓮が呟く。


「言うたら、お蓮さんも巻き込まれると思ったんかも」


 茶太郎が答える。


「でも、それも決めつけたらあかんね。続きに書いてあるかもしれへん」


 お蓮は目元を押さえた。


「六つに慰められるとは思わんかった」


「また六つ言うた!」


「六つは六つやろ」


「そうやけど!」


 千早が小さく笑う。

 張りつめていた土間の空気が、少しだけ緩んだ。


 四つ目は、山を越える細い路。

 大吉山で見つけた《水抱き》の印が記されていた。


『水の筋、三つ。

 一つを山へ。

 一つを人へ。

 一つを次の道へ』


 茶太郎は、おかじの十二本の茶木を思い出した。

 山の水をすべて元へ戻さず、増えた分を茶木へ送った小さな分水。


「同じや」


「何が?」


 かん太が問う。


「水を一人占めせんように、三つへ分けてたんや」


 《水抱き》は、ただの場所を示す印ではない。

 水を山と暮らしと旅人へ分ける場所に付けられていた。

 水が偏れば、山が傷む。


 人へ寄せすぎれば、次の受け場へ届かない。

 山へ戻しすぎれば、そこで暮らす者が困る。


「返し路は、人の道だけやなかったんやな」


 伊平いへいが言った。


「水の使い方まで、道の一部やったんや」


 五つ目の頁は、途中から切り取られていた。

 残っているのは、黒い三角の印だけ。


「男の袖にあった印や」


 友照が言う。


「やっぱり、あいつが破ったんか」


「違う」


 お蓮が形見の木札を裏返した。

 これまで布に隠れて見えなかった角に、小さな黒い三角が描かれている。


「父の札にもある」


 千早が帳面をさらに調べた。

 黒い三角の横に、薄い文字が残っている。


『止め印』


「止め印?」


「この先へ進ませたらあかんと知らせる印や」


 黒い三角は、道を奪う者の印ではなかった。

 危険があるとき、返し手同士が道を止めるための印だった。


「ほな、茶色い頭巾の男も返し手なん?」


「印を盗んで使っとるだけかもしれん」


 弥七が答えた。


「まだ、どっちとも決められへん」


 そのとき、表の戸が三度鳴った。


 どん。


 間を置いて、二度。

 どん、どん。


 お蓮が立ち上がる。


「返し手の合図や」


 弥七はすぐ戸を開けなかった。


「名を言うてくれ」


 外から男の声がした。


善十郎ぜんじゅうろう。北の止め手を継いだ者や」


「証は?」


 戸の隙間から、小さな木札が差し入れられた。


 閉じた翼。

 三本の水。

 そして黒い三角。


 お蓮の札と似ている。

 だが、木の削り方も古さも違った。


「入れてええんか」


 かん太が小声で尋ねる。


「まだ」


 茶太郎は首を振った。

 印を持っていることと、信用できることは同じではない。


 弥七が戸越しに問う。


「なんで箱を追った」


「北の路を、勝手に開かせんためや」


「道を戻したくないん?」


「戻したい」


 善十郎の声には、迷いがなかった。


「せやから止める。二十年前に追ってきた者の印が、また北で見つかった」


 土間の全員が黙った。


「どんな印や」


 善十郎が戸の向こうで答える。


「欠けた輪の中に、一本の針」


 千早が《道箱》へ目を向けた。

 まだ開いていない二冊目の帳面。

 その背に、同じ印が焼き付けられていた。


 道を閉じた理由は、過去の中だけに残ってはいなかった。

 北へ続く返し路の先で——二十年前と同じ追跡が、再び始まっていた。


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『茶太郎がゆく』
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