第307話 「箱を盗まなかった追跡者」
――記録を残すことと、そこに書かれた人を守ることは、時にぶつかる――
見覚えのない草履跡は、一つではなかった。
受け場の裏手から土間へ近づき、窓の下で止まっている。
そこから再び裏道へ戻り、雨に濡れた石畳の上で消えていた。
「箱を見に来たんかな」
かん太が尋ねる。
「そうかもしれん」
弥七は足跡の横へ屈んだ。
「けど、盗みに来たとは限らん」
「追う者がおるって、千早さんが書いてたやん」
「追うことと、盗むことも同じやない」
茶太郎は青い水を思い出した。
見た目だけで、染屋を犯人にしなかった日。
足跡が箱へ向いているからといって、その主が敵だとは決められない。
「まず、何が残ってるか書こう」
足跡の長さ。
草履の緒が当たった跡。
右足だけ、踵が深く沈んでいること。
窓の下で立ち止まった時間は分からない。
箱へ触れた跡もなかった。
影猫衆は匂いを追って飛び出さなかった。
茶丸と白灯の仕事は、受け場の周囲で異変を知らせるところまで。
捕らえるかどうかを決めるのは、大人だった。
《道箱》は動かさない。
夜は弥七と友照が交代で見張る。
表の戸は閉めるが、誰かを捕らえる罠は作らない。
「また来たら、話を聞く」
「逃げたら?」
「追い詰めへん。顔と向かった方角を確かめる」
日が沈むと、伏見の受け場は静かになった。
川から荷舟の櫂が水を切る音が聞こえる。
遠くで犬が吠えた。
夜半を過ぎた頃。
土塀の向こうで、小石が鳴った。
「……ニャッ」
茶丸が低く知らせる。
白灯は裏口へ走らず、弥七の前へ回った。
「おるな」
弥七は灯りを持たず、友照と裏庭へ出た。
月明かりの下。
窓のそばに、一人の女が立っていた。
年は三十を過ぎたほど。
色褪せた頭巾をかぶり、左手に古い布包みを抱えている。
「動かんといてくれ」
弥七が声をかける。
女の肩が跳ねた。
だが、逃げなかった。
「箱を取りに来たんか」
「違う」
「ほな、何をしに来た」
「まだ、開けてへんやろな」
女は弥七ではなく、窓の向こうの《道箱》を見ていた。
「開けてへん」
「開けたらあかん」
「理由を聞かせてもらおか」
女はすぐには答えなかった。
翌朝。
伊平と受け場の主人も立ち会い、土間で話を聞くことになった。
女は、お蓮と名乗った。
伏見で舟荷の縄を繕い、荷札を書く仕事をしている。
右足を傷めているため、歩くと踵へ強く重みがかかる。
足跡とも一致した。
「どうして箱の印を知ってるん?」
茶太郎が尋ねる。
お蓮は抱えていた布包みを開いた。
中から現れたのは、小さな木札だった。
閉じた翼。
その下に、三本の線。
《道箱》の古い荷札に残っていたものと同じ印である。
「父の形見や」
「お父さんが、返し手やったん?」
お蓮は頷いた。
「海から来た者を舟へ乗せ、伏見から先へ送っていた。けど、二十年前に返し路が閉じてから、その話をせんようになった」
「なんで?」
「助けた者の中に、倭寇と呼ばれた者も、戦から逃げた者もおったからや」
誰かにとっての盗賊が、別の土地では家族を守る船乗りだったこともある。
戦を逃げた者が、敵方の間者と疑われることもある。
返し手たちは、名より先に怪我や飢えを見た。
だが、それを快く思わない者もいた。
「父は言うてた。《道箱》には、道だけやのうて、受け場を預かった者の名が残っとるって」
「名が分かったら、あかんの?」
「今もその家が残っとる。昔、誰を助けたか知られたら、責められる者もおる」
お蓮は茶太郎をまっすぐ見た。
「そなたらは道を戻したいんやろ。けど道だけ見て、人の名を表へ出したら、昔の傷まで開く」
「だから箱を盗もうとしたん?」
かん太が問う。
「盗んでへん」
お蓮の声が強くなる。
「箱を壊そうとも思うてへん。ただ、開ける前に止めたかった」
「ほな、最初から話しに来たらよかったやん」
「六つほどの子が、海と山の道を扱うとるなんて聞いて、信じられるか」
「また六つ言われた!」
茶太郎が頬を膨らませる。
緊張していた友照が、思わず吹き出した。
お蓮もわずかに目を伏せる。
「……そこは、悪かった」
「そこだけ?」
「勝手に覗いたことも謝る」
お蓮は頭を下げた。
だが、警戒は解いていなかった。
「もう一人おる」
その言葉に、弥七の顔つきが変わる。
「何の話や」
「堺から箱を追ってきた男や。京へ向かう荷車を見張っとった。伏見でも一度見た」
「どんな男?」
「茶色い頭巾。左の袖口に、黒い三角の縫い取りがある」
「知り合いか」
「知らん。せやけど、箱より荷札を見とった」
お蓮は箱を守るために追ってきた。
もう一人は、箱がどこへ届けられるかを確かめている。
同じ追跡者でも、目的は違っていた。
昼過ぎ。
千早が海燕衆の女水夫一人を連れ、堺から伏見へ到着した。
《道箱》の印と、お蓮の木札を見比べる。
「同じ返し手の印や」
千早が言った。
「この人には、開ける場へ立ち会う資格がある」
「資格なんて要らん。名を守ってくれたら、それでええ」
「なら、開け方を決めよう」
箱を開く者。
中身を読む者。
写す者。
見てよい範囲。
外へ伝えてよい内容。
そのすべてを、蓋へ手をかける前に決めた。
箱を開くのは、千早と弥七。
中を見るのは、お蓮、伊平、茶太郎を加えた五人まで。
人の名が出たら読み上げない。
名前の記録は別に包み、返し手の家と海燕衆の双方が認める場所で保管する。
道、水場、休み場の情報だけを写す。
「不都合な記録があっても、燃やしたらあかん」
茶太郎が言った。
「消したら、同じ失敗を辿れへんから」
「せやけど、全部を広めてもあかん」
お蓮が返す。
「うん。残すことと、見せることを分けよう」
決まりは帳面へ書かれ、立会人が印を付けた。
窓を開ける。
火を消す。
水と砂を離れた場所へ用意する。
茶丸と白灯は別室で待機させた。
安全かどうかを、猫に試させないためである。
千早が古い海縄を調べた。
結び目には封じの仕掛けはない。
弥七が新しい荷縄を外す。
最後に、お蓮が形見の木札を、蓋の印へ重ねた。
閉じた翼と三本の水が重なる。
かちり。
小さな音がした。
「鍵やったんか」
かん太が別室から声を上げる。
「覗いたらあかん!」
茶太郎が言い返す。
「声しか出してへん!」
蓋が、ゆっくり持ち上がった。
黴と古い木の匂い。
中には油紙で包まれた帳面が三冊と、細長い木札の束が収められていた。
金も宝石もない。
だが、一番上の帳面には、黒い墨でこう記されていた。
『五つの返し路について』
千早が最初の頁を開く。
人の名がないことを確かめてから、声に出した。
『一つは海で絶えた。
一つは山で眠った。
三つは、絶えたのではない。
人の手によって、絶たれた』
土間が静まり返る。
さらに、その下には新しい墨とは違う、赤茶けた文字があった。
『閉じた者は、返し路の印を持つ』
茶太郎は、お蓮の木札を見た。
同じ印を持つ者が、道を守った。
そして同じ印を持つ誰かが、道を閉じた。
受け場の外。
人混みの向こうで、茶色い頭巾の男が一度だけ振り返った。
左の袖口には——黒い三角が縫い取られていた。




