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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
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第306話 「名のない木箱と、逆向きに辿る荷札」

 ――届いた物の正体は、中身より先に、来た道が教えてくれる――


 伏見の受け場に、その木箱はあった。


 縦も横も、茶太郎の腕ほど。

 黒ずんだ板を組み、角には緑青の浮いた金具が打たれている。

 蓋にも側面にも、持ち主の名はない。


 ただ、蓋の中央に——。

 三本の流れを、小さな月が抱く印。

 大吉山で見つけた《水抱き》と同じ形が刻まれていた。


「これや」


 友照ともてるが箱を指した。


「届いてから誰も開けてへん。縄もそのままや」


「匂いは?」


 茶太郎が茶丸を見る。


「……ニャッ」


 茶丸は箱から離れた場所で鼻を動かした。

 白灯あかりも近づきすぎず、首を伸ばす。


「にゃ」


「何か生き物が入ってる匂いやないみたい」


 茶太郎は自分で触ろうとしなかった。

 知らない箱には、腐った物や薬、刃物が入っているかもしれない。

 霊の道具だから安全とも限らない。


「開けたら分かるやろ」


 かん太が言う。


「開けてしもたら、分からんようになることもあるよ」


「何が?」


「誰が、どんな縄で、どこへ送ったか」


 弥七やしちが箱の周囲へ縄を張り、子どもたちが近づく位置を決めた。

 伊平いへいは窓を開け、風が通るようにする。


 火も消した。

 まず調べたのは、中身ではなく外側だった。


 縄は二種類使われている。

 一つは、海水を吸って硬くなった太い縄。

 もう一つは、まだ新しい細縄だった。


「最初の縄が緩んだから、途中で結び直しとる」


 弥七が結び目を見る。


「こっちは船で使う結び方や。新しい方は荷車の結びやな」


 箱の底には、白い粒が固まっていた。


 茶太郎が顔を近づけようとすると、友照が肩をつかむ。


「見るだけ。舐めたらあかんぞ」


「舐めへんよ!」


「前に味で確かめようとしたやろ」


「ずっと前やもん!」


 白い粒は、布に取って別の皿へ置いた。

 清兵衛の染め水と同じで、見た目だけでは正体を決めない。


 海の塩かもしれない。

 漆喰や灰が付いただけかもしれない。


 箱の側面には、薄い擦り傷が何本も残っていた。

 同じ高さを横へ走っている。


「船の中で転がった傷か?」


 かん太が尋ねる。


「転がったら、角にも傷が増える」


 友照が答えた。


「これは、ほかの箱と並べて何度も出し入れした跡やと思う」


 木箱は一度だけ運ばれたのではない。


 長い間、どこかの倉で使われていた可能性がある。

 茶太郎は帳面を開いた。


『古い海縄』

『新しい荷縄』

『底に白い粒』

『側面に何度も運んだ傷』

『持ち主の名なし』


「次は、荷札やな」


 外側に残っていた荷札は三枚。


 一番新しい札には、


『京の受け場へ』


 と書かれている。

 その下の札は、雨と潮で文字が薄れていた。

 さらに古い札は、半分が剥がれている。


「濡らしたら読めるようにならへん?」


 かん太が言った。


「紙が崩れるかもしれへん」


 茶太郎は首を振った。


 以前、雨に負けた《水輪宿紙》を見つけたことを思い出す。

 読もうとして壊せば、残った手掛かりまで失う。

 札は剥がさず、箱へ付いたまま写し取ることになった。


 斜めから光を当てる。

 墨が消えていても、筆で押された跡がわずかに残っていた。

 友照が薄紙を重ね、炭を軽く滑らせる。


「出てきた」


 紙の上に、潰れた文字が浮かぶ。


『さ……かい』


「堺や」


 弥七が言った。


「けど、堺から来たんは最初から分かっとる。もっと前が要るな」


 古い札にも、同じように薄紙を重ねた。

 こちらは文字ではなかった。


 鳥の翼のような印。

 その下に、三本の短い線。


「海燕衆の印?」


 茶太郎が尋ねる。


「似とるけど、違う」


 弥七は目を細めた。


「海燕の尾は二つに分かれる。これは翼が閉じとる」


 箱を受け取った順番も確かめた。


 京都の受け場を預かるおすみ

 京都まで運んだ伏見の荷車。

 伏見へ持ち込んだ堺の馬借。

 一人ずつ話を聞き、日時と受け渡した場所を書き出す。


 誰も箱を盗んではいない。

 だが、誰も最初の持ち主を知らなかった。


「堺で積むとき、ほかの荷に交じっとった」


 馬借の男が説明した。


「船から下ろした者は、『返しの荷や』と言うとった。それで伏見行きへ載せたんや」


「誰に返す荷?」


「そこまでは聞いてへん」


「聞かずに載せたん?」


 茶太郎が問うと、男は顔をしかめた。


「ほかの荷には札があった。この箱にも京の札が付いとったからな」


 だが、その『京の受け場へ』という札は新しい。


 古い印を見た誰かが、京都へ送ると決めて付けたものだった。


「その人を探そう」


 茶太郎が言った。


「箱を開けるんは、それからや」


「堺まで行くんか?」


「まず文を送る」


 子どもだけで遠くへ向かう必要はない。


 シオに頼み、海燕衆の千早ちはやへ、箱の印と縄の形を写した文を届けることになった。


『月と三本の水の印。

 閉じた翼の印。

 持ち主の名なし。

 この箱を船から下ろした者を探してください。

 こちらでは、まだ開けません』


 返事を待つ間、箱は人の出入りが少ない土間へ移された。

 動かす前に、四方から形を写す。


 運ぶのは大人二人。

 箱の傾きも変えない。

 下には砂を敷いた浅い木枠を置き、もし液が漏れても広がらないようにした。


「ここまでせんでも、中はただの古道具かもしれんぞ」


 荷運び人が笑う。


「そうかもしれへん」


 茶太郎は答えた。


「でも、分からん間は、ただの古道具って決められへんから」


 その夜。


 箱には変化がなかった。

 匂いも、漏れも、音もない。

 翌日の昼過ぎ、シオが戻った。


「くるっ!」


 脚には千早からの返書。

 弥七が送り印を確かめ、皆の前で文を開く。


『箱を下ろした者、見つけた。

 二つ目の返し路を確かめた船の、水夫なり。

 箱は船荷にあらず。

 海の向こうの古い受け場で、壁の中から見つかった。

 名がないのは、誰か一人の物ではないため。

 閉じた翼は、二十年前の返し手の印。

 月と三本の水は、水場、休み場、分かれ道の印。

 箱を開く前に、底板を見よ。 千早』


「底板?」


 かん太が箱を覗き込む。


「さっき見たやろ。白い粒しかなかったで」


「置いたまま見える底やないんかもしれん」


 弥七たちは木箱を持ち上げず、周囲の木枠を外した。

 伊平が長い手鏡を床へ置き、箱の下へ差し入れる。

 外から差し込む光を、もう一枚の鏡で底へ送る。

 暗かった底板に、細い線が浮かんだ。


「何かある」


 鏡の中に現れたのは、刻まれた道だった。


 海辺らしい波の印。

 川を示す一本の線。

 その線は三つに分かれ、山の形へ続いている。

 途中には、月と三本の水の印が四つ。


 そして最も端に刻まれた山の形は——大吉山で見つけた平石の向きとよく似ていた。


「これ、箱やない」


 茶太郎が呟く。


「道を運ぶための物や」


 千早の文には、続きがあった。


『その箱は、返し路を次の土地へ渡すための《道箱》。

 中身は、道を使う者たちが残した記録と思われる。

 ただし、二十年閉じた箱なり。

 開けるなら、海燕衆の立会いを待たれよ。

 箱を追う者が、ほかにもいる』


 土間の空気が変わった。


「追う者?」


 友照が入口を見る。

 茶丸の耳が立つ。

 白灯は窓の外へ顔を向けた。


「……ニャッ」


 受け場の裏手。

 雨上がりの土に、見覚えのない草履の跡が一つ残っていた。


 爪先は、道ではなく——《道箱》を置いた土間へ向いていた。


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『茶太郎がゆく』
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