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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
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第305話 「空いた寝床と、歩いて会える道」

 ――離れていることと、縁が切れることは同じではない――


 大吉山から宇治へ戻る朝。


 ウリハだけが、山小屋の前から動かなかった。

 白い猪の母は、まだ長く歩けるほど回復していない。

 身体を起こせるようにはなったが、後ろ脚には力が戻りきっていなかった。


「ウリハ」


 茶太郎が呼ぶ。


「帰らへんの?」


 ウリハは母と、山を下る道を交互に見た。


「……うり」


 小さな蹄が土を掻く。


 秘密基地へ戻りたい。

 けれど、ようやく見つけた母のそばにもいたい。

 どちらかを選ばなければならないと思っている顔だった。


「今日、一緒に帰らんでもええよ」


 茶太郎が言った。


 ウリハの耳が立つ。


「でも、秘密基地から出ていくってことでもないから」


「うり?」


「お母さんが歩けるようになるまで、ここにおったらええ」


 かん太も頷いた。


「俺らが交代で様子を見に来る。山の道は大人と一緒にやけどな」


 弥七やしちが念を押す。


「勝手に登ったらあかんぞ。雨の後は特にな」


「分かってる」


「返事だけは早いな」


 白い猪の母が、鼻先をウリハの背へ当てた。

 押したのではない。

 ここにいてよいと伝えるような、静かな触れ方だった。

 ウリハは母の腹へ寄り添った。


「うり……」


 その声を聞き、白灯あかりが山小屋の入口へ座る。


「にゃ」


 茶丸は何も言わず、ウリハの前へ小さな木片を置いた。

 秘密基地で、ウリハが寝床の横へ置いていたものだ。


 片面に、丸い茶葉の印。

 反対側には、白灯が爪で付けた三本の線がある。


「……ニャッ」


 帰る場所は残しておく。


 茶丸は、そう告げているようだった。

 宇治へ戻った茶太郎たちは、すぐ秘密基地へ向かった。


 縁扉えんぴの前では、レオとシロが待っていた。


「おかえり!」


 レオが飛び出す。


「遅い!」


 シロも駆け寄ったが、その視線は一行の後ろを探していた。


「ウリハは?」


「お母さんのそばに残ったよ」


 茶太郎が答える。


「帰ってこないの?」


「今はね」


 レオの耳が下がった。

 シロはウリハの寝床を見た。


 乾いた藁。

 欠けた木の実の器。

 半分埋めたまま忘れられている団栗。


「片づける?」


 レオが尋ねた。


「片づけへん」


 茶太郎は即座に答えた。


「でも、ずっとそのままやったら藁が湿る」


 かん太が藁を確かめる。


「一回干して、戻そか」


「戻すん?」


「帰ってきたとき、寝床がなくなってたら困るやろ」


 皆で藁を外へ運び、日の当たる場所へ広げた。


 木の実の器は洗い、よく乾かす。

 団栗は腐っていたため、土へ埋めた。


 残しておくことは、放っておくことではない。

 帰れる状態を手入れし続けることだった。


 縁扉の光は、以前より少し明るくなっていた。

 若葉色の輪郭が、呼吸するように淡く明滅している。


「山の水を戻したから?」


 レオが尋ねる。


「たぶん」


 茶太郎は扉へ触れなかった。


「でも、一回の雨で全部直ったとは言えへんよ」


「じゃあ、開けてみる?」


「細い隙間だけ」


 地面へ手を当て、周囲の霊力の流れを確かめる。

 扉は、もともと生き物を運ぶためのものではない。

 葉や文、小さな器を渡すだけでも、大吉山の力を借りる。

 人や獣を通そうとすれば、土地へ大きな負担がかかる。


「ウリハを、扉で帰したら早いのに」


 レオが呟いた。


「早いけど、山がまた弱ったらあかん」


 茶太郎は細い紐の先へ木札を結んだ。


『ウリハへ。

 寝床の藁を干しました。

 団栗は一つ腐っていました。

 帰るときは、大人と一緒に歩いてきてください』


「団栗のこと要る?」


 シロが首を傾げる。


「要るよ。ウリハのやもん」


 縁扉を指二本ほど開く。

 冷たい山の空気が、細い隙間から流れ込んだ。


 茶丸と白灯は扉から離れて見守る。

 安全を猫に試させることはしない。

 かん太が紐を少しずつ送り、木札だけを向こう側へ落とした。


 すぐに扉を閉じる。


 光は、消えなかった。

 だが、わずかに薄くなった。


「文一枚でも、力を使うんやな」


 シロが言った。


「ほな、何でも送ったらあかんね」


 茶太郎は《縁扉送り帳》を開いた。


『木札一枚』


『扉を開けた間、十を数えるまで』


『光、少し弱まる』


 次に開くのは、光が戻ってから。

 急ぎでなければ、人が歩いて届ける。

 その決まりも書き加えた。


 昼を過ぎた頃。

 こん。

 縁扉の向こうから、一度だけ音がした。


 少し間を置いて、

 こん、こん。


 一つと、二つ。


 ウリハたちが無事だと知らせる合図だった。


「返事きた!」


 レオが跳び上がる。


「開ける?」


 シロが尋ねる。


 茶太郎は扉の光を見た。

 まだ、完全には戻っていない。


「開けへん」


「返事を返さなくていいの?」


「もう返事はもらったから」


 茶太郎は扉の前の床を、指先で叩いた。


 こん。

 こん、こん。


 木と土を伝った音が、向こうまで届くかは分からない。

 それでも、光を使わない返事だった。


 夕方。


 干した藁を秘密基地へ戻し、ウリハの寝床を作り直した。

 白灯が新しい団栗を一つ置く。

 シロは落ち葉を丸く敷いた。


 レオは木片へ、


『ウリハの場所』


 と書こうとして、字を間違えた。


『ウリラの場所』


「誰やねん」


 かん太が笑う。


「似てるからええやろ!」


「よくない!」


 秘密基地に、久しぶりの笑い声が響いた。

 そのとき、入口の方から羽音が聞こえた。


「くるっ」


 青灰色のアオバト、シオが降りてくる。

 脚には、伏見の送り印が付いた文が結ばれていた。


 弥七が印を確かめてから開く。


「京都の受け場からや」


 文を書いたのは、京の小さな受け場を預かる女、おすみだった。


『堺から届いた荷に、持ち主の分からぬ木箱が一つ。

 木札に名はなく、月と三本の水の印あり。

 勝手に開けず、伏見へ預けます』


 茶太郎の表情が変わった。


 月と、三本の水。

 大吉山の平石に刻まれていた《水抱き》と同じ印だった。


「山の印が、なんで堺から来た荷に付いてるん?」


 かん太が問う。

 誰も答えられない。

 ただ、山に残された古い水の印が、大吉山だけのものではなかったことは分かる。


 茶太郎はウリハの空いた寝床を見た。

 次にここへ帰る者の場所を守りながら。

 遠くから届いた、持ち主の分からない箱の行き先も確かめなければならない。


「伏見へ行こう」


 茶太郎が言う。


「箱は開けへんよ。まず、どこから来たかを辿る」


 大吉山で見つけた三本の水は——堺から届く海と陸の道へ、静かにつながり始めていた。


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『茶太郎がゆく』
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