↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
PR
316/339

第304話 「十二本の茶木と、戻しすぎない水」

 ――元へ戻すだけでは、今そこにある暮らしを守れない――


 茶畑を作った者は、昼を過ぎても現れなかった。

 茶太郎たちは若い茶木へ近づかず、道から少し離れた木陰で待った。


 勝手に水路を塞がない。

 勝手に茶木を抜かない。

 畑の持ち主が分からないうちに、正しい形を決めない。


「待つんも、調べるうちや」


 弥七やしちが言った。


 茶丸は木陰で丸くなり、白灯あかりは風に揺れる茶葉を目で追っている。

 ウリハは母親のそばから離れなかった。

 白い猪の母は横になったまま、鼻先を古い水路へ向けている。


「水、まだ足りない?」


 茶太郎が尋ねる。


「足りないというより、偏っている」


 ナギが答えた。


「流れる水が全部、あちらへ行っている。山肌へ残る分が少ない」


「全部戻したら?」


「茶木の方が乾く」


「困ったね」


「うん。水は、困っていないけどね」


 ナギは尾を揺らした。


「行ける方へ行っているだけだから」


 困っているのは、水を必要とする者たちだった。

 日が傾き始めた頃、坂の下から籠を背負った女が上ってきた。


 四十ほど。


 袖を肘までまくり、手には小さな鍬を持っている。籠の中には落ち葉と藁が詰められていた。


 女は茶太郎たちを見ると、足を止めた。


「その茶木に、何かしたんか」


「何もしてへんよ」


 茶太郎が答える。


「おばちゃんが植えたん?」


「おかじや。おばちゃんやない」


「ごめんなさい、お梶さん」


 お梶は若い茶木を一本ずつ確かめた。

 葉を裏返し、根元の土を指で掘る。

 最後に、新しく引かれた水路へ目を向けた。


「水を戻しに来たんか」


「まず、なんでこっちへ引いたんか聞きに来た」


「聞いて、どうする」


「両方が困らへん方法を探す」


 お梶は警戒を解かなかった。


「そんな都合のええ話、あるかいな」


 十二本の茶木は、もとは京の屋敷跡に残っていたものだった。

 火事で庭が荒れ、植木を片づける際に、茶木も抜かれることになった。

 捨てるくらいならと、お梶が譲り受けた。


「亭主が死んでから、炭焼きの手伝いと山菜だけでは足りんようになった。茶が育てば、葉を売れると思ったんや」


 だが、植え替えた茶木は次々に萎れた。


 お梶は山の斜面を探し、土の下を流れる細い水を見つけた。


 月を抱くような印の石も見たが、半分埋もれ、古い水路は落ち葉に塞がれていた。


「もう使われてへん水やと思った」


 源爺げんじいが石の方角を見た。


「使われてへんのやない。使っとることが、見えにくい水や」


「猪のためか」


「猪だけやない。木の根も、苔も、斜面の土も使う」


 お梶の顔が強張った。


「ほな、茶木を抜け言うんか」


「まだ誰も、そない言うてへん」


 伊平いへいが静かに答えた。


「ただ、このまま全部の水を引けば、次の大雨で上の土が崩れるかもしれん」


「大雨が来るかどうかも分からんやろ」


「来てから分かっても遅い」


 お梶は鍬の柄を強く握った。


「この茶木も、水を止めたら枯れる」


 どちらも嘘ではなかった。

 山を守るために水を戻せば、茶木が傷む。

 茶木を守るために流し続ければ、山の傷が広がるかもしれない。


 茶太郎は茶木の根元を見た。

 お梶が持ってきた藁。

 伏見で、荷を雨から守る布を重ねたこと。

 水路の水だけに頼らず、雨を残す方法。


「ずっと流すんやなくて、雨のときだけ分けられへんかな」


「どういうことや」


「普段の細い水は、元の道へ戻す。水が増えたときだけ、あふれた分を茶木へ送るん」


 源爺が地面へ枝で線を引いた。

 古い三本の水路。

 その一つから少し離れた位置に、浅い溝を一本。


「ここへ低い切り込みを作る。水が少ない間は古い道へ流れる。増えたときだけ、切り込みを越えて畑へ行く」


「雨が降らんかったら?」

 お梶が問う。


「雨を溜める」


 かん太が籠の藁を指した。


「桶とかめを置いて、根元には藁を敷いたらええ。土が乾きにくうなる」


「水を溜めたら虫も湧くぞ」

 弥七が言った。


「蓋が要る。子どもが落ちへん場所に置いて、使わんときは閉める」


「甕を買う銭はない」


「割れて水を入れられへん甕なら、伏見の繕い所にある」

 茶太郎が言った。


「でも、勝手に持ってきたらあかんから、数を聞いてから頼む」


 お梶はしばらく黙っていた。


「それで、十二本とも助かるんか」


「分からへん」


 茶太郎は首を振った。


「植え替えで弱ってる木もある。水を増やしても、全部は助からへんかもしれない」


「子どものくせに、景気の悪いこと言うな」


「六つやから、育つって嘘ついたらあかんねん」


「六つなんか!」


「そこ驚くん?」


 お梶の口元が、ほんの少し緩んだ。

 作業は大人たちが行った。


 源爺が古い水路の高さを見定め、伊平と弥七が石と木片で小さな分水を作る。


 茶太郎とかん太は斜面から離れ、使った物と場所を帳面へ記した。


 マキトは、踏み込んではならない柔らかな地面へ白い印を残す。


 ナギは流れの偏りを確かめた。


「右、少し多い」


「石を一枚足すか」


「足しすぎ。薄いのを半分」


 ナギの言葉を聞き、源爺が石を選ぶ。

 霊が水を動かしたのではない。

 水の行き先を読み、人が流れを整えた。


 お梶は茶木の根元へ藁を薄く敷いた。

 幹へ触れないよう、少し間を空ける。


「厚う敷いた方が乾かへんのと違うか」


「蒸れて根元が傷むかもしれへん」


 茶太郎が答えると、お梶が睨んだ。


「ほんまに六つか」


「また言われた!」


 夕方、細い流れが古い水路へ戻った。


 三つに分かれた水は、乾いていた苔を濡らし、白い猪の母が休む山肌の方へ染み込んでいく。

 茶畑へは流れなかった。


 お梶は不安そうに十二本を見た。


「これで雨が来なんだら、甕の水やな」


「土と葉の様子も書こう」


 茶太郎は新しい帳面を開いた。


『水を分けた日』

『茶木の葉の向き』

『根元の湿り』

『山肌の割れ』


 成功とは書かない。

 失敗とも、まだ書けない。

 試している途中だった。


 その夜、茶太郎たちは山の小屋へ泊まった。

 空には雲が集まり始めている。

 遠くで、低い雷が鳴った。


 ぽつり。

 屋根へ雨粒が落ちる。


 また一つ。

 やがて、細かな雨音が山を包んだ。


「来たね」


 茶太郎が窓の外を見る。


「強い雨になるかもしれん。夜は見に行かへんぞ」


 弥七が釘を刺した。


「うん。朝まで待つ」


 山道も斜面も、暗い雨の中で確かめる場所ではない。


 翌朝。


 大人たちが先に分水を調べた。


 古い三本の水路には、水が流れている。

 増えた分だけが低い切り込みを越え、茶畑の浅い溝へ入っていた。


 十二本の根元へ、水が一度に押し寄せないよう、途中の小石が勢いを弱めている。


「動いとる」


 お梶が息を吐いた。

 だが源爺は、分水の木片を指で押した。


「一晩の雨には耐えた。大雨に耐えるとは限らん」


 帳面には、

『初めの雨、流れあり』

『山肌、新しい割れは見えず』

『茶畑、水が溜まりすぎた場所一つ』

 と記した。


 溜まった場所の溝は、少しだけ浅く直した。

 その日の夕方、宇治の秘密基地から文が届いた。

 レオとシロが、青羽便へ預けたものだった。


『扉の光、減るの止まった。

 まだ弱い。

 でも昨日より、少しあったかい。 レオ、シロ』


 ウリハが母親へ文を見せる。

 白い猪の母は文字を読めない。

 それでも茶太郎が読み上げると、鼻先でウリハの背を押した。


「戻ってきたんやね」

 茶太郎が言う。


「全部やないけど」


 水も。

 山も。

 茶木も。


 誰か一つのために、ほかを元通りにはできない。

 だから少しずつ分け、雨のたびに確かめる。


 新しい水路に必要だったのは、誰かを退かせる正しさではなく——隣に残る暮らしまで数えることだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
面白いと思っていただけたら、ぜひブックマークや評価(★)をお願いします!
『茶太郎がゆく』
style=
目次からブックマークをお願いします
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。