第298話 「名のない旅人と、届かなかった葦の印」
――人には荷札ではなく、待っている人との約束が必要になる――
茶太郎たちは、京へ戻ることになった。
伏見の葦屋から来たはずの旅人が、下京の井戸端で倒れている。
その手には、葦の印を刻んだ木札。
だが、名も行き先も分からない。
「葦屋を通った人なら、帳面に残ってへんかな」
茶太郎が尋ねる。
庄兵衛は、前日の記録を開いた。
荷の帳面とは別に、宿泊した者と、馬を休ませた者の控えがある。
「京へ向かった者は七人や」
「七人も?」
「伏見は、人も荷も集まる場所やからな」
京へ商いに行く者。
寺を訪ねる者。
家族のもとへ帰る者。
仕事を探す者。
庄兵衛は一人ずつ読み上げた。
だが、誰が倒れた旅人なのか、葦の印だけでは分からない。
「その札は、宿を出る者へ渡しとったん?」
「いや」
庄兵衛が首を振る。
「初めて京へ行く男にだけ渡した」
男の名は、伊助。
堺から来た四十ほどの大工だった。
京の復興で人手が必要だと聞き、仕事を探しに来たという。
「なら、倒れた人は伊助さん?」
「まだ決められへん」
弥七が言った。
「葦の札を拾った別人かもしれん。誰かから預かった可能性もある」
庄兵衛は帳面へ目を落とした。
「わしは、下京へ着いたらこの札を見せろと言うた」
「誰に?」
「焼け跡で粥を炊いとる者へや」
「お澄さんの名前、伝えた?」
「……伝えてへん」
「場所は?」
「井戸の近くと言うた」
「井戸、いっぱいあるよ」
葦の印があれば、伏見から来たことは伝わる。
しかし、その印を京の誰が知っているのか、決めていなかった。
受け取る側へも、伊助が来ることを知らせていない。
印はあった。
けれど、縁は最後までつながっていなかった。
「わしの失敗や」
庄兵衛が立ち上がった。
「京まで行く」
庄兵衛を一人にせず、弥七と荷運びの若者も同行することになった。
茶太郎とかん太も、そのそばを離れない。
茶丸と白灯は道の左右を警戒した。
下京へ着くと、旅人は井戸近くの仮小屋へ移されていた。
土地の医師が診ている。
「熱と疲れがある。水は飲めておるが、まだ無理に話させてはならん」
茶太郎は旅人へ近づかなかった。
「ぼく、何か作る?」
「今は医師の指図が先や」
弥七が止める。
茶太郎は頷いた。
料理を作れることと、病の者へ勝手に食べさせてよいことは別だった。
お澄が、小さな椀へ冷ました湯を用意している。
「倒れた時、この札だけは離さへんかった」
葦の木札が、布の上へ置かれていた。
旅人の荷物は、勝手に開けていない。
道具袋と風呂敷を、見つけた時のまま二人で預かっていた。
「中を見たら、名前の分かる物があるかもしれへん」
かん太が言う。
「せやけど、本人に聞けへんうちに開けるのは違うよ」
茶太郎は旅人を見た。
命に関わる物を探す必要があるなら、医師と大人が立ち会って調べる。
だが、今は呼吸も落ち着き、水も飲めている。
急いで持ち物を探る理由はなかった。
「葦屋に来た伊助さんかもしれへん、ってところまで伝えよう」
「本人やと決めへんのか」
庄兵衛が尋ねる。
「起きたら、自分で名前言えるかもしれへんから」
その夜、旅人は眠り続けた。
お澄たちは交代で様子を見た。
医師が飲ませる湯の量と、身体の熱を確かめる。
庄兵衛も仮小屋へ残った。
「わしが京まで案内すればよかった」
「宿の仕事があるやろ」
「せめて、誰が待っとるか確かめるべきやった」
「次から直せるよ」
「何でも、その言葉で済ませる気か」
「済ませへんよ」
茶太郎は言った。
「直すところを決めんと、また同じになる」
翌朝。
旅人の目が開いた。
お澄が医師を呼び、茶太郎たちは少し離れて待つ。
しばらくして、医師が庄兵衛を招いた。
「顔を確かめてもらいたいそうだ」
庄兵衛が旅人の前へ座る。
「伊助さんか」
男は、ゆっくり頷いた。
「……葦屋の」
「庄兵衛や。覚えとるか」
「覚えてる」
かすれた声だった。
それでも、自分の名を自分で答えた。
伊助は伏見を出たあと、教えられた通り下京の井戸を探した。
だが、井戸はいくつもある。
葦の札を見せても、知る者がいなかった。
「焼け跡の炊き出し場を聞いたけど……場所が移った言われてな」
道を整えるため、粥鍋は前より井戸の奥へ移されていた。
前日に決めた変更だった。
伏見の庄兵衛は、それを知らなかった。
「歩き回ってるうちに、足が動かんようになった」
「なんで、伏見へ戻らへんかったん?」
茶太郎が尋ねる。
伊助は目を閉じた。
「京で仕事を見つけるまで、戻らんつもりやった」
道具袋の中には、大工道具が入っている。
家を焼かれたわけではない。
堺で請けていた仕事が減り、食べさせなければならない家族を残して来た。
「手ぶらで帰ったら、何のために来たか分からへん」
お澄が伊助の荒れた手を見た。
「仕事なら、あります」
「ほんまか」
「仮小屋の柱も、古材を立てる支えも、直せる人が足りません。せやけど、身体が戻ってからです」
「今日からでも——」
「倒れた人に屋根を任せて、また倒れられたら困ります」
お澄は、きっぱり言った。
「働けるかは、先生に診てもろてから決めます」
伊助は困ったように笑った。
「厳しいな」
「京で暮らす人を守る仕事ですから」
伊助の行き先は見つかった。
だが、偶然お澄たちの近くで倒れたからつながっただけだった。
次も同じように見つかるとは限らない。
庄兵衛は葦の札を握る。
「人にも、荷札みたいに名前と行き先を書いた方がええんやろか」
「それは嫌な人もおると思う」
茶太郎が答えた。
名を知られたくない者。
追われている者。
家族の事情を隠したい者。
旅の目的を、誰にでも見せたくない者。
荷物と同じように、人へ札を付けることはできない。
「ほな、どうする」
伊助が口を開いた。
「行き先の印も、もろたらよかった」
「行き先の印?」
「葦の印だけやと、伏見から来たことしか分からん。京で探す印があれば、その家を探せた」
お澄は、粥をよそう椀を見た。
「うちなら、椀の印やね」
葦屋を出る時。
行き先の者が待っていることを、先に文で確かめる。
旅人が望む場合だけ、出発地と受け入れ先の二つの印を刻んだ札を渡す。
名や詳しい事情は、外から見える札へ書かない。
到着する日が遅れた時は、シオや次の便で知らせる。
そして受け入れる側も、同じ印を入口へ掲げる。
葦と椀。
二つの印が並んだ木札が作られた。
下京の炊き出し場にも、同じ札を掛ける。
「これなら字が読めへん人にも分かる」
伊助が言った。
「でも、札だけ見て知らん人を中へ入れたらあかんよ」
茶太郎が付け加える。
「先に来るって聞いた人か、大人が二人で確かめる」
「六つのくせに用心深いな」
「また六つ言われた!」
仮小屋に笑いが広がった。
数日後。
医師の許しを得た伊助は、短い時間だけ仕事を始めた。
最初に直したのは、住まいではない。
井戸から炊き出し場へ続く道に立てる、小さな案内柱だった。
葦。
椀。
白い矢印。
荷車の通り道を避け、人が安全に歩ける方角へ向ける。
「これで迷わへん?」
茶太郎が尋ねる。
「昼はな」
伊助が答えた。
「雨で印が薄れるかもしれん。夜は見えへん。倒されることもある」
「ほな、まだ確かめなあかんね」
「せや」
伊助は柱を揺らし、根元の固さを確かめた。
伏見と京の間に、荷だけでなく人を迎える道が生まれ始めた。
夕方。
お澄のもとへ、三人の旅人が訪れた。
全員が、葦と椀の札を持っている。
「伊助さんに、大工の仕事があると聞きました」
「私は炊事を手伝えます」
「子どもを連れてきたんですが、泊まれる場所はありますか」
お澄の顔から笑みが消えた。
仕事はある。
しかし、寝床は足りない。
粥にも限りがある。
受け入れる人が増えれば、今いる者たちの暮らしが圧迫される。
縁を結ぶ印はできた。
けれど——結んだ縁を、どこまで受け止められるかは決まっていなかった。




