第297話 「合わない印と、止めて守った最初の荷」
――早く運ぶことより、間違ったまま渡さないことが道を守る――
「船が見えたぞ!」
葦屋の若い奉公人が声を上げた。
伏見の船着き場へ、堺からの船が近づいてくる。
低い船腹。
海燕の印を付けた帆。
積まれているのは、薬種と乾物を入れた六つの木箱だった。
茶太郎は庄兵衛たちと、葦屋の荷置き場で待っていた。
弥七とかん太も一緒である。
「これが最初の荷か」
「うん。でも、一箱だけ印が合わへん」
茶丸と白灯は荷を降ろす板場から離れている。
荷縄が外れたり、箱が滑ったりすれば危ないからだ。
船が岸へ着いた。
船頭と葦屋の者が声を掛け合い、一箱ずつ荷を下ろす。
「一つ目、海燕」
船頭が箱の印を見せる。
庄兵衛が帳面を確かめる。
「薬種。黄柏の皮、一箱」
船の印。
中身を示す木札。
送り先。
三つを確かめてから、葦屋の葦印を付ける。
二つ目。
三つ目。
乾燥させた茸。
昆布。
生姜。
どれも書付と合っていた。
そして、六つ目。
「これやな」
船頭の声が低くなる。
箱の側面には海燕が刻まれている。
だが、蓋を縛る木札にあったのは、羽を広げた鳥ではなかった。
尾の長い魚に見える。
「海燕やない」
庄兵衛が言った。
「水霊の印にも似てるけど、ちょっと違う」
茶太郎も近づこうとしたが、弥七に肩を止められた。
「荷下ろしが済むまで待て」
「うん」
荷運びの若者が、京へ向かう荷車を用意していた。
「ほかの五箱だけ先に積むか?」
「待て」
庄兵衛が止める。
「書付では、六箱まとめて京へ届けることになっとる」
「一箱のせいで全部止めるんか。日が暮れるぞ」
「合っとる五箱まで止める必要はないかもしれん」
庄兵衛は考えた。
「せやけど、誰が何箱受け取ったか決めずに分けたら、あとで分からんようになる」
最初の受け場で、いきなり決まりにないことが起きた。
茶太郎は軒下の木札を見た。
船。
宿。
荷車。
三つの印だけでは足りない。
「合わへん荷を置く場所がいるね」
「置く場所?」
「ほかの荷と混ざらへん場所。誰も勝手に開けへんところ」
葦屋の荷置き場には、壁際に一段高くした板敷きがあった。
雨漏りはない。
火を使う部屋からも離れている。
庄兵衛が縄を張り、木札を下げた。
『印、合わず。
開けずに預かる』
文字の下には、止まった車輪の印を刻む。
「止め印や」
荷運びの若者が言った。
「悪い荷の印やないよ」
茶太郎が首を振る。
「確かめるまで動かさん印」
六つ目の箱は、そこへ置かれた。
庄兵衛。
船頭。
荷運びの若者。
三人が、縄も封じも切れていないことを確かめる。
「中で音はするか」
船頭が尋ねる。
「揺らしたらあかん」
弥七が止めた。
「薬なら、瓶が入っとるかもしれん。音を確かめるために壊したら意味がない」
茶丸と白灯が、荷下ろしの終わった板場へ近づいた。
茶丸は箱の周囲を一度回る。
「……ニャッ」
白灯も鼻を動かした。
「にゃ」
「変な匂い、する?」
茶太郎が尋ねる。
茶丸は箱ではなく、蓋に結ばれた木札へ前足を向けた。
白灯も同じ場所を見ている。
弥七が布越しに木札を外した。
「潮の匂いやな」
「箱は、そんなに潮臭くない」
庄兵衛が側面を嗅ぐ。
「木札だけ、海水を吸うとる」
果心が札を裏返した。
「片面だけ色が濃い。水に浸かったようですな」
「海で札を替えたんかな」
「まだ決められへん」
茶太郎たちは、シオに託す文を作った。
『六つ目の木札、海燕にあらず。
箱と縄に破れなし。
開けずに葦屋で預かる。
堺を出た時の印と、途中で替えたかを確認願う』
庄兵衛が葦の印。
船頭が船の印。
茶太郎が水輪の印を添える。
シオは文を付けると、堺の方角へ飛び立った。
「返事を待つなら、今日は京へ着かへん」
荷運びの若者が空を見上げる。
「五箱は送ろう」
庄兵衛が決めた。
「ただし、京の受け取り側へ、六箱のうち五箱だけ先に渡すと書く」
「一箱足りへんと思われへん?」
「せやから、足りへん理由も書くんや」
新しい木札が作られた。
『六箱のうち五箱。
一箱は印を確かめるため伏見に留める』
荷車へ五箱を積む。
数は庄兵衛と若者が別々に確かめた。
弥七は縄の締まりを見た。
果心は術を使わず、積み方を横から眺めている。
「果心さん、手伝わへんの?」
「幻の箱を一つ増やしましょうか」
「増やしたら数が分からんようになる!」
「冗談ですぞ」
荷車が動き出す。
軒下には、印の合わない一箱だけが残った。
その姿を見て、庄兵衛は落ち着かなさそうに腕を組む。
「荷を止めるんは、運ぶより怖いな」
「なんで?」
「腐ったらどうする。送り主が怒ったらどうする。急ぐ薬やったら、誰かが困る」
「ほな、止めた時も時刻を書こう」
茶太郎が言った。
「いつから止まってるか分かったら、待てるか、先に知らせるか決められる」
木札に、船が着いた時刻を加える。
中身が分からない以上、日なたへは置かない。
濡らさない。
火へ近づけない。
箱には触れず、外側の変化だけを交代で見ることになった。
夕方。
空から羽音が聞こえた。
「くるっ!」
シオが戻ってきた。
脚には千早からの返書がある。
『堺を出た時、六つ目も海燕の札。
河口で波を受け、札のみ流失。
船上に予備の海燕札なく、船頭補佐が自分の里印を付けた。
尾長魚は摂津・鯵生の印。
中身は乾燥させた柳皮。
京の薬師へ急ぎ届けたい。
交換を記録せず。こちらの不備。 千早』
庄兵衛が船頭を見る。
船頭は首を振った。
「わしは聞いてへん。河口では帆と船腹を見るので手いっぱいやった」
「札を替えた人は?」
「堺へ戻った。悪さをしたわけやない。荷を見失わんよう、自分の里印を付けたんやろ」
「でも、書いてへんかった」
善意で札を替えた。
箱を守ろうとした。
その判断そのものが悪かったわけではない。
ただ、次の人へ伝えなかったため、伏見で荷が止まった。
「開けてええんか?」
庄兵衛が尋ねる。
「返事だけで決めん方がええ」
弥七は、千早の文と箱を見比べた。
箱の大きさ。
縄の結び方。
側面の海燕印。
堺を出た日。
船頭が持つ積荷の控え。
すべて一致している。
「開けずに京へ送れる」
「中身を見んでええの?」
「中身を守るための封じや。外の記録がつながったなら、ここで破る必要はない」
庄兵衛は、止め印の木札へ続きを書いた。
『鯵生の里印と確認。
河口で札を交換。
堺の返書、船の控え、箱の印が一致。
封じを切らず、京へ送る』
止まった車輪の横へ、再び回り始める車輪を刻む。
夜道は進ませない。
柳皮の箱は翌朝、一番の荷車で京へ送ることになった。
「急ぎやのに、朝まで待つん?」
「暗い道で荷車を急がせたら、箱だけやなく人も危ない」
庄兵衛が答えた。
「今から京へ、遅れることだけ先に知らせる。薬師にも待ってもらう」
止める。
確かめる。
知らせる。
それから、もう一度動かす。
伏見の受け場は、荷を速く通すためだけの場所ではなくなった。
翌朝。
柳皮の箱を積んだ荷車が葦屋を出る。
庄兵衛は帳面に、
『最初の荷、すべて京へ送る。
一箱、印違いにより一夜遅れ』
と記した。
「成功、とは書かへんのやね」
果心が笑う。
「次も同じように確かめられるか、まだ分からん」
庄兵衛は帳面を閉じた。
「それに、今回は運んだ者の善意で荷が止まった。決まりの方に足りんところがあったんや」
予備の送り札は、船ごとに用意する。
途中で札を替えた場合は、元の印、替えた理由、替えた者を控える。
控えを書けない時は、同乗する二人がそれぞれ印を残す。
新しい決まりが、最初の失敗から一つ増えた。
その日の昼。
京から荷運びの若者が戻ってきた。
「柳皮、薬師へ届いたで」
「間に合った?」
「薬師は怒っとった」
庄兵衛の顔が曇る。
「せやけど、遅れた理由の木札を読んだら、箱を開ける前にこう言うた」
若者は一枚の木札を差し出した。
『急ぐ薬ほど、違う物を渡してはならぬ。
次からは必要な日を先に知らせる』
薬師の印の隣には、小さな椀の印があった。
「この印、何?」
「下京で炊き出しをしとる、お澄さんの印や。薬師のところまで案内してくれた」
伏見で止めた荷を、京で人が受け取り、次の人へ渡した。
海燕。
鯵生の船人。
葦屋。
荷運びの若者。
下京のお澄。
京の薬師。
違う印が重なり、一つの荷の道になった。
そのとき、シオがもう一通の文を落とした。
今度の送り主は千早ではない。
下京からだった。
『井戸のそばで、旅人が倒れた。
薬師は診たが、名も行き先も分からない。
荷札を握ったまま離さぬ。伏見の葦印あり』
最初の荷が京へ届いた直後——今度は、伏見から来たはずの人の行き先が途切れていた。




