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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
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第296話 「船宿の古い箱と、果心の遠回り」

 ――中に立つ者には、外から近づく足音が聞こえない――


 伏見の川沿いに、古い葦屋があった。

 かつては船宿だったが、今は屋根の一部が落ち、戸口へ枯れた葦が積もっている。

 その葦屋をめぐり、二人の男が持ち主を名乗っていた。


「寺から譲られた土地や」


 宗兵衛が証文を出す。


「うちの父が銭を貸し、その代わりに預かった」


 了円も別の証文を置いた。

 二枚とも紙は古い。

 印も、書かれた年も食い違っていない。


「どっちが偽物なん?」

 茶太郎が尋ねる。

 果心居士は証文へ顔を寄せた。


「どちらも偽物には見えぬ」


「ほな、持ち主が二人?」


「二つの話が、途中でつながっておらぬのじゃろう」


 証文を書いた西光寺は、すでに焼けている。

 当時を知る者として名が挙がったのが、元船頭の庄兵衛だった。


 庄兵衛は二枚を見るなり、深く息を吐いた。


「どっちも本物や」


「なんで同じ土地を二人へ渡したんや!」


 宗兵衛が立ち上がる。


「順番が違う」


 庄兵衛が説明した。

 初めに寺が、修繕を条件として宗兵衛の父へ葦屋を貸した。

 その後、川の増水で屋根と船着き場が壊れた。

 寺は直す銭を了円の父から借り、返せない場合は葦屋を渡すという証文を作った。


「ほな、借りは返してへんのか」


 了円が迫る。


「返したはずや」


「証拠は?」


「寺が焼けた」


 残ったのは二枚の証文だけ。

 借金を返した記録がなければ、了円の主張を退けられない。

 だからといって、先に葦屋を使っていた宗兵衛から、すぐに取り上げることもできない。


「中、見てもええ?」

 茶太郎が尋ねる。


「崩れかけとる。子どもは入るな」

 弥七が止めた。


 大人が先に柱と床を確かめ、危険の少ない土間だけを見ることになった。

 茶太郎たちは戸口で待つ。

 茶丸と白灯あかりにも、傷んだ建物を調べさせない。


 奥から庄兵衛の声がした。


「箱が残っとる!」


 運び出されたのは、黒ずんだ木箱だった。

 錠は壊れ、蓋には西光寺の印が薄く残っている。

 中には船宿の帳面。

 濡れて読めない紙。

 荷札。

 その底に、小さな包みがあった。


 宗次が慎重に開く。

『了円父より借り受けた銭、残りなし』


 西光寺の印。

 返済を受け取った者の花押。


 了円の顔が強張った。


「そないな紙、一枚で決めるんか」


「決めへんよ」

 茶太郎が答えた。


「これも本物か、確かめなあかん」


 果心が紙を明かりへ透かす。


「墨も紙も、ほかの帳面と大きく違わぬ。じゃが、拙僧が本物と言えば本物になるわけではない」


「幻術使いやのに?」


「幻を知る者ほど、見ただけでは決めぬ」


 西光寺と関わりのあった寺へ印を照会する。

 了円の家に残る貸付帳とも突き合わせる。

 確認が終わるまで、葦屋をどちらか一人の物とはしない。

 ただし、屋根を放置すれば建物は失われる。


「直す銭は誰が出す」


 宗兵衛が尋ねる。


「使う人から、少しずつ集めたらどう?」


 茶太郎は川を指した。

 堺から伏見へ届く荷が増えている。

 船から荷車へ積み替える間、雨を避ける場所が足りない。

 葦屋を仮の荷受け場として使い、預かった荷一つごとに修繕分を取る。


 井戸へ続く道は塞がない。

 宗兵衛は屋根と荷を守る。

 了円は受け取った銭と支出を数える。


 二人が別々に記録し、月の終わりに照らし合わせる。


「なんで、わしがこいつと」


「一人に任せたら、また一つの話しか残らへんから」


 宗兵衛と了円は互いを睨んだ。

 それでも、葦屋そのものを失うよりはよいと頷いた。


 その日の夕方。

 茶太郎たちは伏見の秘密基地へ戻った。


 お滝が新しい帳面へ、

『葦屋、持ち主まだ決めず。

 荷受け場として試す』

 と記す。


 皆が帳面を囲む中、果心だけは京の方角を見ていた。


「果心さん、どうしたん?」


「この葦屋と同じことが、京のあちこちで起きよう」


 焼けた寺。

 消えた帳面。

 戻ってくる町人。

 新たに土地を使い始めた者。

 そこへ武家、寺社、町衆の思惑が重なれば、正しい証文が二枚あるだけでは済まない。


「京の復興を止めたい人もおるん?」


「止めたい者ばかりではない」

 果心が答える。


「助けると言いながら、自分の旗の下へ集めたい者。道を直す代わりに、荷と銭を押さえたい者。昨日まで味方だった者と、明日も同じとは限らぬ」


 弥七が腕を組む。


「細川晴元方の内でも、人の動きが変わっとる。幕府、六角、三好、木沢。それぞれ京を見る目が同じやない」


「ここにおったら、分からへんの?」


「京の中だけ見ても分からぬ」


 果心は床へ簡単な地図を描いた。


 京。

 伏見。

 山崎。

 男山。

 堺。

 奈良。

 その間を道と川で結ぶ。


「兵が動く前には、米が集まる。関を作る前には、道を測る者が来る。寺が誰かを支える前には、僧や使いの往来が増える」


「戦になるか見に行くん?」


「戦だけではない。復興に手を貸せる者と、利用しようとする者を見分けに行く」


 果心は、秘密基地や返し茶屋と縁を結んだ場所を巡るという。


 京を中心に、山崎、男山、奈良、堺。

 荷宿や寺、茶屋、船着き場で話を聞く。


 米と材木の行き先。

 通行を止める新しい関。

 武家や寺社の使者。

 町衆へ出された命令。

 それらを確かめ、京の復興へ影響する動きを知らせる。


「一人で行くん?」


「拙僧は、一人の方が紛れやすい」


「幻術で顔変えるん?」


「必要ならな」


「悪いことに使ったらあかんよ」


「誰かを騙して銭を取るな、心を試すな、戻ってこられる使い方をせよ、であろう?」


「覚えてたんや」


「何度も言われたからの」


 連絡には青羽便を使う。

 ただし、政治の話をそのまま書いた文が奪われれば危ない。

 そこで果心の文は、荷の知らせに見せることになった。


 米は兵糧の動き。

 薪は軍勢。

 閉じた茶屋は、通行を妨げる新しい関。

 欠けた椀は、争いから離れた者。

 三つの印を組み合わせ、場所と確かさも示す。


「難しいな」

 茶太郎が首を傾げる。


「茶太郎は全部読まんでええ」

 宗次が言った。


「文を受け取ったら、まず大人へ渡す。それで十分や」


「いつ帰るん?」


 果心は答えず、囲炉裏の前へ座った。


 千代が夕餉の麦飯をよそう。


 一杯目。

 二杯目。


 果心が三杯目へ手を伸ばしたところで、茶丸が言った。

『帰る気のない者は、三杯も食べん』

「飯の量で人の心を決めるな」


『ほな、椀置いていけ』

「なぜじゃ」

『戻って食べる椀がなかったら、帰ってこんやろ』


 果心は自分の椀を見た。


 秘密基地へ来た日に渡された、縁の少し欠けた椀だった。

 しばらく考え、空になった椀を棚へ戻す。


「置いてゆく」


「帰ってくる?」


 茶太郎が尋ねる。


「京の周りを一巡したらな」


「一巡って、いつ?」


「道は人の都合では終わらぬ」


「また分からん答えや」


 果心が笑う。


「では、こうしよう。復興を止める足音を見つけたら知らせる。助けになりそうな縁を見つけたら結ぶ。そして、空いた椀を誰かに取られる前に戻る」


『三杯食べる椀を取る者はおらん』

「聞こえておるぞ」


 翌朝。


 果心は笠と杖だけを持ち、京へ向かう道へ立った。

 見送りは、茶太郎と茶丸、白灯、それに弥七。


「気ぃつけてな」


「そなたらもな。家を直しておる間に、外の地図が変わることもある」


 果心は数歩進み、振り返った。


「拙僧がおらぬ間、知らぬ僧を簡単に基地へ入れるでないぞ」


「果心さんは入れたやん」


「だから言うておる」


 笠を傾け、今度こそ歩き出す。

 朝霧の中へ、その背が薄れていく。


 消えたのではない。

 見えない道へ、自分の足で入っていったのだった。


 その昼。

 葦屋へ、堺から最初の荷が届いた。


 薬種。

 乾物。

 油紙に包まれた小箱。

 宗兵衛が荷札を読み、了円が帳面へ記す。


 ところが、一箱だけ送り印が合わなかった。


「堺の印やない」

 弥七の声が低くなる。


 果心が外の動きを探り始めた日。

 伏見の内側には、持ち主の分からない荷が入り込んでいた。

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『茶太郎がゆく』
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