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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
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第295話 「二枚の証文と、焼け跡に残った道」

 ――証文に書かれなかったものも、人の暮らしには残っている――


「そこを空けてもらおう」


 翌朝。


 下京の焼け跡へ現れた男は、積まれた古材を指さした。


 五十ほどの商人で、名を宗兵衛そうべえという。

 後ろには奉公人が二人。


 手には、松永が見せたものと同じ証文があった。


「この屋地は、わしが銭を出して買うた。蔵を建てるつもりでな」


 粥を炊いていたおすみが、鍋の前に立つ。


「急に言われても困ります。ここを空けたら、井戸を使えへん者が出ます」


「井戸は道の向こうにある。わしの土地やない」


「せやけど、水を運ぶには、ここを通らなあかんのです」


「それは、わしには関わりのない話や」


 宗兵衛が奉公人へ合図する。

 材木を動かそうとしたところで、弥七やしちが間へ入った。


「待ってくれ。今日は証文と地面を確かめる約束や」


「松永殿の使いか」


「違う。確かめるのを手伝うだけや」


 宗兵衛は茶太郎たちを見回した。


 六歳の子ども。

 荷運び人。

 外法僧。

 猫が二匹。


「この者らがか?」


「ぼくらだけで持ち主を決めへんよ」


 茶太郎が言った。


「見つけたことを、町の大人と松永さんへ渡すんや」


「松永さん……」


 宗兵衛の頬が引きつった。

 茶太郎には、呼び方の何が悪かったのか分からない。


 そこへ、墨染めの衣を着た僧がやってきた。

 近くの西光寺から来た僧、了円りょうえんだった。


 その手にも、もう一枚の証文がある。


「この屋地は、もとの持ち主が寺へ質として入れたものです。借りた銭は、いまだ返されておりませぬ」


 宗兵衛が顔をしかめる。


「その証文は古い。わしは後から、正式に買うた」


「質に入れた土地を、勝手に売ることはできませぬ」


「わしは、そんな話を聞いとらん!」


 二枚の証文が、焼け跡の上で向かい合った。


 片方は、土地を買った証し。

 もう片方は、土地を銭の代わりに預かった証し。


 日付は寺のものが先。

 だが、どちらにも署名と印があり、紙の古び方も不自然ではない。

 果心居士かしんこじが二枚を日に透かした。


「幻で作ったようには見えぬな」


「見ただけで決めたらあかんよ」


 茶太郎が言う。


「分かっておりますぞ」


 果心は、少し不満そうに答えた。


 最初に調べたのは、証文ではなく地面だった。

 弥七と荷運びの若者が、焼け残った礎石を探す。

 茶丸と白灯あかりは灰の匂いを嗅ぎながら、瓦礫の間を歩いた。


「……ニャッ」


 茶丸が、一つの石の前で止まる。

 石には、細い溝が刻まれていた。


「境の印か?」


 宗兵衛が身を乗り出す。


「まだ決められへん」


 弥七が土を払う。


 溝は石の中央ではなく、井戸の方角へ続いている。

 その先にも、同じように角の削れた石があった。


「水が流れた跡やな」


 荷運びの若者が言う。


「雨の日だけやない。何度も水桶を引きずった跡に見える」


 お澄が頷く。


「火事の前から、ここを通って井戸へ行ってました」


「誰でもか?」


「この辺りの者は、みんな」


 了円も石を確かめた。


「寺の古い者も、この通り道を使っていたと申しております」


 証文には屋地の広さが書かれている。

 だが、井戸へ通じる道のことは、どちらにも書かれていなかった。


「書いてへんから、なかったことになるん?」


 茶太郎が尋ねる。

 宗兵衛は答えない。


「人の記憶だけでは、土地を奪う理由にはならぬ」


 了円が言った。


「しかし、証文にないからといって、長く使われた道を突然塞ぐのも危うい」


「ほな、前の家があったとき、どうなってたか調べよう」


 茶太郎たちは近くの仮小屋を回った。


 話を聞くのは大人。

 茶太郎とかん太は、そのそばを離れない。


 最初に話した老人は、


「井戸への道は、家の北側だった」


 と言った。


 次の女は、


「南側やったはずや」


 と答えた。


 二人の記憶は食い違っている。


「どっちが嘘ついてるん?」


 かん太が小声で尋ねる。


「どっちも、ほんまにそう覚えてるかもしれへん」


 茶太郎は、すぐに片方を疑わなかった。


 火事の前。

 家が建て増しされた前。

 大水で通り道を変えた後。


 同じ土地でも、見た時期が違えば、道の場所も変わっているかもしれない。

 五人目に話を聞いたのは、足の悪い老女だった。


 名をおつねという。


「昔は北側やったよ」


 お常は杖で地面を示した。


「せやけど、荷を積んだ車が入るようになってから、南へ移したんや。北は馬が通ったさかいな」


 証言が初めてつながった。


「いつ頃、変わったん?」


「先代の家主が嫁を取った年や。祝いに赤い布を軒へ掛けとった」


「年までは分からへん?」


「年なんぞ覚えとらん。けど、その秋に西光寺の鐘を直した」


 了円が顔を上げた。


「鐘を直した記録なら、寺に残っております」


 寺の帳面を確かめると、鐘を修理した年が分かった。

 それは、西光寺の証文が作られた二年後。

 宗兵衛の証文よりは、七年も前だった。


「なら、質に入れたあとも、家主はここで暮らしてたんやね」


「質に入れたからといって、すぐ追い出したわけではありませぬ」


 了円が答える。


「銭を返す間は、住まわせておりました」


 果心が錫杖を持ち上げた。


「一度、見える形にしてよいかな」


「何を見せる?」


「話に出た家だ。ただし——」


 果心は集まった者たちへ告げた。


「これから見せるのは幻だ。皆の話と、地面の跡を重ねただけのもの。真実そのものではない」


 ちりん。


 焼け跡の上に、半透明の柱が立った。


 古い家。

 北側にある細い通り道。

 それが薄く消え、建て増しされた壁が現れる。


 馬の通る場所が広がり、井戸への道が南へ移る。

 二つの時の家が、色の違う幻となって重なった。


「これや」


 お常が呟いた。


「ずっと同じ道やなかったんや……」


 お澄も驚いている。


「せやけど、どっちの時にも井戸へ行く道は残してある」


 茶太郎は、そこを見ていた。


 北から南へ変わっても、通り道そのものは消えていない。

 屋地を使っていた者たちは、井戸へ向かう人を完全には閉め出さなかった。


「この土地を誰が使えるかは、ぼくらには決められへん」


 茶太郎が宗兵衛と了円へ言った。


「でも、昔から井戸へ行く道があったことは、二人とも聞いたよね」


「聞いた」


 宗兵衛が渋い顔で答える。


「寺の帳面にも、証言の年を確かめる手掛かりがありました」


 了円も認めた。


「持ち主が決まるまで、ここへ蔵を建てるの待ってくれへん?」


「いつまで待てというのだ」


「待つ間も、ずっと今のままにはせえへん」


 弥七が提案した。


 土地の中央には、動かせない物を置かない。

 古材は端へ寄せ、倒れないよう支えを組む。


 粥を炊く場所も、火を使う時だけ設ける。

 井戸への通り道は、白い石で示す。


 宗兵衛と西光寺の争いが決まるまでは、誰も新しい建物を造らない。

 そして、使った日時と理由を帳面へ残す。


「わしの土地になったら、すべて退かせるぞ」


 宗兵衛が言う。


「それも、道をどうするか話してからにして」


「まだ口を出す気か」


「井戸を使う人がおるから」


 宗兵衛は茶太郎を睨んだ。

 やがて、大きく息を吐く。


「三日だ。三日だけ待つ。それまでに、証文を書いた者を捜せ」


 二枚の証文を書かせた元の家主は、火事のあと姿を消していた。

 だが、裏書きには証人の名がある。


 弥七が読み上げた。


「伏見、葦屋庄兵衛あしや・しょうべえ


 荷運びの若者が目を見開く。


「その人、知っとる」


「ほんま?」


「伏見の船宿の主や。荷の受け渡しで、何度か世話になった」


 京の焼け跡で見つかった名が、伏見の人へつながった。

 茶太郎は、二枚の証文を見つめる。


 一枚の紙だけでは、誰が正しいか分からない。

 焼け跡の石だけでも足りない。

 人の記憶にも、違いがある。


 けれど、それらを重ねれば、次に尋ねるべき相手が見つかる。


「伏見へ行こう」


 茶太郎が言った。


「葦屋さんに、知ってるところだけ話してもらおう」


 そのとき、白灯が西光寺の証文へ鼻を近づけた。


「にゃっ」


 茶丸も、宗兵衛の証文を嗅ぐ。


「……ニャッ」


 二匹は顔を見合わせた。


 どちらの紙からも、同じかすかな匂いがしていた。


 川水でも、墨でもない。


 伏見の船蔵で使われる——濡れた荷縄と、酒粕の匂いだった。


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『茶太郎がゆく』
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