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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
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第292話 「名のない証文と、伏見から京へ続く縁」

 ――人を欺く力より、欺かなかった日を覚える人の方が強い――


 果心居士は、松永方から届いた書状を一晩預かった。


 受け取るとも。

 断るとも答えなかった。


 翌朝、秘密基地へ集まった者たちの前で、折り畳まれた書状を広げる。


『伏見にて待つ。

 幻術のほどを見定めたのち、京へ案内する』


 短い文だった。

 差出人の名はない。

 末尾に、蔦をかたどった小さな印だけが押されている。


「怪しいな」


 弥七やしちが言った。


「名乗らずに、人だけ呼び出すんか」


「仕官を望む者が、呼ぶ側へ名を求めることは少ない」


 果心は書状を畳んだ。


「まず門前へ出向き、己が使える人間か示す。それが士官を願う者の習いじゃ」


「果心さんは、行きたいん?」


 茶太郎が尋ねる。


「行きたい」


 今度の果心は、迷わず答えた。


「名のある武将へ仕えるため、わしは寺を出たのちも各地を歩いてきた。この機会を逃せば、悔いが残ろう」


 茶太郎は頷いた。


「ほな、行って確かめよう」


「ついてくるつもりか?」


「果心さん一人やと、また分からんことまで分かる顔するかもしれへんし」


「信用がないのう」


「あるよ。せやから、一緒に行くんや」


 六歳の茶太郎だけで伏見や京へ向かうことはできない。

 弥七とかん太が同行し、茶丸と白灯あかりも周囲を警戒することになった。


 レオとシロ、ナギ、マキト、ウリハは秘密基地へ残る。


「ちゃんと帰ってきてね」


 シロが果心を見上げた。


「仕官が決まっても?」


 果心が尋ねる。


「決まっても。帰ってきたら、話を聞かせて」


「帰る場所は、一つでなくてもいい」


 レオも言った。


「ぼくも大吉山と秘密基地、二つあるから」


 果心はしばらく二人を見つめた。


「ならば、戻れる身であるかどうかも、先方へ確かめねばならんな」


 仕えることと、すべての縁を切ることは同じではない。

 その条件を口にした果心へ、土地神は一つ頷いた。


 ◇


 宇治から伏見へ向かう道には、前夜の雨が残っていた。


 土は柔らかく、轍には薄い水が溜まっている。

 青い空を映す水たまりの間を選び、茶太郎たちは急がず歩いた。


 昼前、荷を積んだ一台の車が道端で止まっていた。

 車輪が泥へ沈み、荷台が傾いている。


「押したら抜ける!」


 若い荷運び人が肩を当てていた。


「待て。片側だけ押したら、荷が落ちるぞ」


 弥七が止める。


 荷台には、紙で包んだ陶器と小さな木箱が積まれていた。


「伏見まで届けなあかんのや。遅れたら、次から仕事をもらえへん」


 男は焦っていた。


 果心が車輪の前へ立つ。


「ならば、道の先へ乾いた地面が続いておるように見せようか。馬も進みやすかろう」


「幻で馬を歩かせたらあかん」


 茶太郎がすぐに言った。


「道があると思って進んで、ほんまは泥やったら危ない」


「試しただけじゃ」


「ほんまに?」


「半分ほど」


 果心は袖へ手を戻した。


 弥七が車輪の周囲を確かめる。

 泥の浅い側へ荷を少しずつ移し、車輪の下へ板を噛ませることになった。


 荷を下ろす者。

 板を置く者。

 馬を落ち着かせる者。

 車を後ろから押す者。


 一度に力を掛けず、声を合わせる。


「せえの!」


 ぎしり。

 車輪が板へ乗った。


 もう一度。


「せえの!」


 泥が音を立て、車が道へ戻る。

 男は何度も頭を下げた。


「助かった。礼をしたいけど、今は銭がない」


「ほな、伏見まで一緒に行こう」


 茶太郎が言った。


「人が増えたら、また車輪が沈んだとき困らへん」


「わしらが助けたのに、さらに働かせるのか」


 果心が小声で尋ねる。


「果心さんも押してへんやん」


「わしは励ましておった」


「見てただけやろ」


 若い荷運び人が吹き出した。

 笑う余裕を取り戻すと、先ほどまで強張っていた肩も少し下がった。


 ◇


 伏見へ入ると、酒を仕込む米の匂いと、濡れた木の香りが流れてきた。


 荷車の音。

 舟を着ける者の掛け声。

 桶を洗う水音。


 街道と川が交わる町には、宇治とは違う速さで人が行き来している。


 茶太郎たちは、まず伏見の繕い所へ向かった。


「帰ってきた!」


 友照が戸口から飛び出す。

 その後ろから千代も顔を出した。


「炭山はどうやった?」


「四本の水路を確かめたよ。五本目は開けへんかった」


「開けへんかったん?」


「使う時が違う道やった」


 話したいことは幾つもあった。

 だが今日は、果心の呼び出しが先だった。

 繕い所の一角には、三人の男が待っていた。


 一人は松永方の使者。

 一人は伏見の荷問屋。

 もう一人は、京まで人を案内するという浪人だった。


 使者は果心を見るなり尋ねた。


「身元を証す者はいるか」


「もとは大和興福寺の僧。外法へ手を出し、寺を追われた果心と申す」


「追放された僧だという証しかないのか」


「それでは足りぬか」


「京へ連れていく以上、こちらも人を預かる。術だけ見せればよい話ではない」


 使者の言うことにも理があった。


 果心が誰であるか。

 何をしてきたのか。

 保証する寺も、主家もない。

 果心は笑みを浮かべた。


「ならば、ここで鳥に化けて姿を消してみせよう。それで術のほどは——」


「消えたら、身元を確かめられへんやろ」


 茶太郎が止めた。

 使者が茶太郎を見る。


「子どもが口を挟むことではない」


「果心さんを一緒に歩く人として見つけたんは、ぼくらや」


「そなたが保証するというのか」


 茶太郎は答えに詰まった。


 果心の昔をすべて知っているわけではない。

 炭山で過ごした日も、まだ多くない。


 良い人だと決めつけることはできなかった。


「全部は保証できへん」


 茶太郎は正直に答えた。


「でも、ぼくが見たことなら話せる」


 街道で、偽の通行料を取る者たちを幻で脅したこと。

 幻が消えたあとも困らない道を作る必要があると認めたこと。

 炭山で、知らない水路を地図の上へ勝手に描かなかったこと。

 雨の夜には、青と赤と白の灯で、離れた見張り同士へ合図を送ったこと。


 そして、人の心を読み違えることもあると、自分で口にしたこと。


「善い人やとは言い切らへんのか」


 使者が尋ねる。


「善いこともした。人を欺いたこともある。これからどうするかは、果心さんが決める」


 繕い所が静かになった。

 すると、先ほどの荷運び人が戸口から入ってきた。


「俺も、今日見たことなら言えます」


 泥へ沈んだ荷車を前に、果心が幻の道を見せようとしたこと。

 それを止められたあと、本物の板と人の手で車を戻す方を選んだこと。


「この坊さん、ほとんど見とっただけですけど」


「余計な一言じゃ」


 果心が眉をひそめる。

 さらに友照が帳面を持ってきた。


「伏見で食べた分と、手伝った分なら記録できる」


「まだ食べただけじゃ」


 千代が言う。


「ほな、これから働いてもらわな」


 伏見の荷問屋が笑った。


「立派な証文はなくても、見た者が何人もおるわけか」


「見た時と場所を、一人ずつ書けます」


 友照が答える。


「同じ話を写すんやなくて、それぞれが自分で見たことだけ」


 果心を褒めるための証文ではない。

 誰か一人が、果心のすべてを保証するものでもない。


 宇治。

 炭山。

 伏見。


 それぞれの場所で、誰が何を見たかを残す紙だった。


 使者は帳面と人々の顔を見比べた。


「珍しい身元証しだな」


「不満かの」


 果心が尋ねる。


「いや。名のある寺の一筆より、都合よく書き換えにくい」


 使者は果心へ書状を差し出した。


「京まで案内しよう。ただし、道中で勝手に術を使うな。使うときは、誰へ何を見せるか先に告げよ」


 果心は書状を受け取った。


「承知した」


「それから、松永殿がお求めなのは見世物ではない」


「では、何を?」


「人を戦わず退かせる術だ」


 その言葉に、弥七の目が細くなる。

 人を傷つけずに済むようにも聞こえる。

 恐怖を見せ、意のままに動かす術を求めているようにも聞こえた。


「それ、誰を退かせるん?」


 茶太郎が尋ねる。


「京で、道を塞いでいる者たちだ」


「悪い人?」


「それを決めるのは、そなたではない」


「ほな、誰が決めたん?」


 使者は答えなかった。


 果心は受け取った書状を見つめている。

 伏見から京へ向かう道は、すでに目の前へ開かれていた。

 だが、その先で求められているのは、人を助ける幻ではないかもしれない。


「茶太郎」


 果心が静かに呼ぶ。


「京まで来るか」


「うん」


「わしが、昔から欲しかったものを選ぶところを見届けたいか」


「違うよ」


 茶太郎は首を振った。


「果心さんが、何を見て選ぶのか一緒に確かめたい」


 翌朝。


 茶太郎たちは伏見を発った。

 繕い所から友照と千代が見送る。

 助けた荷運び人は、京へ送る荷の載った車を引く。


 伏見の荷問屋は、途中で休める家を書いた木札を渡した。

 一行の先には、戦で傷つきながら人の暮らしを取り戻し始めた京がある。


 果心は名のある武将との縁を求めて。

 茶太郎は、道の途中で暮らす人々の縁を確かめるために。


 二人は同じ道を歩きながら、まだ別々のものを見ていた。


 その違いが何を結び、何を分けるのか。

 答えは——伏見の向こう、京の町で待っていた。


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