第291話 「開けなかった五番水路と、外法僧への誘い」
――使わないと決めた道も、備えの一つになる――
炭山から秘密基地へ戻った茶太郎たちを、最初に迎えたのは白い影だった。
「おかえり!」
シロが入口から駆け出し、茶太郎の周りを一度回る。
「ちゃんと、自分の足で帰ってきた!」
「うん。ただいま」
その後ろから、レオとウリハも顔を出した。
「雨、大丈夫だった?」
「炭山の土、苦しくなくなった?」
二人とも心配そうに尋ねる。
「水路を四つまで確かめたよ。でも、まだ終わりやない」
茶太郎が答えると、ウリハの耳がぴくりと動いた。
「終わってないの?」
「水が流れたあとも、見張る人が要るから」
ナギは床下の水路から姿を現した。
淡い水色の身体。
長い尾びれが、さらさらと流れる水の中で揺れている。
「どんな水だった?」
「雨のときは速くて、泥も枝も一緒に流れてきた。三番水路は、途中で板を半分閉じたよ」
「止めたの?」
「全部やない。流れる量を減らした」
ナギは少し考えたあと、嬉しそうに尾びれを振った。
「流すか、止めるかだけじゃないんだ」
「うん。少し流すこともできた」
茶太郎は炭山から持ち帰った地図を広げた。
一番から四番までの水路には、流れを確かめた印がある。
だが、最後の五番水路だけは白いままだった。
「ここ、開けなかったの?」
レオが尋ねる。
「四本で雨を受けられたから。必要か分からんのに、全部開けたらあかんと思って」
「開けなかったのも、調べたことになる?」
シロが首を傾げた。
茶太郎はすぐには答えなかった。
使っていないのだから、安全とは言えない。
しかし、使う必要がなかったことは記録できる。
「今の雨では、使わんでも持った。そこまでかな」
「次の雨は違うかもしれない」
レオが言う。
「うん。せやから、五番も消さへん。まだ分からん道として残す」
地図の隅には、五番水路の入口で採った乾いた土が、小さな紙へ包まれていた。
ウリハが鼻先を近づける。
すん。
すんすん。
「濡れた木の根の匂いがする」
「炭窯の土と違う?」
「違う。でも、ぼくには、この土がどこへ続いてるかまでは分からない」
ウリハは、はっきり答えた。
「大吉山の土にも少し似てる。木が水を飲む場所の匂い」
ナギも紙包みの周りを泳いだ。
「水が速く走る味じゃない。じわじわ広がる味がする」
「五番は、川へ出す道やないんかな」
かん太が言った。
「山の土へ水を渡す道かもしれん」
「まだ、そう決めたらあかん」
茶太郎が答える。
「炭山の人に聞こう。昔、その先を使った人がおるかもしれへん」
シオへ文を託す前に、秘密基地の《縁扉》を使う案も出た。
大吉山との小窓なら、小さな紙を通せる。
だが炭山とは、戸の印すら結ばれていない。
「炭山へも扉を作ったら早いんと違う?」
こたろが言った。
「早いけど、勝手に作ったらあかんよ」
「何で?」
「炭山の人が嫌かもしれへん。それに扉を使ったら、土地の熱や霊気が減る」
ナギが床下へ尾を沈めた。
「今、基地の水は温かい。無理に扉を開けたら、また冷たくなる」
「ほな、歩く道とシオに頼もう」
かん太が決めた。
便利だからという理由だけで、新しい道は開かない。
茶太郎は炭山へ文を書いた。
『五番水路の土から、濡れた根の匂いを感じた者がいます。
川へ水を出す道ではなく、林へ水を渡す道だった可能性はありませんか。
ただし、土の匂いから考えただけで、確かではありません。
危険な場所へ入らず、覚えている人へ先に聞いてください』
シオはその文を脚へ付け、炭山へ向かった。
◇
返事が届いたのは、翌日の昼だった。
炭山の老女が、古い記憶を思い出したという。
五番水路の先には、杉林に囲まれた浅い窪地がある。
大雨の水を川へ落とす場所ではない。
雨が少ない年に閉じていた板を上げ、龍が壺から染み出した水を林の土へ渡す道だった。
木の根が水を抱え、その下にある小さな湧き水を絶やさないためのもの。
だが長く使われず、入口が土に埋もれていた。
「ほな、五番も開けよう!」
こたろが言った。
「今は開けへんよ」
茶太郎が答える。
「何で? 役目が分かったのに」
「雨のあとで、土には水がいっぱいあるから。今開けたら、根が苦しくなるかもしれへん」
ウリハが強く頷く。
「木も、水を飲みすぎたら苦しいよ。根の周りに空気がなくなる」
「水は、多ければ多いほどええんと違うんやな」
「足りないと困る。多すぎても困る」
ナギが地図の五番水路を見つめた。
「水も、行きたいときが違うんだ」
五番水路は、開かなかった。
その代わり、炭山の決まりへ加えられた。
『五番水路は、日照りが続いたときに調べる』
『開ける前に、窪地と木の根を確かめる』
『水を通した日と、閉じた日を記録する』
『大雨の水を逃がすためには使わない』
役目の違う道を、同じようには扱わない。
その日の午後。
炭山から重蔵たちが秘密基地を訪れた。
水止め板の見本と、見張りの順番を決めるためだった。
炭山の者だけに負担を背負わせない。
朝日山側では山仕事の者が煙を見る。
宇治では、届いた知らせを帳面へ残す。
水止め板を動かすのは、炭山で選んだ二人。
一人だけで開け閉めせず、必ず二人で水位と下流を確かめる。
「二人も要るんか」
重蔵が尋ねた。
「一人が間違えたとき、もう一人が止められる」
果心居士が答えた。
「それに、人は怖いと急ぐ。急げば、見えていたものまで見えなくなる」
「人の心が読めるあんたが、そばにおったらええやろ」
「わしとて読み違える」
果心は平然と言った。
「心は水路図ではない。目をそらしたから嘘とも限らぬ。声が震えたから臆病とも限らぬ」
茶太郎は果心を見上げた。
「前は、何でも分かるみたいに言ってなかった?」
「昔のわしは、分からぬことを分かるように見せるのが上手かった」
「今は?」
「分からぬ顔をする稽古中じゃ」
果心が神妙に答えると、土地神が杖で床を軽く叩いた。
「ならば、その稽古を続けよ。ここでは幻で人の心を決めること、まかりならぬ」
「承知しております」
「それから飯を三杯食うた分は働け」
「二杯半でございました」
「半杯を数えるでない」
秘密基地に笑いが広がった。
話し合いの終わりに、《炭山水見帳》が作られた。
記すのは、炭の数でも、売った値でもない。
雨の降り始め。
龍が壺の高さ。
四本の水路の流れ。
受け場に溜まった泥。
水止め板を開けた者と、閉じた者。
そして、分からなかったこと。
茶太郎は最初の頁へ書いた。
『一度の雨では、山が直ったとは決めない』
『見張る者が続かなければ、水路はまた忘れられる』
重蔵が、その下へ炭山の印を押した。
水輪の印ではない。
炭を焼く窯と、細い煙をかたどった印だった。
「この帳面は炭山で持つ」
「うん」
「宇治へ見せるんは、水の知らせだけや」
「それでええよ」
道を直した者が、道の持ち主になるのではない。
そこに暮らす者が、自分たちで開け、自分たちで閉じる。
水輪は、必要なときに次へ知らせる手伝いをする。
夕方。
重蔵たちが帰ったあと、秘密基地の入口へ一人の男が現れた。
旅装の武士だった。
雨上がりの道を急いできたらしく、草履には泥が厚く付いている。
男は果心居士を見ると、懐から折り畳んだ書状を出した。
「大和より京へ向かった外法の僧とは、そなたか」
果心の笑みが、わずかに消える。
「誰が尋ねておる」
「京で、そなたの幻術を見たいという御方がおる」
「名は?」
男は周囲を見回し、声を落とした。
「三好の家中に仕える、松永弾正忠殿だ」
果心は書状を受け取らなかった。
だが、その目は紙から離れない。
名のある武将へ仕える。
それは、果心が長く望んできた道だった。
茶太郎は、果心の指が衣の陰で強く握られているのを見た。
「行きたいん?」
果心はすぐには答えなかった。
秘密基地の床下では、ナギが見つけた水が流れている。
入口には、マキトの白い光。
レオとシロとウリハは、新しい仲間を見守っていた。
そして果心の前には——昔から望んでいた道と、今ようやく見つけ始めた帰る場所が、同時に開かれていた。




