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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
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第290話 「塞がれた窯と、抜いてはいけない石」

 ――昔の間違いに見えるものにも、当時の理由が残っている――


 雨が上がっても、古い炭窯にはすぐ近づかなかった。


 山の土は水を含んでいる。

 晴れたからといって、斜面の中まで止まったとは限らない。


 まず、離れた場所から地面の割れ目を確かめる。

 杉の幹へ印を付け、傾きが変わらないか見る。

 水の音を聞く。

 石が転がる音や、根の切れる音がしないことを確かめる。


 朝から半日待ち、山仕事の者たちが安全な道を決めた。


「子どもは縄の内側へ入るな」


 弥七やしちが言った。


「茶丸と白灯あかりもや」


「……ニャ」


「にゃ」


 二匹は不満そうだったが、縄の前で座った。


 影猫衆は、危ない穴へ最初に入る者ではない。

 茶太郎とかん太も見張り小屋に残り、届く知らせを地図へ置く。

 果心居士だけが、大人たちと古い炭窯へ向かった。


「果心さんは行ってええの?」


 かん太が尋ねる。


「わしは大人じゃぞ」


「ほんまに?」


「そこから疑うか」


 果心は笑ったが、弥七から渡された縄を腰へ結んだ。

 術が使えても、崩れる土の上では人と同じ備えをする。


 ◇


 古い炭窯は、半分ほど土に埋もれていた。

 丸い窯壁には苔が生え、入口だった場所を大きな石が塞いでいる。

 石の下から、細い水が染み出していた。


「この石を外せばええんやな」


 重蔵が手をかけようとする。


「待て」


 弥七が止めた。


「石の向こうに、どれだけ水が溜まっとるか分からん」


「せやけど、水抜き穴はこの奥や」


「大きな栓を、いきなり抜くようなもんやぞ」


 果心は窯の前へ屈み、石の表面を見つめた。

 泥と苔の下に、細い傷がある。


「ただの落石ではないようじゃ」


 布を巻いた木のへらで、表面の泥を少しずつ払う。


 横へ一本。

 縦へ二本。

 さらに、円を半分に割ったような印。


 炭山の老女が、縄の外から目を細めた。


「水返しの印や」


「水返し?」


「昔の窯には、水が入りすぎたときだけ開ける穴があった。普段は閉めとった」


「ほな、この石は水を塞ぐために置いたんか」


「全部を塞ぐためやない」


 老女は首を振った。


「板を上げ下げするための重しやったはずや」


 石の脇を調べると、土の中から腐った木の端が見つかった。

 水止め板だった。


 板は朽ち、周囲へ塗った粘土だけが固く残っている。

 長い間使われなかったため、開け閉めできる水門が、一つの栓のようになっていた。


「誰かが勝手に塞いだんやないんやな」


 重蔵が言った。


「使い方が伝わらんようになった」


 果心は窯の石へ手を当てた。


「人の悪意に見えるものが、忘れられた工夫であることもある」


「果心さんが言うと、何か怪しい」


「わしの反省を含めた、ありがたい言葉じゃ」


 石をそのまま抜くことはしなかった。


 まず窯より下に、新しい受け場を作る。

 四番水路の先が三番水路へ繋がっているか、大人が両側から調べる。


 細い竹筒を地面のくぼみへ当てると、向こう側で水の響きが返った。

 完全には確かめられない。

 だが、古い石組みの方向は一致していた。


 そこで腐った板の横へ、指一本分だけ細い穴を開けることになった。

 作業する者は石の正面へ立たない。

 横から長い鉄棒を使う。

 水が急に噴き出したら、すぐ退ける場所も空けた。


 ごり。


 固まった粘土が少し欠ける。

 しばらく、何も起こらなかった。


 次の瞬間。

 しゅっ。

 石の隙間から、黒い水が細く走った。


「下へ伝えろ!」


 果心が青い灯を一つ上げる。


 四番水路の下流で待つ者が、その光を確認した。

 間もなく、木札が届く。


『受け場へ水、来る』


『泥、多し』


『三番水路へは、まだ入らず』


「繋がってへんの?」


 茶太郎が地図を見つめる。

 しかし、二枚目の札が来た。


『水、古い石溝へ入る』


 そして三枚目。


『三番の受け場へ到着』


 四番水路は、直接志津川へ流れ込む道ではなかった。

 山の中で水の勢いを弱め、三番水路へ渡すための道だった。


「一つの道やなくて、道から道へ渡してたんや」


 かん太が言った。


「シロとレオが水を分けたみたいに」


「うん。でも、分けるだけやない」


 茶太郎は四番水路と三番水路の間へ、小さな丸を描いた。


「途中で受けて、弱めて、次へ渡してる」


 水は少しずつ流れた。

 龍が壺の水位も下がり始める。


 だが、重蔵は窯の石を見たまま言った。


「このまま穴を広げよう。今なら全部抜ける」


「抜いたらあかん」


 茶太郎が縄の外から答える。


「何でや。水は流れたやろ」


「雨が止んだあとも全部流したら、壺の水がなくなるかもしれへん」


「なくなったら安全やないか」


 炭山の老女が首を振った。


「壺の水は、夏の日照りにも残った。獣も鳥も、あそこで飲む。下の沢が細ったときは、うちらも助けられた」


 龍が壺は、大雨の危険だけではなかった。

 水を溜め、乾いた日に少しずつ渡す役目も持っていた。

 空にすることが解決ではない。


「新しい板を作ろう」


 茶太郎が言った。


「開けるための板やなくて、開けたり閉じたりできる板」


「誰が動かす?」


 重蔵が尋ねる。


「炭山の人。水輪が勝手に触ったらあかん」


「記録は?」


「開けた時刻と、閉じた時刻。水の高さと、下流の濁りだけ。炭の数は書かへん」


 古道を知らせの道として使うときに交わした約束も守る。

 水路を直したことを理由に、炭山の仕事を数えない。

 外から来た者が、水門を支配しない。


 その日のうちに新しい板を作ることはできなかった。

 仮の細い栓を入れ、水を少量だけ通す。

 正式な板は、乾いた木を選び、膨らみ方を確かめてから作ることになった。


 夕方。


 龍が壺の水は、雨の前より少し高いところで止まった。


 朝日山観音の銅板へ夕日が差す。

 水面に現れた龍の影は、以前より小さく見えた。


 その周りを、幾つもの小さな光が泳いでいる。


『流れる』

『溜まる』

『休む』

『また流れる』


 ナギをはじめとする小さな水の霊たちの声だった。


 長い影は一度だけ頭を上げた。


 茶丸が静かに鳴く。


「ニャ」


 白灯も答える。


「にゃ」


 果心は二匹の声を聞き、茶太郎へ伝えた。


「龍は礼を言うておる……ように、わしには聞こえる」


「決めつけへんの?」


「水の心まで読めると申せば、外法僧もいよいよ大法螺吹きじゃ」


 茶太郎は笑った。


 帳面には、


『龍の影、頭を上げる』


『小さな光、四本の水路へ分かれる』


 とだけ記した。


 最後の五番水路は、まだ開けない。

 四本で雨を受けられるか、次の雨でも確かめる。


 受け場の泥を誰が除くか。

 水止め板を誰が点検するか。

 灯が見えない昼や、霧の日にどう知らせるか。


 決めることは、まだいくつも残っている。

 それでも、龍が壺から聞こえていた苦しげな水音は消えていた。


 夕暮れの山に戻ったのは、怪異が去った静けさではない。

 細い水が、それぞれの道を流れる音だった。


 その夜、宇治から届いた文の端に、友照が一行だけ書き添えていた。


『シロとレオは元気。けど、果心さんの御飯まで用意するん?』


 果心は文を読み、真顔になった。


「これは重大な相談じゃな」


「水路より?」


「今後のわしの暮らしに関わる」


 弥七が呆れたように息を吐く。

 茶太郎は笑いながら、返事を書いた。


『用意してあげて。

 その代わり、果心さんにも働いてもらいます』


 龍の水を分けた炭山で。

 外法の僧が、茶太郎たちと共に歩くための居場所もまた、少しずつ形になり始めていた。


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『茶太郎がゆく』
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