第290話 「塞がれた窯と、抜いてはいけない石」
――昔の間違いに見えるものにも、当時の理由が残っている――
雨が上がっても、古い炭窯にはすぐ近づかなかった。
山の土は水を含んでいる。
晴れたからといって、斜面の中まで止まったとは限らない。
まず、離れた場所から地面の割れ目を確かめる。
杉の幹へ印を付け、傾きが変わらないか見る。
水の音を聞く。
石が転がる音や、根の切れる音がしないことを確かめる。
朝から半日待ち、山仕事の者たちが安全な道を決めた。
「子どもは縄の内側へ入るな」
弥七が言った。
「茶丸と白灯もや」
「……ニャ」
「にゃ」
二匹は不満そうだったが、縄の前で座った。
影猫衆は、危ない穴へ最初に入る者ではない。
茶太郎とかん太も見張り小屋に残り、届く知らせを地図へ置く。
果心居士だけが、大人たちと古い炭窯へ向かった。
「果心さんは行ってええの?」
かん太が尋ねる。
「わしは大人じゃぞ」
「ほんまに?」
「そこから疑うか」
果心は笑ったが、弥七から渡された縄を腰へ結んだ。
術が使えても、崩れる土の上では人と同じ備えをする。
◇
古い炭窯は、半分ほど土に埋もれていた。
丸い窯壁には苔が生え、入口だった場所を大きな石が塞いでいる。
石の下から、細い水が染み出していた。
「この石を外せばええんやな」
重蔵が手をかけようとする。
「待て」
弥七が止めた。
「石の向こうに、どれだけ水が溜まっとるか分からん」
「せやけど、水抜き穴はこの奥や」
「大きな栓を、いきなり抜くようなもんやぞ」
果心は窯の前へ屈み、石の表面を見つめた。
泥と苔の下に、細い傷がある。
「ただの落石ではないようじゃ」
布を巻いた木のへらで、表面の泥を少しずつ払う。
横へ一本。
縦へ二本。
さらに、円を半分に割ったような印。
炭山の老女が、縄の外から目を細めた。
「水返しの印や」
「水返し?」
「昔の窯には、水が入りすぎたときだけ開ける穴があった。普段は閉めとった」
「ほな、この石は水を塞ぐために置いたんか」
「全部を塞ぐためやない」
老女は首を振った。
「板を上げ下げするための重しやったはずや」
石の脇を調べると、土の中から腐った木の端が見つかった。
水止め板だった。
板は朽ち、周囲へ塗った粘土だけが固く残っている。
長い間使われなかったため、開け閉めできる水門が、一つの栓のようになっていた。
「誰かが勝手に塞いだんやないんやな」
重蔵が言った。
「使い方が伝わらんようになった」
果心は窯の石へ手を当てた。
「人の悪意に見えるものが、忘れられた工夫であることもある」
「果心さんが言うと、何か怪しい」
「わしの反省を含めた、ありがたい言葉じゃ」
石をそのまま抜くことはしなかった。
まず窯より下に、新しい受け場を作る。
四番水路の先が三番水路へ繋がっているか、大人が両側から調べる。
細い竹筒を地面のくぼみへ当てると、向こう側で水の響きが返った。
完全には確かめられない。
だが、古い石組みの方向は一致していた。
そこで腐った板の横へ、指一本分だけ細い穴を開けることになった。
作業する者は石の正面へ立たない。
横から長い鉄棒を使う。
水が急に噴き出したら、すぐ退ける場所も空けた。
ごり。
固まった粘土が少し欠ける。
しばらく、何も起こらなかった。
次の瞬間。
しゅっ。
石の隙間から、黒い水が細く走った。
「下へ伝えろ!」
果心が青い灯を一つ上げる。
四番水路の下流で待つ者が、その光を確認した。
間もなく、木札が届く。
『受け場へ水、来る』
『泥、多し』
『三番水路へは、まだ入らず』
「繋がってへんの?」
茶太郎が地図を見つめる。
しかし、二枚目の札が来た。
『水、古い石溝へ入る』
そして三枚目。
『三番の受け場へ到着』
四番水路は、直接志津川へ流れ込む道ではなかった。
山の中で水の勢いを弱め、三番水路へ渡すための道だった。
「一つの道やなくて、道から道へ渡してたんや」
かん太が言った。
「シロとレオが水を分けたみたいに」
「うん。でも、分けるだけやない」
茶太郎は四番水路と三番水路の間へ、小さな丸を描いた。
「途中で受けて、弱めて、次へ渡してる」
水は少しずつ流れた。
龍が壺の水位も下がり始める。
だが、重蔵は窯の石を見たまま言った。
「このまま穴を広げよう。今なら全部抜ける」
「抜いたらあかん」
茶太郎が縄の外から答える。
「何でや。水は流れたやろ」
「雨が止んだあとも全部流したら、壺の水がなくなるかもしれへん」
「なくなったら安全やないか」
炭山の老女が首を振った。
「壺の水は、夏の日照りにも残った。獣も鳥も、あそこで飲む。下の沢が細ったときは、うちらも助けられた」
龍が壺は、大雨の危険だけではなかった。
水を溜め、乾いた日に少しずつ渡す役目も持っていた。
空にすることが解決ではない。
「新しい板を作ろう」
茶太郎が言った。
「開けるための板やなくて、開けたり閉じたりできる板」
「誰が動かす?」
重蔵が尋ねる。
「炭山の人。水輪が勝手に触ったらあかん」
「記録は?」
「開けた時刻と、閉じた時刻。水の高さと、下流の濁りだけ。炭の数は書かへん」
古道を知らせの道として使うときに交わした約束も守る。
水路を直したことを理由に、炭山の仕事を数えない。
外から来た者が、水門を支配しない。
その日のうちに新しい板を作ることはできなかった。
仮の細い栓を入れ、水を少量だけ通す。
正式な板は、乾いた木を選び、膨らみ方を確かめてから作ることになった。
夕方。
龍が壺の水は、雨の前より少し高いところで止まった。
朝日山観音の銅板へ夕日が差す。
水面に現れた龍の影は、以前より小さく見えた。
その周りを、幾つもの小さな光が泳いでいる。
『流れる』
『溜まる』
『休む』
『また流れる』
ナギをはじめとする小さな水の霊たちの声だった。
長い影は一度だけ頭を上げた。
茶丸が静かに鳴く。
「ニャ」
白灯も答える。
「にゃ」
果心は二匹の声を聞き、茶太郎へ伝えた。
「龍は礼を言うておる……ように、わしには聞こえる」
「決めつけへんの?」
「水の心まで読めると申せば、外法僧もいよいよ大法螺吹きじゃ」
茶太郎は笑った。
帳面には、
『龍の影、頭を上げる』
『小さな光、四本の水路へ分かれる』
とだけ記した。
最後の五番水路は、まだ開けない。
四本で雨を受けられるか、次の雨でも確かめる。
受け場の泥を誰が除くか。
水止め板を誰が点検するか。
灯が見えない昼や、霧の日にどう知らせるか。
決めることは、まだいくつも残っている。
それでも、龍が壺から聞こえていた苦しげな水音は消えていた。
夕暮れの山に戻ったのは、怪異が去った静けさではない。
細い水が、それぞれの道を流れる音だった。
その夜、宇治から届いた文の端に、友照が一行だけ書き添えていた。
『シロとレオは元気。けど、果心さんの御飯まで用意するん?』
果心は文を読み、真顔になった。
「これは重大な相談じゃな」
「水路より?」
「今後のわしの暮らしに関わる」
弥七が呆れたように息を吐く。
茶太郎は笑いながら、返事を書いた。
『用意してあげて。
その代わり、果心さんにも働いてもらいます』
龍の水を分けた炭山で。
外法の僧が、茶太郎たちと共に歩くための居場所もまた、少しずつ形になり始めていた。




