第289話 「雨の夜と、閉じるための水門」
――水を通す道には、止める手立ても要る――
雨は、夜半を待たずに来た。
ぽつり。
ぽつり。
初めは杉の葉を叩くだけだった音が、たちまち山全体を包んだ。
ざああああ——。
炭山の見張り小屋では、茶太郎たちが雨戸の隙間から外を見ていた。
子どもは水路へ近づかない。
茶丸と白灯も、増水した流れを確かめに出さない。
水路の見張りと板の操作は、山に慣れた大人たちが担当している。
茶太郎たちの役目は、届いた木札を地図へ置き、どこで何が起きているかを見失わないことだった。
「一番水路、流れ増える!」
戸が開き、雨具を着た男が木札を差し出した。
かん太が受け取り、地図の一番水路へ置く。
『流れ、昨日の三倍』
「受け場は?」
「まだ持っとる。泥も越えてへん」
続いて二番水路。
『濁りあり。田へ入らず』
三番水路。
『水、少しずつ増える』
朝日山観音の下から志津川へ向かう、前日に開けたばかりの流れだった。
茶太郎は三枚の札を見比べた。
「龍が壺は?」
「まだ知らせがない」
重蔵は落ち着かず、戸口と地図を何度も見た。
「妹の家を見てくる」
「今から一人で出たらあかん」
弥七が止める。
「家には見張りがおる。危なくなったら、先に避難させる決まりや」
「せやけど——」
そのとき、朝日山の中腹に青い灯が浮かんだ。
一つ。
二つ。
三つ。
果心居士が見張り場ごとに仕込んだ合図だった。
青は、流れている。
赤は、止める。
白は、人を避難させる。
幻の灯そのものに水を動かす力はない。
離れた場所にいる者が、同じ意味を見られるようにするだけだ。
「三つとも青や」
かん太が言った。
果心は目を閉じ、雨音へ耳を澄ませていた。
「……いや」
白灯が低く鳴く。
「にゃあっ」
茶丸も戸口へ向かって耳を伏せた。
「三番の音が違うそうじゃ」
「音?」
「水の音に、石の擦れる音が混じった」
果心が目を開けた。
しかし、すぐに赤い灯を出そうとはしなかった。
「猫の知らせだけで水門を閉じるの?」
茶太郎が尋ねる。
「閉じれば、上へ水が戻るかもしれぬ」
「ほな、確かめてもらおう」
茶太郎は『三番水路、石音あり』と木札へ書いた。
弥七が外の大人へ渡す。
「近づける場所まででええ。危なければ戻れ」
しばらくして、三番水路から見張りが戻った。
「受け場へ枝が詰まり始めとる!」
「水が越えそうなん?」
「このまま増えたら越える。けど、受け場へ下りるんは危ない」
地図を囲む者たちの顔が険しくなった。
「三番を閉めろ」
重蔵が言った。
「全部閉めたら、水は家の方へ戻る」
「ほな開けたままにするんか!」
「全部やない」
茶太郎は地図の三番水路を指した。
「少しだけ閉める。流れる水を減らして、雨が弱くなるまで待つ」
「半分閉じる板なんかないぞ」
山仕事の男が言う。
用意していたのは、水路を塞ぐ一枚板だった。
開けるか。
閉じるか。
二つしか考えていなかった。
「果心さん、幻で板を細くはできへん?」
「見た目なら細くできる。じゃが、幻の板は水を止めぬ」
「分かってる」
茶太郎は木札を三枚取り出した。
「本物の板を、少しずつ入れて止める。その深さを、果心さんの灯で知らせられへん?」
果心は一瞬だけ黙った。
それから、口元を緩める。
「できる。青が二つなら、そのまま。青が一つなら半分。赤なら全部止める」
「でも、板を入れる人が危ない」
弥七が地図を見た。
「上から綱で引けるようにしてある。二人で杭の後ろから動かせば、水際へ下りんで済む」
用意した仕組みが、初めて役に立つ。
果心が指を組んだ。
朝日山の三番水路の上で、三つあった青い灯が二つ消える。
残った一つが、雨の中で揺れた。
見張りの大人たちは、杭の後ろから綱を引いた。
水止め板が、半分まで下りる。
勢いを減らした水が受け場へ入った。
枝は残っている。
だが、水が土手を越える速さは弱まった。
やがて三番水路の札が届いた。
『板、半分』
『水、越えず』
『泥、増える』
「まだ安心できへん」
茶太郎は地図から目を離さない。
その直後、龍が壺の方角で白い灯が上がった。
避難の合図。
重蔵が立ち上がる。
「妹の家か!」
「違う!」
知らせ役が駆け込んできた。
「壺の見張り場や。地面から水が出た!」
龍が壺そのものがあふれたのではなかった。
壺から少し離れた古い炭窯の跡で、石の隙間から水が噴き出したという。
「四番水路の近くや」
かん太が地図を指す。
まだ開けていない水路の一つだった。
「開けたら水が逃げる!」
重蔵が叫ぶ。
「待って」
茶太郎が止めた。
「その先を確かめてへん」
「待っとる間に壺があふれたらどうする!」
「せやから、人を先に逃がす」
白い灯が二つ、三つと増えた。
龍が壺の近くにいた見張りたちは、安全な尾根道へ退いた。
水を逃がすより、人が逃げる方が先だった。
雨の中、低い音が響いた。
ごおおお……。
山の奥で、大きなものが息を吐いたような音。
茶丸が毛を逆立てる。
「……ニャッ!」
白灯は地図の四番水路ではなく、その先へ前足を置いた。
「にゃ。にゃっ」
果心が二匹を見た。
「四番の先に、水の匂いがあるそうじゃ」
「川?」
「川とは言うておらぬ。流れたことのある場所、と」
炭山の老女が、はっと顔を上げた。
「昔の炭窯や」
「窯?」
「あそこには、一つ前の窯が埋まっとる。窯を作り直したとき、古い水抜き穴を石で塞いだはずや」
現在の地図にはない。
だが、人の記憶には残っていた。
四番水路は山の外へ水を出す道ではなく、古い炭窯の下を通り、三番水路の受け場へ繋がっていた可能性がある。
「今すぐ石を外すんは危ない」
弥七が言った。
「明るくなって、雨が弱まってからや」
「それまで持つんか」
重蔵の声が震える。
果心が地図の上へ青い幻を浮かべた。
一番水路。
二番水路。
半分に絞った三番水路。
どれも細く流れている。
龍が壺へ集まる青い光は、昨日より少なかった。
「持つとは言い切れぬ」
果心は答えた。
「じゃが、三本が今も水を分けておる。壺一つに耐えさせてはおらぬ」
重蔵は唇を噛んだ。
やがて、妹の家から木札が届く。
『皆、避難済み』
『床下の水、増えず』
重蔵の肩から、ようやく力が抜けた。
夜明け前。
雨は細くなった。
三本の小水路は、どれも壊れずに流れていた。
三番の受け場には泥と枝が溜まったが、水は土手を越えなかった。
龍が壺も、縁まで水を満たしながら、あふれずに残っていた。
朝日山観音の銅板へ雨水が張っている。
その水面で、龍の影がゆっくりと身を起こした。
長い尾が、まだ閉じた四番水路の先を指す。
そして一度だけ、水面を打った。
ぱしゃり。
影は消えた。
茶太郎は帳面へ書いた。
『雨の日、三本の水路は流れた』
『三番は枝が詰まり、板を半分閉じた』
『開けるだけでは足りない。途中で弱め、止められる仕組みが要る』
『四番水路の先に、古い炭窯の水抜き穴があるかもしれない』
最後に、
『雨を一度越えた。成功とは、まだ書かない』
と加えた。
空が明るくなる。
山仕事の者たちは、古い炭窯を外から調べる支度を始めた。
水を通した夜の次に待っていたのは——人が昔、自分たちの手で塞いだ水の道だった。




