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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
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第288話 「二匹が分けた水と、幻の見取り図」

 ――答えは、ときに遠く離れた場所から見つかる――


 龍が壺の水面に現れた長い影は、日が落ちると消えた。

 残ったのは、朝日山観音の銅板に記した一文字。


『まだ』


 それが龍の言葉だったのか。

 水の揺れを、そう読んだだけなのか。

 誰にも決めることはできなかった。


 茶太郎たちは、分かったことだけを炭山の小屋で帳面へ書いた。


『開いた水路、二つ』

『家の床下の水、少し下がる』

『田畑への泥水、今のところなし』

『使っていない水路、三つ』

『龍が壺の影、正体不明』


 弥七やしちが地図を見つめる。


「残りも一つずつ確かめるしかないな」


「雨が来る前に、全部開けたらあかんのか」


 若い炭焼きの重蔵が言った。


 空には灰色の雲が増えている。

 湿った風が杉の葉を裏返し、遠くで低い雷が鳴った。


「妹の家へ、また水が上がるかもしれん」


「せやけど、三つ一緒に開けたら、どの水がどこへ行ったか分からへん」


 茶太郎が答えた。


「分かるまで待っとったら、雨が来る!」


 重蔵の声が荒くなる。


 茶太郎も、すぐには言葉を返せなかった。

 急ぎたい気持ちは同じだった。

 だが、早く水を逃がそうとして、別の家や田畑へ押しつければ、助けたことにはならない。


 そのとき、軒下で茶丸が鳴いた。


「……ニャッ」


 白灯あかりも空を見上げる。


「にゃ」


 果心居士は二匹の声へ耳を傾けた。


「雨は今夜ではない。されど、遠くもないそうじゃ」


「茶丸たちに、雨の時まで分かるん?」


「匂いと風の重さじゃ。時刻までは分からぬ」


 果心は肩をすくめた。


「猫の言葉を、人に都合よく大きくしてはならん」


 分からないものは、分からないまま残す。

 それでも時間が足りないことだけは確かだった。


「秘密基地へ、地図を送ろう」


 茶太郎が言った。


「宇治へ?」


「うん。ここで見てる人だけやと、龍が壺を出口やと思い込んでるかもしれへん」


 かん太が首を傾げる。


「出口と違うん?」


「まだ分からへん。せやから、知らん人にも見てもらう」


 地図には、山の高さ、水が現れた場所、開いた二本の水路、残る三本を描いた。

 さらに、それぞれの場所で採った土を少しずつ別の紙へ包む。


 濡れた土には触れず、山仕事の大人が乾いた表面だけを採った。

 包みには場所の印を付けた。


 青灰色の羽音が降りてくる。


「くるっ」


 シオだった。


 地図と文は、雨覆いをした小さな筒へ入れられた。


『龍が壺を出口として開けるべきか。

 残る三つの水路を、どの順で確かめるか。

 秘密基地から見てほしい』


 シオは穀粒と水で身体を休めると、宇治へ向かって飛び立った。


 ◇


 文が秘密基地へ届いたのは、その日の夕方だった。


 友照と千代が地図を広げる。

 シロとレオも寄ってきた。


「踏んだらあかんよ」


 千代が地図の端を押さえる。

 だがシロは、地図ではなく、横に並べた土の包みへ鼻先を寄せた。


 一つ目。

 二つ目。


 開いた水路の土には、短く鼻を動かす。

 龍が壺に近い土の前では、顔を背けた。

 最後に、朝日山観音の下で採った土へ戻り、前足で包みを押さえた。


「ここが気になるん?」


 友照が包みの印を確かめる。

 その横で、レオが水の入った椀へ前足を伸ばした。


「こら、こぼしたら——」


 友照が止めるより早く、椀が傾いた。


 水が板の上へ流れる。


 レオは水を追い、一筋に集まりかけた場所へ前足を置いた。

 水は二つに分かれた。


 さらにシロが反対側へ座る。

 流れは三つの細い筋となり、板のくぼみへ散っていった。


「一つに集めへん……?」


 千代が呟いた。

 友照は地図へ目を戻した。


 龍が壺は、山から下りる水が集まる低い場所にある。

 そこから無理に水を抜こうとしていた。


 だが、昔の小水路は壺より上で枝分かれしている。


「龍が壺は、水を出す場所やないんかもしれへん」


「水を受ける場所?」


「大雨の水を、いったん受け止める壺……」


 友照は新しい紙を取り出した。


『龍が壺を崩さない。

 壺へ集まる前に、水を小さく分けてはどうか。

 観音下の土を、先に確かめてほしい』


 まだ答えとは書かない。


 シロとレオがしたこと。

 そこから自分たちが考えたこと。

 二つを分けて記した。


 シオが再び空へ上がった。


 ◇


 翌朝、返事が炭山へ届いた。


 茶太郎が文を読み上げると、重蔵が眉を寄せた。


「二匹が水をこぼしただけやないか」


「うん。せやから、正しいとは決めへんよ」


「ほな、何の役に立つ」


「ぼくらと違う見方をした」


 果心居士が笑った。


「人は壺を見れば、中身を空にしたくなる。猫らは、入る前に分けた。なかなか面白い」


 果心は地面へ古い地図を置いた。


「わしの術で、見やすくしてみよう。ただし——」


 皆の顔を順に見回す。


「これから見せる水は本物ではない。流れるかもしれぬ道を、色で示すだけじゃ」


 果心が指を鳴らした。


 地図の上へ、淡い青い光が浮かぶ。

 龍が壺へ向かって一本の太い流れが伸びた。

 そのまま進めば、重蔵の妹の家の近くを通る。


 次に、三本の細い光が現れた。


 一つは古い炭窯の脇。

 一つは朝日山観音の下。

 もう一つは杉林を抜け、志津川へ向かう。


 しかし三本目は、途中で灰色に消えた。


「そこから先は?」


 かん太が尋ねる。


「分からぬ」


 果心は即座に答えた。


「見ておらぬ場所まで描けば、幻が嘘になる」


 以前の果心なら、もっともらしい道を最後まで見せただろう。

 今は、知らない場所を空白のまま残している。


 弥七が青い線を見比べた。


「観音下の水路なら、昨日下流を調べた。古い石組みが志津川の手前まで残っとる」


「でも、その先に泥が溜まってる」


 山仕事の男が言う。


「いきなり開けたら、泥ごと流れるぞ」


「ほな、先に泥を受ける場所を作る」


 茶太郎が答えた。


 作業をするのは大人だけ。

 子どもたちは離れた見張り場に残る。

 下流には、流れの変化を見る者を置く。


 古い水路の先へ浅い受け場を掘り、枝と石で泥を受け止める。

 水を止める板も用意する。

 異変があれば、朝日山の煙と木札で知らせる。


 準備が整ってから、観音下の詰まりを指二本分だけ開いた。


 ちょろり。

 黒い水が染み出す。


 最初は泥が混じった。

 だが、受け場で勢いを失い、細かな土が底へ沈んでいく。

 上澄みだけが、古い石組みを伝って流れた。


「志津川へ入った!」


 下流から木札が上がる。


『水、少し濁る』


 しばらくして、二枚目。


『濁り、増えず』


 さらに、重蔵の妹の家からも知らせが届いた。


『床下の水、指一本下がる』


 重蔵はその札を握りしめ、何度も読み直した。


「壺を壊さんでも……下がった」


「まだ少しだけや」


 茶太郎が言う。


「雨のときに同じように流れるかは、分からへん」


 夕暮れ。


 朝日山観音の銅板へ、薄く水を張った。

 赤い光の中に、龍のような影が再び現れる。


 長い影は、開いた三本の小水路をゆっくり巡った。

 そして龍が壺のところで丸く身を伏せた。


 水面が揺れる。


 茶丸が耳を立てた。


「……ニャ」


 白灯も静かに座る。


「にゃ」


 果心が二匹の声を聞き、目を細めた。


「壺は、出口ではないそうじゃ」


「何て言ってるん?」


「受けるところ。休むところ。あふれる前に、分けてほしい、と」


 茶太郎は龍の言葉だとは書かなかった。


 代わりに帳面へ、こう残した。


『影は壺で丸くなった』


『茶丸と白灯は、壺を壊すなと感じた』


『観音下の小水路を少し開くと、家の水は下がった』


『雨の日も同じかは、まだ分からない』


 遠い空で雷が鳴った。


 今度は、昨日より近い。


 シロとレオが示した小さな分かれ道は見つかった。

 だが、それが本当に山の水を受け止められるかどうか。


 答えを持ってくる雨が、朝日山の向こうまで迫っていた。


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『茶太郎がゆく』
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