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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
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第287話 「小さな水路と、壺に残った龍の影」

 ――早く終わらせたいときほど、一つの大きな答えへ飛びつかない――


 炭山の朝は、水音を数えることから始まった。


 一つ目。

 昨夜開いた古い溝。


 二つ目。

 朝日山観音の祠から滲み出す水。


 三つ目。

 庄吉の家の床下から流れ出した水。


 それぞれの場所で、大人たちが水位と濁りを確かめる。

 茶太郎とかん太は炭山の返し小屋に残り、届いた知らせを帳面へ記した。


『古い溝、水位変わらず』


『観音の祠、濡れた範囲が小石一つ分広がる』


『床下の水、昨夜より指一本下がる』


「下がってるのと、増えてるのがあるんやな」


 かん太が地図を見た。


「水が一か所から減った分、別の場所へ出てるんかな」


「まだ分からへん」


 茶太郎は青い小石を動かさなかった。


「同じ水かもしれへんし、違う水かもしれへん」


 尾びれの長い水霊、ナギが残した言葉がある。


『大きな出口を一つ作らないで』


『小さな道を、幾つも戻して』


 そのためには、使われなくなった水路をもう一度探さなければならない。

 炭焼きの老女が、古い記憶を一つずつ辿った。


「昔は家の裏にも浅い溝があった」


 木炭で描いた地図へ、細い線を足す。


「こっちは畑を増やしたときに埋めた。こっちは炭俵を置く小屋を建てて塞いだ」


「全部戻すん?」


「戻したら、今ある畑や小屋が使えんようになる」


 古いものを見つけたからといって、そのまま昔へ戻すことはできない。


「今の暮らしも残して、水も通せる場所を探すんやな」


 かん太が言った。


「うん。一つずつ」


 茶太郎は地図の端へ、五つの印を描いた。


 今すぐ確かめられる小溝が五本。

 だが同時には開けない。


 一つ開ける。

 水の量を見る。

 下流へ届いたか確かめる。

 危なければ閉じる。


 変化を記録してから、次へ進む。


「随分と悠長なことをしとるな」


 返し小屋の外から声がした。


 炭山の若い炭焼き、重蔵だった。

 腕と頬へ黒い煤が染みつき、腰には山刀を差している。


「家が一軒沈んだんやぞ。次の雨が来る前に、龍が壺の詰まりを崩した方が早い」


「壺の近くは、斜面が動いてる」


 茶太郎が答えた。


「せやから、山仕事の者を連れていく。上から岩を外したら水は流れる」


「どれだけ出てくるか分からへんよ」


「ここで溝を一本ずつ掘っとる間に、別の家が沈んだらどうする!」


 重蔵の声が返し小屋へ響いた。


 茶丸が耳を伏せる。

 白灯あかりは茶太郎のそばへ寄った。

 果心居士かしんこじが重蔵を見つめる。


 荒い息。

 固く握られた右手。

 山刀へ触れながらも、抜こうとはしていない。


 視線は茶太郎ではなく、何度も床下の水が出た家へ向いていた。


「そなた——」


 果心が口を開き、途中で止めた。


「何や」


 重蔵が睨む。


「いや。尋ねよう」


 果心は声を和らげた。


「今すぐ壺を開きたい理由は、ほかにもあるか?」


「家を守るためや」


「誰の家じゃ」


 重蔵の顎が強張った。


「……次に水が来そうなんは、妹の家や」


 妹は、幼い子を二人育てていた。

 すでに高台へ避難している。


 だが夫は別の村へ炭を運びに出ており、まだ戻っていない。


「帰ってきたとき、家まで失うてたら、妹は何て言えばええんや」


 重蔵は怒っているのではなかった。

 何もできずに待つことへ耐えられなかったのだ。


 果心が茶太郎を見た。


「言い当てずに済んだぞ」


「自分で話してもらえたな」


「そなたのやり方は、時間がかかる」


「でも、間違ってたら本人が直せるよ」


 果心は小さく頷いた。

 茶太郎は重蔵へ向き直る。


「妹さんの家を守れるって約束はできへん」


「なら——」


「でも、人が戻れる場所は守れる。家の近くの水を、先に確かめることもできる」


 五つの小溝のうち、一本は妹の家より高い場所にあった。

 そこを少し開けば、床下へ向かう前に水を別の溜め場へ渡せるかもしれない。


「最初に、そこを調べよう」


「わしを連れていけ」


「掘るかどうかは、下まで確かめてからやで」


「分かった」


 重蔵は山刀から手を離した。


 弥七やしちと山仕事の者たちが、小溝の下流へ入った。

 重蔵も案内として同行する。


 茶太郎たちは、安全な平地に設けた見張り場から待つ。

 茶丸と白灯も、崩れた斜面へは近づかない。

 果心は二匹の横へ腰を下ろした。


『今日は行かへんのか』


 茶丸が尋ねる。


「人の心を見る役目は、先ほど終えた」


『見ただけやろ』


「聞くところまで進んだ」


『茶太郎に教わったんやな』


「一言多い猫じゃ」


 白灯は山の方へ鼻を向けた。


『水の子がいる』


「ナギか?」


『違う。もっと小さい』


 果心が耳を澄ます。

 人には沢の音しか聞こえない。

 だが、その底へ幾つもの細い声が混じっていた。


『こっち』


『暗い』


『根が重い』


「昨日より、言葉が分かれておる」


 果心は聞こえたままを茶太郎へ伝えた。


「声が一つに重ならんようになったんかな」


「水の道が少し戻ったから、離れ始めたのかもしれぬ」


「決めつけたらあかんよ」


「分かっておる」


 果心が先回りして答える。


『慣れてきたな』


「黒猫殿に褒められても、なぜか嬉しくない」


 昼前。


 下流を確認した者たちが戻ってきた。


「小溝の先に、浅い窪地がある」


 弥七が地図へ印をつける。


「昔の溜め場やろ。今は草が生えとるけど、人家も畑もない。その先は、昨日開けた古い溝へ合うとる」


「ほな、開けられる?」


「少しだけや」


 掘る場所へ立つのは、山仕事に慣れた大人だけ。

 妹の家族は高台に残る。

 水を見に戻らない。

 古い溝の下流にも人を置き、増えたらすぐ板を閉じる。

 水を通す者と、止める者を別にした。


 重蔵が鍬を持つ。


「指二本分だけやぞ」


 弥七が念を押す。


「分かっとる」


 鍬が湿った土へ入る。


 一度。

 二度。


 腐った落ち葉と細い根が取り除かれた。

 最初に出てきた水は、赤茶色に濁っていた。


「止めるか?」


 重蔵が尋ねる。


「まだ印より下や。鍬を置いて待つ」


 誰も掘り進めない。


 水は細い糸となって窪地へ流れ込んだ。

 窪地の草が揺れ、浅い水面が広がっていく。


 少し遅れて、下流から鐘が一度鳴った。

 水が古い溝へ届いた合図だった。


「妹の家は?」


 重蔵が振り返る。

 見張りの男が床下へ立てた棒を確かめる。


「下がっとる。ほんの少しやけど、紐より下や!」


 重蔵の肩から力が抜けた。

 だが茶太郎は、すぐには喜ばなかった。


「一つ開けた分、ほかの水が増えてへんか確かめて」


 観音の祠。

 庄吉の家。

 龍が壺手前の沢。


 それぞれへ知らせが送られる。


 昼過ぎ、結果が揃った。


 観音の滲み水は変わらない。

 庄吉の家の水は指半分下がった。

 沢の濁りも急には増えていない。

 妹の家では、水音が小さくなった。


「うまくいったんやな」


 重蔵が言った。


「今のところは」


 茶太郎は帳面へ記した。


『二本目の小溝、指二本分開く。

 水、古い溜め場を通り、第一の溝へ届く。

 下流の畑へ流入なし。

 妹の家、床下の水位わずかに下がる』


「まだ『成功』とは書かへんのか」


「雨の日も同じか分からへんから」


「慎重すぎる童やな」


「六つやからな」


「また六つ言われた!」


 返し小屋に笑いが起きた。


 その夕刻。

 五本の小溝のうち、二本だけが水の道を取り戻していた。

 残る三本には手をつけない。


 今日の変化を一晩見てから、次を決める。

 炭山の水場へ置いた木椀の濁りは、朝より薄くなった。


 白灯が水面を覗き込む。


『小さい子、泳いでる』


 目を凝らすと、尾びれほどの淡い影が幾つも流れていた。

 ナギよりも小さな水霊たちだ。

 一匹ずつでは形も保てない。

 それでも、戻った細い水路を下流へ進んでいる。


『流れる』


『軽い』


『戻れる』


 果心が声を伝える。


 茶太郎は地図の二本の線へ、青い糸を置いた。


「まだ二本だけや」


「二本も戻った」


 かん太が言い直す。


「残りは明日やな」


「明日、確かめてから」


「はいはい」


 日が山の端へ沈む。

 朝日山観音の銅板が、西日を受けて一度だけ淡く光った。


 前の夜ほど強くない。

 炭山の者たちは山へ駆け上がらず、光った時刻だけを記録した。


 そのとき。


 龍が壺の方角から、低い響きが届いた。


 ごうん。


 地面の下ではない。

 山の奥から、長い息を吐くような音だった。


 流れていた小さな水霊たちが、一斉に動きを止める。

 水面に、細長い影が映った。


 頭らしきもの。

 曲がった背。

 水の中へ続く長い尾。


 だが空を見上げても、そこには何もいない。


「果心さんの幻?」


 茶太郎が尋ねる。


「違う」


 果心の奇術道具は、布に包まれたままだった。


「水へ映っておるのに、空にはおらぬ」


 茶丸が背を低くする。


『見られてる』


 白灯は逃げず、水面を見つめ返した。


『怒ってへん』


「ほな、何て言うてる?」


 果心が二匹へ尋ねる。


 細長い影の口が、ゆっくり動いた。

 水面には声が届かない。

 代わりに、戻った二本の小溝から水が流れ込み、幾つもの波紋が重なった。


 その中心に、一つの言葉が浮かぶ。


『まだ』


 影は、それだけを残して消えた。


 龍が姿を現したのか。

 水霊たちの思いが、一つの形を作ったのか。

 誰にも分からない。


 茶太郎は帳面へ見たままを書いた。


『夕刻。水面に細長い影。

 空には姿なし。

 茶丸、白灯ともに「見られている」と感じる。

 波紋の中に「まだ」と聞く。正体不明』


 小さな道を二本戻しても、山の詰まりは終わっていない。

 残る三本の水路。


 そして、まだ近づくことのできない龍が壺。


 水面に残った最後の波紋が消えるまで、茶太郎たちは誰も「龍を見た」とは言わなかった。


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『茶太郎がゆく』
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