↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
PR
298/318

第286話 「見えない水の地図と、龍だけではない声」

 ――出口を作る前に、どこへ流れ着くかを確かめる――


 夜が明けると、炭山の地面には新しい水の跡が残っていた。


 床下から溢れた濁り水は、家の前を細く横切り、畑の手前で土へ消えている。


 昨日まで乾いていた場所だ。


「ここで終わってるん?」


 かん太が尋ねた。


「見えへんようになっただけや」


 茶太郎は水の跡から離れて答えた。


「土の下では、まだ流れてるかもしれへん」


 茶丸と白灯あかりが聞いた声。


『塞がれた』


『重い』


『流れたい』


 その正体は、まだ分からない。

 分からないものを追って、龍が壺へ近づくこともできない。


「下から確かめるって、どうするん?」


「水が出た場所を地図に書く」


 炭山の返し小屋へ、大きな紙が広げられた。


 炭山の老女と山仕事の男たちが、沢、家、畑、炭窯の位置を木炭で描く。

 正確な絵ではない。

 けれど、坂の上と下。


 水が流れる向き。

 人が暮らす場所との間が分かればよかった。


 朝日山観音の祠。

 その下から滲み出した水。


 龍が壺へ入る手前で濁った沢。

 床下へ水が回った家。

 道へ溢れた水が消えた畑。


 茶太郎は、それぞれへ青い小石を置いた。


「こうして見ると……」


 炭焼きの男が目を細める。


「一つの沢に沿うてへんな」


 水が現れた場所は、地表の沢から外れていた。

 だが高い場所から低い場所へ順に並べると、ゆるく曲がった一本の線に見える。


 果心居士かしんこじが、その線へ指を近づけた。


「山の中に、もう一本の沢があるようじゃな」


「ほんまにあるん?」


「そう見える、と申しただけじゃ」


 果心は指を引っ込める。


「土の中を見た者はおらぬ。拙僧がもっともらしく言えば、それだけで皆が信じかねん」


『少し学んだな』


 茶丸が言う。


「もう少し敬意を込めて褒められぬか」


『三日で偉そうにするな』


「三日も一緒に歩けば、少しくらい認めてもよかろう」


『まだ三日しか経ってへん』


 白灯が地図の上を覗き込む。


『青い石、魚みたい』


「触ったらあかんよ」


 茶太郎が言った直後、白灯の前足が一つの石へ伸びた。


 果心が先に拾う。


「白いの。これは遊び道具ではない」


『取られた』


「取ったのではない。守ったのじゃ」


『返して』


「話を聞いておらぬな」


 炭山の者たちから、わずかに笑いが漏れた。


 果心へ向けられていた警戒は、まだ消えていない。

 それでも、猫と本気で言い争う姿を見ていると、外法僧という噂だけでは測れなくなっていた。


 地図を確かめていた老女が、畑の下を指した。


「この先に、昔の溝があったはずや」


「溝?」


「大雨のとき、山から来た水を、人家のない谷へ逃がす溝や。わしが子どもの頃には、もう土に埋もっとった」


「掘れば、水を流せるんと違うか?」


 男の一人が立ち上がる。


「待って」


 茶太郎が止めた。


「水を通せても、その先に何があるか分からへんよ」


「谷や。人家はない」


「昔は、やろ?」


 前に見つけた古道も、昔の使い方と今の暮らしが変わっていた。

 水を逃がした先に、新しい畑や炭窯ができているかもしれない。

 谷が土砂で塞がっていれば、水を送ることで別の場所を崩すおそれもある。


「出口だけ開けたら、米蔵のときと同じじゃな」


 果心が呟いた。


 閉ざされた蔵を幻で開け、その先に必要な役目を用意しなかった。


 水の道も同じだった。

 塞がれた場所を開ければよいとは限らない。


「古い溝の先から調べる」


 弥七やしちが決めた。


「人の住んでへん場所まで水を逃がせると確かめてから、上を少しだけ開ける。子どもは掘る場所へ近づけへん」


 炭山の案内人と山仕事の男たちが、溝の下流へ向かった。

 茶太郎とかん太は返し小屋に残り、地図と時刻を記録する。

 茶丸と白灯も同行させなかった。


「拙僧は下流へ行ってもよいか?」


 果心が尋ねる。


「今日は幻を使わんでええやろ」


「人の心を見るのは幻ではない」


「見つけたことを、皆の前ですぐ言わん約束やで」


「承知しておる」


『ほんまか?』


「黒猫殿にまで念を押されずとも分かる」


『怪しい』


「ならば、拙僧を見張りに来るか?」


『危ない場所へ猫を連れてくな』


 茶丸は動かなかった。


「これは拙僧の負けじゃな」


 果心は弥七たちと下流へ向かった。


 昼前。


 最初の知らせが青羽便で届いた。


『古い溝の先、人家なし。谷に炭窯一つあり。今は使われず』


 茶太郎は地図へ、使われていない炭窯の印を加えた。

 だが、まだ水は流せない。

 炭窯が空でも、谷の下に何があるか分からない。


 二つ目の知らせ。


『谷の先、志津川へ合う。合流の手前に畑二枚あり』


「畑があるんや」


 かん太が言った。


「そのまま流したら、畑へ水が入るかもしれへん」


 古い溝を元どおりに掘る案は消えた。

 代わりに、畑の手前で水を受ける浅い溜め場を作り、溢れた分だけ既存の小溝へ渡せないか調べることになった。


 水を一気に逃がさない。

 土や木屑を沈める場所を途中へ置く。

 畑へ流れ込む前に、止められる板も用意する。


「仕事が増えたな」


 老女が言った。


「でも、下の畑を潰して炭山だけ助かるんは違うやろ?」


 茶太郎が答える。


「せやな」


 午後、弥七たちが戻ってきた。


 果心の衣の裾には泥が付いている。


「何かあったん?」


「谷の下で揉めた」


 弥七が答えた。


 畑を耕す者は、水を一滴も流すなと言った。

 炭山の者は、このままでは家が沈むと訴えた。


 互いに嘘は言っていない。

 互いに、自分たちの暮らしを守ろうとしていた。


「果心さんは何て言うたん?」


「何も」


 果心が答えた。


「言い返したい者の顔は分かった。逃げたい者も、譲りたいが仲間へ言えぬ者もおった」


「言わへんかったん?」


「そなたとの約束じゃからな」


 果心は少し不満そうだった。


「その代わり、一人ずつ別に話を聞いた。畑の者は水そのものが嫌なのではない。いつ来るか分からぬ水が怖いと申した」


「ほな、流す前に知らせる?」


「それだけでは足りぬ。止めたいとき、炭山へ戻せる合図が要る」


 地図の上へ、二つの木札が置かれた。


 炭山側には、水を送り始める印。

 畑側には、水を止めてほしいと返す印。


 どちらか一方だけで決めない仕組みだった。


「水まで、行きと返しがいるんやな」


 かん太が言った。


 翌朝。


 大人たちは、古い溝の最も低いところを指二本分だけ掘った。


 鍬を入れる者。

 土を運ぶ者。

 下流で水を待つ者。

 板を閉じる者。

 合図を送る者。


 それぞれを分ける。


 茶太郎たちは縄の外から見守った。


「水、来るかな」


「来んかったことも結果や」


 溝の土が少しずつ取り除かれる。


 最初に出たのは、水ではなかった。

 濡れた落ち葉。

 黒い泥。

 細い木の根。

 やがて泥の隙間から、透明な雫が一つ落ちた。


 ぽつん。

 もう一つ。

 それが細い糸のように繋がる。


「開いた!」


「まだ喜ぶな!」


 弥七の声が飛ぶ。


 水は急に増えるかもしれない。

 大人たちは鍬を置き、誰も溝へ近づかずに待った。


 指一本。

 指二本。

 水位は、決めた印より上がらない。


 下流から青羽便が戻る。


『溜め場へ水届く。畑へ入らず』


 炭山側では、流れ出した時刻を記した。

 下流では、届いた時刻を記した。

 水がどれほどの速さで動いたか、次に比べられる。


「うまくいったん?」


「今のところはな」


 弥七が答えた。


「雨が降ったら変わる。泥でまた塞がるかもしれん。七日は見る」


「また七日や」


 かん太が笑った。


 その夕方。


 床下の水は、紐の印より指一本分下がっていた。

 龍が壺へ続く沢の濁りも、わずかに薄くなっている。


 だが、茶太郎は帳面へ『成功』とは書かなかった。


『古い溝を指二本分開く。

 下流の溜め場まで水届く。

 畑へ流入、今のところなし。

 床下の水、指一本下がる』


 果心が横から覗く。


「ずいぶん長い書き方じゃな」


「短くして、大事なところが消えたら困るやろ」


「幻術師には耳の痛い言葉じゃ」


 茶丸と白灯は、返し小屋の外で細い流れを見ていた。


『声、少し遠くなった』


 茶丸が言う。


『けど、まだいる』


 白灯が水面へ耳を傾ける。


 果心が二匹の言葉を伝えようとした、そのときだった。


 水の中で、細長い影が揺れた。

 魚にしては、尾びれが長い。

 影にしては、水の流れに逆らっている。


「ナギ?」


 茶太郎が呼ぶ。


 尾びれの長い小魚の姿をした水霊、ナギが、浅い流れから顔を出した。

 身体はいつもより淡く、向こうの小石が透けて見える。


『茶太郎』


 細い声が、水の表面へ波紋を広げた。

 果心が目を見開く。


「この者の声は、猫よりずっと深いところから響くな」


「ナギ、龍が苦しんでるん?」


 水霊は、すぐには頷かなかった。


『龍が壺には、古いものがいる』


「龍?」


『そう呼ばれてきたもの』


 ナギの尾が、弱々しく揺れる。


『でも、苦しいのは一つだけじゃない』


 水が山の中で塞がれたため、小さな水霊たちも流れを失っていた。


 土の隙間。

 木の根元。

 石の下。

 本来なら志津川へ下るはずの霊たちが、行き場を失い、重なっていた。


 茶丸と白灯に届いた声は、一匹の巨大な龍の声ではなかった。

 幾つもの小さな声が、重なって一つの響きになっていたのだ。


「龍を助けたら終わり、やないんやな」


『うん』


 ナギは答えた。


『大きなものだけ見たら、小さなものの道が消える』


 茶太郎は、地図に置かれた青い小石を見た。

 一つ一つは小さい。

 だが並べれば、見えなかった水の道が浮かび上がった。


 果心が静かに言う。


「人の心も似ておる。大きな声ばかり聞けば、黙った者の恐れを見失う」


『果心が真面目なこと言うた』


 茶丸が振り返る。


「拙僧とて、時には申す」


『記録しとこ』


「珍しい出来事のように扱うでない」


 ナギの姿が水へ溶け始める。


「待って。どうしたら、みんな流れられる?」


『一度に開けないで』


 ナギの声が細くなる。


『小さな道を、幾つも戻して』


 水面に、尾びれの波だけが残った。

 古い溝一つで、山の水すべてを背負わせてはならない。


 朝日山の滲み水。

 炭山の床下。

 濁った沢。

 使われなくなった小溝。


 それぞれに、少しずつ流れを返す必要がある。


 茶太郎は帳面へ、新しい言葉を書いた。


『大きな出口を一つ作らない。

 小さな水の道を、幾つも確かめて戻す』


 龍が壺へ続く道は、まだ閉じられたままだった。


 けれど茶太郎たちは、龍を見に行かなくても、その周りで苦しむ小さな声へ届く方法を見つけ始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
面白いと思っていただけたら、ぜひブックマークや評価(★)をお願いします!
『茶太郎がゆく』
style=
目次からブックマークをお願いします
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。