第285話 「床下の水と、帰る場所を示す幻」
――人を欺く術でも、何を隠し、何を伝えるかで役目は変わる――
夜半。
炭山の家の床下から、水音がしていた。
さらさら、ではない。
ごぼっ。
ごぼっ。
狭い場所へ押し込まれた水が、土の中から息を吐くような音だった。
「中へ入ったらあかん!」
家へ駆け寄ろうとした男を、弥七が止めた。
「家族は避難しとる。取り残された者はおらん」
「道具がある! 炭の売り帳も、冬の米も!」
「床が抜けるかもしれん。今は入れへん」
家の柱は、闇の中でも分かるほど傾いていた。
土間の端から濁った水が滲み出し、月明かりを鈍く映している。
茶太郎とかん太は、家から十分に離れた返し小屋に残された。
茶丸と白灯も、床下へ入れない。
影猫衆の役目は、危険な隙間へ潜って安全を試すことではなかった。
「水、増えてる?」
茶太郎が尋ねる。
炭焼きの老女が、庭へ立てた細い棒を確かめた。
棒には、先ほど水が届いていた場所へ紐が結ばれている。
「指二本分、上がっとる」
「時刻も書いて」
「子の刻。紐より指二本」
かん太が帳面へ記した。
水は一軒の床下だけではなかった。
隣の納屋。
その下の畑。
村の水場へ続く細い道。
目には見えないところで広がり始めている。
「鐘を鳴らす」
弥七が決めた。
「沢へ近い家は、決めた場所へ移ってもらう。水場の水は使うな。火の入った炭窯には、慣れた者だけが見に行く」
炭山の鐘が、夜の山へ響いた。
かあん。
一度。
間を置いて二度。
事前に決めた、避難を始める合図だった。
だが、家々から出てきた者の足は揃わなかった。
「龍が怒ったんや!」
「壺から水が上がってきた!」
「観音さんの光が消えたからや!」
誰かが走れば、別の者も走る。
荷を抱えた者と、子どもの手を引く者が狭い道でぶつかる。
暗がりの先では、避難場所へ続く道と、沢へ下りる道が分かれていた。
「そっちは沢や!」
炭焼きの男が叫ぶ。
だが鐘と人声に紛れ、後ろの者まで届かない。
果心居士は、弥七が持つ布包みを見た。
「道具を返してくれ」
「何をする?」
「道を見せる」
「偽物の道を出すんか?」
茶太郎が身を乗り出した。
「逆じゃ。本物の道を、遠くからも見えるようにする」
果心は皆に聞こえる声で続けた。
「これから見せる青い灯は幻じゃ。火ではない。触れても熱くない。灯が並ぶ先が、決めておいた避難場所じゃ」
先に、嘘だと伝えた。
何のための幻かも伝えた。
「赤い灯は?」
弥七が尋ねる。
「沢へ続く道へ置く。近づくなという印じゃ」
「色を見分けられへん人もおる」
茶太郎が言った。
「ならば形も変えよう。青は丸。赤は罰の斜め木じゃ」
「消える前に、人の案内へ渡して」
「承知した」
果心へ鏡と鈴、白い粉の包みが返された。
ただし火打石は渡さない。
本物の火は必要なかった。
果心は鏡を月へ向け、鈴を一度鳴らした。
ちりん。
暗い道の上へ、淡い青の光が一つ浮かんだ。
次に二つ。
三つ。
丸い灯が、避難場所である高台まで、一定の間隔で並んでいく。
一方、沢へ下りる分かれ道には、赤い斜めの光が交差した。
「丸い青を追え!」
「赤い印へ行くな!」
大人たちが声を揃える。
人々の足が、ようやく一つの方向へ動き始めた。
「すごい……」
かん太が呟く。
「まだや」
茶太郎は青い灯を見つめた。
「あれが消えたあとも、道が分からな困る」
弥七はすぐに人を分けた。
青い灯一つにつき、大人を一人立たせる。
手には白い布を結んだ杖。
声が届かない場所では、杖を大きく振って次の者へ渡す。
子どもと老人を先に通す。
荷を取りに戻らないよう、家ごとに人数を確かめる。
「一つ目、立った!」
「二つ目もおる!」
「三つ目、渡せる!」
人の案内が整ったところから、果心は幻を一つずつ消した。
青い灯が消えても、白い布を持つ者が残る。
最後の光が消えたとき、避難する人々はすべて高台へ移っていた。
「幻の外へ、戻る道も共に見せよ、か」
果心が小さく呟いた。
興福寺から届いた言葉だった。
今度は、幻が人を押し流さなかった。
消えたあとへ、人の役目が残っている。
『まあまあやな』
茶丸が言った。
「褒めるなら、もう少し素直に申せ」
『調子に乗るから嫌や』
「よく見ておる」
避難場所では、人数が確かめられた。
炭山の者が読み上げ、お滝が帳面へ記す。
一人暮らしの老人。
乳飲み子のいる家。
火の入った炭窯を見に行った者。
今夜、別の村へ出ている者。
名前だけでなく、どこにいるかまで確認する。
「一人足りん」
老女が顔を上げた。
「誰?」
「庄吉や。最初に家へ戻ろうとしとった男や」
皆が、床下から水の出た家を見る。
戸は閉じたままだった。
「帳面を取りに戻ったんや!」
弥七が走ろうとする者を止めた。
「続けて入ったら、助ける者まで危なくなる!」
「拙僧の幻で、外へ出せぬか」
果心が尋ねる。
「中の庄吉に、幻が見えるん?」
「窓か戸口から鏡の光を入れれば、声と合わせて出口を示せる」
「床が抜けたら、光だけでは助からへん」
「ならば大人が縄を持って行く。その者へ、どこに人がおるか伝える」
今度は幻が先ではなかった。
まず家の外から庄吉を呼ぶ。
返事があるか確かめる。
「庄吉!」
弥七の声に、家の中からかすかな音が返った。
「ここや! 足が挟まった!」
生きている。
土間近くで倒れた棚に脚を取られているらしい。
山仕事に慣れた大人二人が、腰へ縄を結んだ。
外に四人が残り、縄を支える。
果心は窓の隙間へ鏡を向けた。
「庄吉! 今から青い光を出す。その右側に人が入る!」
「分かった!」
淡い光が、暗い家の床へ差した。
光そのものに力はない。
だが救助へ入る者は、庄吉の声と光を頼りに、濡れていない床板を選べた。
棚を持ち上げる。
庄吉の脚を抜く。
縄の合図で、外の者がゆっくり引く。
床下で水が鳴った。
ごぼっ。
床板が一枚、暗い穴へ落ちる。
「引け!」
救助の二人と庄吉が、戸口から転がり出た。
直後、家の中央が低い音を立てて沈んだ。
誰も、もう一度入ろうとはしなかった。
庄吉の脚には傷があった。
土地の医師が診て、布で固定する。
茶太郎は近寄りすぎず、温かい白湯と薄い粥を用意した。
「帳面は?」
庄吉が尋ねた。
「取れへんかった」
「炭の数も、売った相手も全部書いてあったんや」
茶太郎は少し考えた。
「覚えてる分を、明日みんなで書き直そ」
「間違うかもしれん」
「ほな、『覚えてる分』って書く。相手にも聞く。元と同じにならんでも、次から二か所へ残せるようにする」
庄吉は沈んだ家を見た。
「戻れへんな」
「今日は戻れへん」
茶太郎は、いつか戻れるとも言わなかった。
「でも、庄吉さんは戻ってこられたよ」
男は目を閉じ、温かい椀を両手で包んだ。
夜明けが近づく頃。
床下から出た水は、家の前の道へ細い流れを作っていた。
水は濁っている。
だが、増える速さは少しずつ落ちていた。
「龍が鎮まったんや」
誰かが言った。
「まだ決めへん」
茶太郎が答える。
「人が逃げたから止まったわけでも、果心さんの幻で止めたわけでもないよ」
「拙僧の見せ場を、すぐ小さくするのう」
「大きくしたら、次も果心さんがおらな逃げられへんやろ?」
「それもそうじゃ」
茶丸と白灯は、水の流れから離れた高い石の上にいた。
二匹は同時に、龍が壺の方角へ顔を向けた。
『聞こえる』
茶丸が言った。
「何がじゃ?」
果心が尋ねる。
『声……みたいな音』
白灯の耳も震えている。
『苦しい、って』
果心の顔から笑みが消えた。
「誰が苦しいと申しておる?」
二匹は答えず、山の奥へ耳を澄ませた。
朝の風が木々を渡る。
水音でも、獣の鳴き声でもないものが、かすかに重なった。
『塞がれた』
『重い』
『流れたい』
果心が聞いた言葉を、皆へそのまま伝えた。
龍だとは言わない。
山の霊だとも決めない。
けれど茶丸と白灯には、同じ言葉が届いていた。
茶太郎は帳面へ書き加える。
『夜明け前。茶丸、白灯ともに、山の方角より「塞がれた、重い、流れたい」と聞く。正体不明』
「龍が壺へ行くんか?」
かん太が尋ねた。
弥七は首を振った。
「まだ行かん。声が聞こえたからいうて、危ない斜面が安全になるわけやない」
「では、どうする?」
果心が問う。
茶太郎は、家の下から流れ出した水を見た。
「水がどこへ行きたがってるか、下から確かめる」
龍のもとへ近づくのではない。
水が現れた場所を結び、流れの形を外側から探る。
朝日山の滲み水。
炭山の床下。
濁り始めた沢。
三つの場所を地図へ記せば、見えない水の道が浮かぶかもしれない。
夜が明ける。
果心の幻は、跡形もなく消えていた。
その代わり高台へ続く道には、白い布を結んだ杖が残った。
次の夜、果心がいなくても使える避難の印だった。




