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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
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第284話 「朝日山の光と、水を見ていた観音」

 ――不思議を消すことと、正体を決めつけないことは同じではない――


 夜明け前。


 朝日山の麓には、まだ薄い霧が残っていた。

 昨夜、淡い光が見えた場所は、山の中腹。


 古くから観音が宇治を見守ると伝えられてきた方角だった。


「光った場所まで行けば、何か分かるんやろ?」


 かん太が山を見上げる。


「行けるところまでや」


 弥七やしちが答えた。


「道が崩れとったら戻る。光を見たいからいうて、足場の悪い場所へ入ったらあかん」


 先に山へ入るのは、土地を知る山仕事の男たち。

 その後ろに弥七と果心居士かしんこじ


 茶太郎とかん太は、安全が確かめられた道だけを歩く。

 茶丸と白灯あかりも、人より先へ出ない。


「拙僧の道具は、返してもらえるのか?」


 果心が尋ねた。


 昨夜預けた鏡や鈴、火打石は、布に包まれて弥七が持っていた。


「今日はまだ要らんやろ」


「光の正体を確かめるには、光を扱う者の知恵が役立つぞ」


「持つんは俺や」


 弥七は包みを渡さなかった。


「使う必要が出たら、その場で出す」


「信用がないのう」


『昨日会うたばっかりや』


 茶丸が言う。


「もう三日ほど責められ続けておる気がする」


『嘘つきの一日は長いんやな』


「妙なところで感心するでない」


 山へ入ると、湿った落ち葉が草鞋の下で柔らかく沈んだ。

 杉の幹には朝露が光り、沢から冷たい空気が上がってくる。


 鳥の声は聞こえる。

 だが、龍が壺の方角から響いていた低い水音は止まったままだった。


 代わりに、ときおり地面の下で、


 こつ。

 こつ。


 小石同士が触れ合うような音がした。


「地の中を水が動いとるんか」


 山仕事の男が耳を澄ませる。


「音が小さいから安全、とは言えへんな」


 弥七は道端の木へ細い縄を結んだ。

 戻る方向を見失わないための印だ。


 途中、茶丸が立ち止まった。


『昨日と匂いが違う』


 果心が聞き返す。


「何の匂いじゃ」


『土。昨日は濡れた石の匂いやった。今日は木の中みたいな匂いがする』


 白灯も倒木の根元へ鼻を向ける。


『甘い』


「腐った木の匂いか?」


『それとも違う』


 果心は二匹の言葉を伝えた。


 山仕事の男が、地面へ落ちていた木片を布越しに拾う。


「松やな」


 木片の一部には、黒く焦げた跡があった。


 茶太郎は近づかず、その場から尋ねた。


「昨夜、ここで火ぃ焚いたん?」


「焚いとらん。見張り場も、もっと下や」


 木片は古かった。

 表面は雨に洗われ、焦げた部分だけが黒く残っている。


 その先で、道は二つに分かれていた。


 右は、昨夜光が見えた中腹へ続く古い参り道。

 左は、沢へ下りる細い道。


 左の道には、新しい亀裂が走っていた。


「沢側は閉じる」


 弥七が即座に決めた。


 縄を張り、木札を下げる。


『地割れあり。入らない』


 原因を確かめる前でも、見えた危険は止められる。


 一行は右の参り道を上った。

 やがて杉林が切れ、小さな平地へ出た。


 崩れかけた石垣。

 苔に覆われた石仏。

 屋根を失った古い祠。


 その奥に、朝日山観音と呼ばれる小さな石像が立っていた。

 顔は雨風に削られている。

 それでも、胸の前で結ばれた手と、麓を見下ろす姿は残っていた。


「ここや」


 かん太が息を弾ませる。


「昨日の光、この辺りやった」


 祠の前には、焦げた松の木片が幾つも積まれていた。

 だが、新しく燃えた跡はない。

 灰も熱も残っていない。


「なら、何が光ったんやろ」


 茶太郎が観音像を見上げた。


 果心が石垣の周囲を歩く。

 目で地面を追い、祠の隙間を調べる。


 やがて、倒れた石の裏から一枚の金属板を見つけた。

 緑青に覆われた、手のひらほどの銅板だった。


 中央だけが擦れ、鈍い光を返している。


「鏡?」


「鏡として使うには粗い」


 果心が答える。


 山仕事の老爺が銅板を見るなり、声を上げた。


「水見の板や」


「水見?」


「爺さまから聞いたことがある。昔、龍が壺の水が増えたとき、沢の湿りがここまで上がったか確かめる印を置いたいう話や」


 石垣の下には、細い溝が切られていた。

 沢から直接水を引くものではない。

 地面へ染み込んだ水が増えると、土の隙間を通り、祠の脇から滲み出す仕組みらしい。


 銅板は、その水を受ける場所へ置かれていた。


「水が増えたら光るん?」


 茶太郎が尋ねる。


「板が勝手に光るわけやない」


 果心は空を見上げた。


「西へ沈む日の光が、濡れた銅板へ当たれば、麓から見えることはあろう」


「昨日だけ見えたんは?」


「倒れた石が動き、板の向きが変わったのかもしれぬ。表面の泥が水に洗われた可能性もある」


「ほな、観音さんが光ったんやないん?」


 かん太が少し残念そうに言った。


 果心はすぐには答えなかった。


「拙僧は、人へ幻を見せる」


 銅板へ触れず、その前に屈む。


「されど、昨夜の光は拙僧の幻ではない。日の光、水、銅板。それらが重なったのであろう」


「不思議やなかったんか」


「それを不思議でないと申すのも、早いのではないか」


 果心は観音像を見た。


「昔の者が、水の変化を忘れぬよう、観音の前へ板を置いた。誰かが見守っておると思えば、山を見る者も絶えにくい」


 祈りと仕掛け。

 どちらか一方だけでは、長い年月を越えられなかったのかもしれない。


 白灯が石像の前へ座る。


『この人、ずっと下を見てる』


「石像じゃからな」


『疲れへんのかな』


「そなたは、そこを心配するのか」


 茶丸は祠の裏へ回った。


『こっち、水の匂いが強い』


 果心が伝えると、山仕事の男たちが安全な場所から地面を確かめた。

 土は濡れている。

 祠の石垣の下から、細い水が滲み出していた。


 昨日の夕刻、その水が銅板を洗ったのだろう。


「沢の水が、こんな高いところまで来たん?」


「沢から上がったんやない」


 弥七が地形を見る。


「山の中へ染みた水が、別の層を通って出てきたんやろ」


 龍が壺の近くで塞がれた水が、山の中へ回った可能性がある。

 だが、それもまだ推測だった。


「水の出口を掘ったら、早う流せるんと違うか?」


 男の一人が鍬へ手をかけた。


「掘ったらあかん」


 茶太郎が止める。


「水の量も、その下に何があるかも分からへん。急に道を開けたら、一気に流れるかもしれへん」


 この前見つけた古道と同じだった。

 昔の仕掛けが見つかったからといって、今すぐ使えるとは限らない。


 弥七は祠の周囲へ目印を置いた。

 水がどこまで広がるか分かるよう、乾いた場所へ小石を等間隔に並べる。


 銅板は動かさない。


 見つけた時刻と、濡れている範囲だけを帳面へ記す。


「観音さんの物やから?」


 茶太郎が尋ねる。


「それもある。けど、動かしたら次に比べられへん」


 果心が言った。


「昔の者が何に使ったか分からぬ物を、勝手に持ち去るべきでもない」


『盗ったら売れそうやと思ってた顔』


 茶丸が見上げる。


「一瞬だけじゃ」


『思ったんやな』


「思うことまで止めるでない」


 茶太郎が果心を見る。


「持って帰らへんよね?」


「持って帰らぬ」


「今のはほんま?」


『半分ほんま』


「黒猫殿!」


 果心は銅板へ向けていた手を、そっと袖の中へ戻した。


 下山すると、炭山の返し小屋で寄合が開かれた。

 調べたことは、三つに分けて伝えた。


 確かめたこと。

 考えられること。

 まだ分からないこと。


 確かめたのは、観音の祠の下から新しい水が滲み出していること。

 銅板が濡れ、西日を反した可能性があること。

 沢側の道に新しい亀裂があること。


 考えられるのは、龍が壺の周辺で水の流れが変わり、山の中へ回っていること。

 分からないのは、水がどこで塞がれ、今後どれほど増えるかだった。


「龍が怒っとるんや」


 一人の老人が言った。


「古道を暴こうとしたから、眠りを妨げた」


「山崩れの前触れや!」


 別の男が声を上げる。

 人々の言葉が重なり、小屋の空気が固くなる。


 果心は、一人ずつ顔を見た。

 誰が怒り、誰が怯え、誰が今すぐ逃げようとしているか。

 口を開きかけ、茶太郎を見る。


「言うてもよいか?」


「皆の前で決めつけんといてな」


「承知した」


 果心は寄合の中央へ進んだ。


「龍がおるとも、山が崩れるとも、拙僧には分からぬ」


「外法僧なら見抜けるんと違うんか」


「見抜けぬものを、見抜いたふりはできる」


 小屋が静まる。


「望むなら、今ここへ龍の影を見せることもできよう。されど、それを見た者は、沢の濁りより幻を信じる。ゆえに、見せぬ」


 果心は自分から奇術道具の包みを弥七へ差し出した。


「拙僧が見たのは、人々の顔だけじゃ。逃げたい者がおる。炭窯を置いてゆけず、逃げたくない者もおる。どちらも口に出せずにおる」


 茶太郎は寄合の者たちへ尋ねた。


「もし水が増えたら、先に守りたいものは何?」


「人や」


 炭焼きの老女が答えた。


「次に、子どもと年寄りが泊まれる場所」


 別の者が続ける。


「炭や道具は?」


「運べる分だけや。人より先にはせん」


 逃げる道と、集まる場所を先に決めることになった。

 沢へ近い二軒は、夜だけ高い場所の家へ移る。


 炭窯の火は新しく入れない。

 水場の濁りは朝昼夕の三度記録する。


 観音の銅板が再び光っても、山へ駆け上がらない。

 まず青羽便と鐘で、決めた者へ知らせる。

 龍の正体を確かめるより先に、人が戻れる場所を作った。


 夕暮れ。


 茶太郎たちは、再び朝日山を見上げた。

 観音の方角に光は現れなかった。


「今日は光らへんな」


 かん太が言う。


「光らんかったことも書いとこ」


 茶太郎は帳面へ記した。


『二日目。夕刻、光見えず』


 成功とも、異変が終わったとも書かなかった。


 果心が隣から帳面を覗く。


「何も起きなかったことまで残すのか」


「光った日だけ書いたら、毎日光ってるみたいに見えるやろ?」


「なるほど。人の噂も同じじゃな」


「果心さんの噂も?」


「面白い話だけが残ったのであろう」


『ほんまに悪いこともしたやろ』


「黒猫殿は余韻というものを知らぬ」


 夜が近づく。

 龍が壺の方角から、低い音は聞こえなかった。


 だが、炭山の水場へ置いた木椀の水位が、印より指一本分だけ上がっていた。

 朝日山の銅板が光らなくても、水は動き続けている。


 そして夜半。

 沢へ近い家から避難していた老女が、戸を叩いた。


「床下から、水の音がする」


 人を移していたため、家の中には誰も残っていない。


 龍が壺から離れた炭山の暮らしの下へ、新しい水の道が届き始めていた。


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『茶太郎がゆく』
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