第283話 「龍が壺の濁りと、嘘をつかなかった幻術師」
――見えないものを恐れるときほど、見える変化を数える――
志津川の上流から届いた水は、薄い茶色に濁っていた。
炭山の返し小屋。
白い椀へ汲まれた水の底に、細かな砂が沈んでいる。
「昨日より濃い」
炭焼きの老女が言った。
「匂いも変わった。いつもの雨濁りやない」
茶太郎は椀へ顔を近づけなかった。
正体の分からない水へ、子どもが直接触れることもしない。
弥七が布を巻いた棒で水をかき混ぜる。
沈んでいた砂が舞い上がり、細い木屑が一片、くるりと回った。
「腐った匂いはせんな」
「けど、飲んだらあかん」
茶太郎が言った。
「透明になるまで待つんか?」
かん太が尋ねる。
「透明になっても、安全とは決められへん。まず、どこから濁ってるか確かめる」
沢沿いには三つの水場があった。
上から、龍が壺へ流れ込む細い沢。
炭窯へ水を引く溝。
村で煮炊きや洗い物に使う水場。
どこまで同じ濁りが来ているか分かれば、原因の場所を狭められる。
調べに向かうのは、炭山の道を知る大人たちだった。
弥七と山仕事の者が同行する。
茶太郎とかん太は返し小屋に残り、持ち込まれた水と時刻を帳面へ記す。
茶丸と白灯も、危険な沢へ先行させない。
影猫衆の役目は、土砂の動く場所へ身体を入れることではなかった。
「拙僧は?」
果心居士が尋ねた。
「ここにおって」
「猫と話せる者を、調べ手へ加えぬのか」
「茶丸たちを危ない場所へ行かせへんから、話す猫がおらんやろ」
『俺らがおらんと役立たんのか』
茶丸が果心を見上げた。
「そんなことはない。人の顔を読むという、怪しげな特技がある」
『自分で怪しい言うた』
「皆がそう思っておるから、先に申しただけじゃ」
炭焼きの男たちは笑わなかった。
前日に興福寺の老僧から聞いた話が、すでに伝わっていた。
果心が幻の火で米蔵を開けさせ、人を怪我させた話。
炭山では火を扱う。
見張りの煙も、炭窯の火も、人の命と暮らしへ繋がっている。
「幻で偽物の煙を上げられたら困る」
一人が言った。
「山火事の合図と見分けがつかん」
「使わぬ」
果心が答えた。
「口では何とでも言える」
「そのとおりじゃ」
否定しなかったため、男の方が言葉に詰まった。
果心は腰から小さな鏡と鈴を外し、茶太郎の前へ置いた。
袖に入っていた白い粉の包みも出す。
「煙と光に使う道具じゃ。預けておく」
「ほかには?」
友照なら、きっとそう尋ねる。
茶太郎が代わりに言うと、果心は渋い顔をした。
「六つの童が、寺の役僧より細かいのう」
衣の襟から細い糸。
杖の中から赤い紙片。
笠の裏から小さな笛。
最後に、草鞋の底から薄い銅板が出てきた。
「まだある?」
「もうない」
『左の袖』
茶丸が言った。
「黒猫殿」
『左の袖』
果心は観念し、小さな火打石を出した。
「旅人に火打石まで預けさせるか」
「今日は火ぃ使わへんって決めたんやろ?」
「分かった。分かったから、嬉しそうに並べるでない」
小屋の板間には、奇術道具が一列に並んだ。
白灯が鏡へ鼻を近づける。
鏡の中の白い猫と鼻先が重なり、驚いて一歩退いた。
『猫がおる』
「白灯やで」
『向こうにもいる』
「それはそなたじゃ」
果心が答える。
『出して』
「出せぬ」
『役に立たない』
「今日二度目じゃぞ」
少しだけ、小屋の空気が緩んだ。
最初の水が届いたのは、巳の刻を過ぎた頃だった。
村の水場。
濁りは薄い。
砂は少なく、木屑も見当たらない。
二つ目は炭窯へ引く溝。
村の水より濃く、椀の底へ細かな黒い粒が沈んだ。
「炭の粉?」
かん太が覗き込む。
炭焼きの老女が首を振った。
「炭だけやない。黒い土が混じっとる」
三つ目を運んできた男は、息を切らしていた。
「龍が壺へ入る手前の沢や」
水は赤茶色だった。
砂だけではない。
小さな葉。
折れた根。
まだ青い苔の欠片まで混じっている。
「新しい土が削られとる」
老女の声が低くなった。
茶丸が椀の周りを歩く。
『昨日の男の脚と同じ匂いや』
果心が皆へ伝える。
「石の下から出てきた水の匂いもする、と白いのは申しておる」
『まだ言うてへん』
白灯が顔を上げた。
「今から言おうとしておったであろう」
『勝手に先に言った』
「表情で分かった」
『猫の心を読むな』
「これは失礼した」
果心が白灯へ頭を下げる。
炭焼きの男が、その様子をじっと見ていた。
「ほんまに猫と話せるんやな」
「信じる気になったか?」
「まだや。けど、猫に怒られとることだけは分かる」
「十分じゃ」
昼を過ぎても、調べ手は戻らなかった。
山へ入った大人たちのため、茶太郎は食事を整えた。
火を扱うのは炭山の女たち。
茶太郎は安全な場所で、炊く米と水の量を量る。
飲み水には、濁りの届いていない別の井戸水を使った。
米へ刻んだ大根と乾燥茸を加え、少量の味噌を溶く。
山椒は香りが立つほどにとどめる。
柔らかな《炭山戻り粥》ができた。
疲れた者が一度に詰め込まないよう、小さな椀へ分けておく。
「拙僧の分もあるか?」
「調べに行ってへんやろ」
「道具を預けるという、大仕事をした」
『隠してた物を出しただけや』
「黒猫殿は評価が厳しすぎる」
「帰ってきた人が食べて、残ったらな」
「拙僧も人の心を読む仕事をしよう」
「誰もおらんやろ」
「では、腹を空かせて待つ」
果心は小屋の柱へ背を預けた。
いつもの笑みを浮かべている。
けれど、その右手は何度も空になった袖へ触れていた。
茶太郎は気づいたが、心を読んだとは思わなかった。
長く持っていた物を預ければ、落ち着かないのは当たり前だった。
やがて、山道から鐘が一度鳴った。
危険を知らせる連打ではない。
調べ手が戻る合図だった。
弥七たちは、泥に汚れていた。
縄の外へ出たところで草鞋の泥を落とし、人数を確かめる。
怪我人はいない。
それを確認してから、返し小屋へ入った。
「龍が壺までは行ってへん」
弥七が地図を広げた。
「手前の沢で、斜面が一か所沈んどる。木の根元に隙間ができて、そこから水が湧き出しとった」
「山崩れ?」
「まだ分からん。けど、岩の裏へ回ってた水が、別の割れ目から出始めたんやろ」
雨で地面が水を含んだ。
古道の周りでは、石段の下へ入り込んだ根や土も動いている。
水は塞がれた場所を避け、別の隙間を見つけて流れ始めた。
「古道を掘ってたら?」
かん太が尋ねる。
「根を切った場所から、もっと大きく崩れたかもしれん」
小屋の中から声が消えた。
道を早く開こうとしていた男が、泥のついた手を見つめる。
「茶太郎に止められへんかったら、わしが鍬を入れとった」
果心の目が、その男へ向いた。
「責められると思うておるな」
男の肩が強張る。
「果心さん」
茶太郎が止めた。
「今、それ言わんでもええやろ」
「されど——」
「怖がってるって皆の前で言われたら、もっと怖いの隠すようになるよ」
果心は口を閉じた。
男の顔をもう一度見てから、今度は声を落とす。
「では、何を尋ねる?」
「これから、どこを見てくれるか」
茶太郎は男へ向き直った。
「明日から、石段の隙間が広がってへんか見てもらえる?」
「あ、ああ」
「水音と、濁りと、木の傾きも。危ない場所へは入らんと、見張り場から分かることだけ」
「任せてくれ」
男の手が、ゆっくり開いた。
果心はその変化を見つめていた。
人の恐れを言い当てることはできる。
だが、言い当てたあと、その者が立てる場所を作れるとは限らない。
「今のが、心を読むより先にすることか」
「ぼくは読めへんよ」
「読めぬから尋ねるのか」
「うん」
果心は小さく頷いた。
調べを終えた者たちへ、《炭山戻り粥》が配られた。
熱い湯気に、茸と味噌の香りが混じる。
泥に冷えた指が椀を包み、固くなっていた顔が少しずつ緩んだ。
食べる前に、人数。
食べたあとに、残り。
明日の見張りへ回す分も帳面へ残す。
果心は最後に渡された小さな椀を見た。
「拙僧の分も残ったか」
「少なめやで」
「あるだけで十分じゃ」
一口すすり、目を細める。
『三杯食べる顔』
茶丸が言った。
「今日は一杯で我慢する」
『無理やな』
「賭けるか?」
「賭け事したらあかん」
茶太郎が先に止めた。
「童と猫に、先回りされるようになってしもうた」
夕方。
龍が壺へ続く道を閉じる印が立てられた。
人を脅すための札ではない。
『水の道を調べているため、ここから先へ入らない』
理由と、次に確かめる日も記した。
炭山では、三つの変化を毎日見ることになった。
沢の濁り。
岩の下の音。
見張り場から見える木の傾き。
龍がいるとも。
いないとも書かなかった。
その夜、朝日山の見張り場へ灯は上げられなかった。
地面の安全が確かめられていないからだ。
代わりに青羽便のシオが、木札を脚へ結んで宇治へ飛ぶ。
知らせの道は、煙一つだけではない。
使えない道があれば、別の道へ渡せばよかった。
薄闇の中。
茶丸が山の方角へ耳を向けた。
『水の音、止まった』
果心も顔を上げる。
「いや」
遠い岩の下から、別の音が聞こえた。
ごうん。
一度。
間を置いて、もう一度。
水が岩へ当たる音とは違う。
地の底から、巨大な何かが戸を叩くような響きだった。
白灯の背の毛が逆立つ。
『誰か、いる』
果心は二匹の言葉を皆へ伝えた。
だが、龍が目覚めたとは言わなかった。
「暗いうちは近づかぬ。音がした時刻だけ記す」
弥七が決めた。
茶太郎は帳面へ筆を入れた。
『戌の刻。水音止む。その後、岩の下より二度の響き』
書き終えたとき、朝日山の中腹に淡い光が見えた。
試し火を置くはずだった見張り場ではない。
それより高い場所。
古くから観音が山と宇治を見守ると語られてきた方角だった。
「あそこ、誰かおるん?」
かん太が目を凝らす。
光は動かない。
炎のように揺れず、星のように瞬きもしない。
果心が預けた奇術道具は、すべて小屋の板間に並んだままだった。
「拙僧ではないぞ」
誰も疑う前に、果心が言った。
茶丸が鼻を鳴らす。
『今回はほんまや』
光は一度だけ強くなり、山の闇へ溶けた。
龍が壺の水音。
新しく湧き出した沢。
そして、朝日山観音の方角に現れた光。
三つが繋がっているかは、まだ分からない。
けれど翌朝、確かめる場所が一つ増えた。
見えないものを追うのではない。
見えた場所から、順に確かめる。
茶太郎たちは朝日山へ向かう準備を始めた。




