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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
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第282話 「追われた僧と、燃えなかった米蔵」

 ――善い目的が、危うい手段を安全にしてくれるわけではない――


 朝の宇治橋を、白い霧が包んでいた。


 橋板には夜露が残り、川音だけが足元から聞こえてくる。


「久しいな」


 老僧は、果心居士かしんこじを睨んでいた。


「興福寺を逐われた外法僧——果心」


 果心の顔から、いつもの笑みが消えている。


「人違いではないかの」


「その言い逃れも変わらぬ」


 老僧の手にある数珠が、かすかに震えた。

 弥七やしちが茶太郎たちを後ろへ下げる。

 茶丸と白灯あかりは、果心の左右に座った。


『逃げるんか』


 茶丸が尋ねる。


「さて」


『逃げる人の足や』


 白灯が、果心の草鞋を見つめる。

 右足が、わずかに後ろへ引かれていた。


「白いのは、余計なところをよく見ておる」


「果心さん」


 茶太郎が呼びかけた。


「逃げたいん?」


「少しな」


「ほな、逃げる前に話だけ聞こう」


「逃げることを止めぬのか」


「止めようとして、橋から落ちたら困るやろ」


 果心は一瞬きょとんとし、それから息を吐いた。

 後ろへ引いていた右足を戻す。


 老僧は、茶太郎を見た。


「その者と旅をしておるのか」


「昨日から一緒に歩いてる」


「ならば、何者か聞いておらぬのか」


「果心さん」


「それは名だ。何をした者かと聞いておる」


 茶太郎は果心を見上げる。


「猫と話せて、人の顔を見るのが得意で、幻を見せられる旅のお坊さん」


「肝心なところを何も知らぬではないか」


「せやから、今から聞く」


 老僧の眉が動いた。

 果心が小さく笑う。


「相変わらず扱いにくい童じゃ」


「笑うところちゃうよ」


「そうであったな」


 宇治橋の上では、荷車や馬が行き交い始めている。

 立ち話を続ければ道を塞ぐ。

 一行は橋のたもとの返し場へ移った。


 人目のある場所だが、通行の邪魔にはならない。

 お滝が白湯を用意し、全員の前へ置いた。


 老僧は名を玄秀げんしゅうと名乗った。

 かつて興福寺で、果心と同じ堂にいたという。


「この者は、修行より奇術へ心を奪われた」


 玄秀が話し始める。


「鏡と煙で仏の影を作り、隠した糸で鈴を鳴らす。鳥獣の声を真似、人の恐れを読んでは、見てもおらぬものを見たと思わせた」


「鳥獣の声は真似ではないぞ」


 果心が口を挟む。


『今、それ大事か』


 茶丸が言った。


「黒いのに叱られた」


 玄秀の目が茶丸へ向く。


「猫の声まで使って人を惑わすか」


『この爺さんには、俺の声は聞こえてへんのか』


「聞こえておらぬ」


『果心、ちゃんと伝えろ。俺は惑わされてへん』


「黒猫殿は、自分は惑わされておらぬと申しておる」


「猫がそう言ったと、誰が確かめる?」


 玄秀の問いに、果心は答えなかった。


 茶太郎にも、茶丸の言葉は鳴き声としてしか聞こえていない。

 果心が正しく伝えていると証明する方法はなかった。


「果心さんが猫と話せることと、いつも本当のことを言うかは別なんやな」


「そのとおりじゃ」


 果心はあっさり認めた。


『そこは否定せえよ』


「事実であろう」


 玄秀が数珠を握り直す。


「寺を逐われたのは、それだけではない」


 数年前。

 大和では収穫の少ない年が続き、寺の門前へ食を求める者が集まった。

 だが寺の米蔵は、戦や不作に備えるという名目で閉ざされたままだった。


 蔵には米がある。

 門前では、子どもや老人が空腹に耐えている。


 果心は、蔵を預かる役人へ何度も開放を願った。

 聞き入れられなかった。


「そこで拙僧は、米蔵が燃えているように見せた」


 果心が、自分で続きを語った。


 夜。


 蔵の屋根を赤い炎が舐め、黒煙が上がる幻を見せた。

 米を守ろうと、役人や僧たちが慌てて蔵を開ける。

 扉が開いたところで幻を消し、集まった者へ米を分けさせるつもりだった。


「米蔵は、ほんまには燃えてへんかったん?」


「火の粉一つなかった」


「誰も怪我せえへんように考えた?」


 果心は答えなかった。

 玄秀が言う。


「火を見た者たちは我先にと走った。桶を持った者と、米俵を運び出そうとする者がぶつかった。まだ若かった僧が石段から落ち、脚を折った」


 倒れた灯明から、別の小屋へ本物の火が移りかけた。

 門前の者たちは、蔵が開いたと知って押し寄せた。


 米を分ける帳面も、列を作る縄もなかった。

 力の強い者が俵を奪い、子どもや老人へ十分に届かなかった。


「善きことをしたつもりであったか」


 玄秀が尋ねる。


「当時はな」


 果心は白湯へ目を落とした。


「蔵を開ければ、あとは何とかなると思うておった」


「ならなかった」


「うむ」


「それで、逃げたのか」


「寺を逐われた」


「その前に、傷ついた者へ詫びることもせず姿を消した」


 返し場が静かになる。

 外では荷車の車輪が軋み、宇治川の水が橋脚へ当たっていた。


 茶丸が果心の横顔を見る。


『ほんまなんか』


「本当じゃ」


 果心は、茶丸の言葉を皆へ伝えなかった。

 だが茶太郎には、その答えが誰へ向けられたものか分かった。


「助けたかったんやな」


 茶太郎が言う。

 玄秀の顔が険しくなる。


「だから許されると申すか」


「違うよ」


 茶太郎は首を振った。


「助けたかったことと、怪我させたことは別や」


 果心の指が、白湯の椀から離れる。


「蔵を開ける前に、並ぶ場所を作らなあかんかった。火に見えたら、どこへ逃げるかも決めなあかんかった。怪我した人がおったら、戻って謝らなあかんかった」


「六つの童に説かれるとはな」


 果心は自嘲するように笑った。


「笑って終わらせたらあかんよ」


「……手厳しい」


「石段から落ちた人は、どうなったん?」


 玄秀は、すぐには答えなかった。


「生きておる」


 果心の顔が上がる。


「脚に不自由は残った。だが今も奈良で、経を教えておる」


「玄秀」


「その者から言葉を預かってきた」


 玄秀は懐から、小さく折った紙を取り出した。

 果心へ直接渡さず、二人の間に置く。


「もし、あの男が今も人へ幻を見せているなら、伝えてほしいとな」


 果心は紙を開いた。

 そこには、震えの残る筆跡で短く記されていた。


『幻の外へ戻る道も、共に見せよ』


 果心は長い間、その文字を見つめた。


「恨んでおらぬとは書かれておらぬな」


「許すとも書かれておらぬ」


「会いに来いとも」


「それを決めるのは、おぬしではない。まず相手へ尋ねることだ」


 果心は紙を折り直した。

 いつものように袖へ隠そうとして、手を止める。


「茶太郎。紙を一枚、分けてもらえるか」


「何を書くん?」


「言い訳をせず、起きたことを書く。まずは謝り、会うてもよいかを尋ねる」


「返事が来んかもしれへんよ」


「それも、受け取らねばなるまい」


 水輪藁紙と筆が用意された。

 果心は何度も書きかけては止まり、ようやく一行だけ記した。


『蔵を開けることばかり考え、そなたの戻る道を消した。済まなかった』


 茶丸が紙を覗く。


『字、思ったより下手やな』


「今それを申すか」


『嘘は書いてへん』


「そなたに分かるのか」


『匂いが違う』


「それは墨の匂いであろう」


 果心の口元へ、ようやく小さな笑みが戻った。

 だが今度の笑みは、話を逸らすためのものではなかった。


 玄秀は文を受け取った。


「届けはする。返事は約束せぬ」


「それでよい」


 老僧が去ったあと、弥七が果心へ尋ねた。


「まだ一緒に来るつもりか」


「過去を知られた以上、追い出すのではないのか」


「決める前に聞いとる」


「ならば行く」


 果心は立ち上がった。


「次に幻を使うときは、消したあと何が残るかを先に考える」


「次、じゃなくて毎回やで」


 茶太郎が言う。


「やはり仕える相手を間違えたかもしれぬ」


「仕えんでええって言うたやろ」


『もう忘れたんか』


「猫と童が二人がかりで責めてくる」


 そのとき、空から羽音が降ってきた。

 ばさっ。

 青灰色のアオバト、シオが返し場の軒へ止まる。


 脚には、煤で黒ずんだ細い木札が結ばれていた。

 弥七が外し、印を確かめる。


「炭山からや」


 木札には、龍が壺を示す三本の波と、見張りを止める印が刻まれていた。

 添えられた文は短い。


『水音、昨夜より近い。

 壺へ続く沢、濁り始める。

 灯は上げず。人を近づけず待つ』


「灯を上げてへんの?」


 かん太が尋ねた。


「煙や火を使う場所の地面まで、動いとるかもしれん。決まりどおり止めたんや」


 茶太郎は頷いた。


 試し始めたばかりの知らせの道。

 使わない判断もまた、道を守る知らせだった。


「まず、炭山の人から話を聞こう」


 龍がいるとも。

 山が崩れるとも。

 まだ決めない。


 けれど、水音が近づき、沢が濁ったという二つの変化は、放っておけない。


 果心が杖を取る。


「今度は、燃えておらぬものを燃えているようには見せぬ」


「当たり前や」


「人を欺かずに役立つところから始めよう」


 茶丸が先に返し場を出た。


『口より足を動かせ』


「黒猫殿は、玄秀より厳しいのう」


 朝の霧が晴れ始める。

 その向こうで、朝日山の輪郭がゆっくり姿を現した。


 山は昨日と同じように見える。

 だが、岩の下を流れる水は、見えない場所で道を変え続けていた。


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『茶太郎がゆく』
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