第281話 「嘘を置かない囲炉裏と、果心の空いた椀」
――疑うことと、居場所を与えないことは同じではない――
宇治へ帰り着いた頃には、空が茜色に染まっていた。
山道の湿った土の匂いが薄れ、代わりに焙じた茶葉と、夕餉の薪を燃やす煙が漂ってくる。
「宇治とは、随分と香りの多い土地じゃな」
果心居士が鼻を鳴らした。
「川の匂い。茶の匂い。味噌の匂い。それから——」
前を歩いていた白灯が振り返る。
『魚を焼いてる』
「うむ。白いのとは話が合いそうじゃ」
『一口もらえるかな』
「そこまでは知らぬ」
『役に立たない』
「猫というものは、腹が減ると容赦がないな」
茶太郎は笑った。
「秘密基地に戻ったら、ご飯あるよ」
「拙僧の分もあるのか?」
「炭山で一緒に歩くって決めたから、途中でお滝さんに文を送った」
空を見上げる。
先に飛ばしたアオバトのシオは、もう宇治へ着いているはずだった。
「用意のよい童じゃ」
『果心が三杯食べることまで書いたか』
茶丸が尋ねる。
「拙僧は一杯でよい」
『嘘やな』
「なぜ分かる」
『さっき握り飯を食べたあとも、魚の匂いを追ってた』
「猫の観察は細かすぎる」
秘密基地へ着くと、戸口の前に仲間たちが集まっていた。
友照。
千代。
お滝。
それに希太や虎吉たち影猫衆。
皆の視線が、茶太郎の後ろに立つ見知らぬ旅僧へ注がれる。
「ただいま!」
「おかえり」
友照が答えたものの、目は果心から離れない。
「その人が、文に書いてあった果心さん?」
「そう。炭山から一緒に来たんや」
「何をする人なん?」
「えっと……」
茶太郎が詰まった。
「猫と話せて、人の顔を見て、ちょっと嘘をつく人」
「最後が一番あかんやろ」
友照の返事は早かった。
「簡潔に申せば、旅の僧じゃ」
果心が手を合わせる。
「しばらく世話になる」
「しばらくって、いつまで?」
「さて」
「どこから来たん?」
「南から」
「家族は?」
「遠いところにおる」
「お寺は?」
「出た」
「自分から?」
「……寺と拙僧で意見が分かれた」
果心は一つずつ答えたが、何一つ分かった気がしない。
友照の眉が、質問するたびに険しくなっていく。
「全部、嘘みたいや」
「全部は嘘ではない」
「どこがほんまなん?」
「腹が減っておる」
白灯が果心の足元へ座った。
『それは本当』
「猫に確かめてもらわんと信用されぬのか」
「白灯が言うなら、ご飯は出せるな」
お滝が笑った。
そのとき、基地の奥から土色の杖が現れた。
とん。
床を打つ音とともに、土地神が姿を見せる。
「茶太郎」
いつもの穏やかな声だったが、その目は果心へ向いていた。
「随分と妙な縁を拾ってきたものだな」
「山で会ったん」
「見れば分かる」
土地神は果心の周りを一周した。
「僧の衣をまといながら、寺の香が薄い。人の念を多く浴びておるが、どこにも根を下ろしておらぬ」
「さすがは土地の主。手厳しい」
「おぬしの術は、人の目を迷わせるものだな」
「時には」
「この場で使うことは許さぬ」
囲炉裏の火が、ぱちりと鳴った。
「ここは、疲れた者が鎧を脱ぐ場所。帰る者が、己の目まで疑わねばならぬ場所にしてはならぬ」
果心の笑みが、わずかに薄くなった。
「拙僧を追い出すか?」
「決めるのは茶太郎たちだ。ただし、ここへ入るなら、術を戸口へ置いてゆけ」
果心は秘密基地を見渡した。
壁には、皆で直した棚。
乾かしている水輪藁紙。
道の印を描いた木札。
囲炉裏の周りには、同じ形ではない椀が並べられている。
欠けを漆で繕った椀。
少し歪んだ椀。
子どもの手に合わせた小さな椀。
その中に、一つだけ空いた場所があった。
「果心さん」
茶太郎が言った。
「基地の中では、怖い幻は見せへん。勝手に心を読んだみたいなことも言わへん。誰かを試すために騙すのもなし」
「随分と縛るな」
「嫌やったら、外で食べる?」
果心は囲炉裏の鍋を見た。
茸と大根を煮た味噌汁から、白い湯気が立っている。
炊きたての麦飯。
炭火で炙った薄い油揚げ。
白灯が言っていた魚も、小さな川魚を焼いたものが人数分並んでいた。
「……術は、戸口へ置いてゆこう」
『腹に負けた』
茶丸が言った。
「聞こえておるぞ」
『聞こえるように言うた』
果心は杖を壁へ立てかけ、笠を脱いだ。
お滝が空いていた座布団を示す。
「そこ座り。まず手ぇ洗うんやで」
「僧に子どものようなことを申すな」
「どこ触ってきたか分からへんやろ」
「それはもっともじゃ」
手を洗い、果心が囲炉裏の前へ座る。
千代が麦飯をよそった。
「一杯でええんやな?」
「うむ」
友照が帳面へ書く。
『果心、一杯』
「飯まで記録するのか」
「食べる人が増えたら、明日の分が変わるから」
「なるほど」
果心は椀を受け取った。
まず味噌汁を一口。
茸の香り。
柔らかく煮えた大根。
炭山で冷えた身体へ、温かさがゆっくり広がる。
「……うまい」
誰も何も言わなかった。
ただ、友照が帳面の端へ小さく印をつけた。
やがて果心の椀が空になる。
「おかわり、いる?」
「拙僧は一杯で——」
『三杯食べる顔』
茶丸が言った。
「人の顔を勝手に読むでない」
『猫やから約束してへん』
囲炉裏の周りに笑いが起きた。
果心は咳払いする。
「では、作った者への礼として、もう一杯だけ」
千代が麦飯をよそう。
二杯目も、すぐに空になった。
白灯が果心の膝へ前足を置く。
『まだ食べる顔』
「白いのまで」
「三杯目、少なめにする?」
「……頼む」
友照が帳面の一杯を二本線で消し、
『三杯』
と書き直した。
「失敗を隠さず、直したぞ」
「これは失敗ではない。見込み違いじゃ」
「同じやろ」
食事が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
虫の声と宇治川の遠い流れが、戸板の向こうから聞こえる。
希太は果心の荷へ鼻を寄せ、虎吉は杖の匂いを確かめていた。
『変な物、いっぱい持ってる』
希太が言う。
「薬、鏡、糸、鈴。旅には必要な物ばかりじゃ」
『干した蛙もある』
「それは見なかったことにせよ」
茶太郎が顔をしかめた。
「基地の中で出さんといてな」
「承知した」
果心は空になった三つ目の椀を置く。
騙して銭を得たことはある。
幻を見せ、武士の座敷で上等な膳を振る舞われたこともある。
だが、術を置いてから飯を食べろと言われたのは初めてだった。
そして素性を明かさぬ自分の前へ、初めから椀が一つ用意されていたことも。
「居心地が悪いか?」
土地神が尋ねた。
「いや」
果心は少し考えた。
「居心地がよすぎる方を、警戒しておる」
その言葉だけは、誰にも嘘だと疑われなかった。
翌朝。
果心は茶丸に顔を踏まれて目を覚ました。
「何をする」
『朝や』
「起こすなら、もう少し穏やかな方法があろう」
『お前、三回呼んでも起きへんかった』
「猫と話せるのも、善し悪しじゃな」
秘密基地の外では、茶太郎たちが朝の荷を整えていた。
宇治橋の返し場を確かめ、その後は伏見へ向かう予定だ。
「果心さんも行く?」
「行くとも」
笠をかぶり、杖を持つ。
戸口で一度振り返り、果心は土地神へ尋ねた。
「術は、ここへ置いてゆくのであったな」
「外では必要に応じて使えばよい。ただし、戻ってこられる使い方をせよ」
「難しい注文じゃ」
そう言いながら、果心は笑っていた。
一行が宇治橋へ向かうと、橋のたもとに一人の老僧が立っていた。
褪せた袈裟。
使い込まれた数珠。
その目が果心を捉えた途端、険しく細くなる。
「その歩き方……忘れたとは言わせぬぞ」
果心の足が止まった。
いつも浮かべていた笑みが、初めて消える。
「久しいな」
老僧の声が震えた。
「興福寺を逐われた外法僧——果心」
茶丸が果心を見上げる。
『知り合いか』
果心は答えなかった。
朝の宇治川から上がる白い霧が、橋の上の二人を静かに隔てていた。




