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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
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挿入話 「月が二つ浮かぶ夜」

 ――消えた音も、覚えている人がいれば、また川を渡る――


 八月も終わりに近づいた宇治。

 昼間はまだ暑い。

 けれど日が傾くと、宇治川を渡ってくる風が、少しだけ冷たくなった。


 さら、さら。

 川面に夕日が砕けている。


 茶太郎は岸辺の石に腰を下ろし、隣で尻尾を揺らす茶丸と川を眺めていた。


「なあ、橋姫」


『なあに?』


「むかしの宇治って、どんなんやったん?」


 橋姫が瞬きをする。


『ずいぶん大きなこと聞くのね』


「ひこじいがな、ずーっと昔から、宇治にはぎょうさん人が来てたって」


『そうねえ……』


 橋姫は川の向こうへ目をやった。

 茶太郎には見えない、遠い遠い昔を見ているようだった。


『夜になるとね。この川に、たくさんの火が浮かんだこともあったのよ』


「火?」


 茶太郎の目が丸くなる。


「川、燃えたん?」


『燃えてません』


 橋姫が笑った。


『舟よ。舟に灯りをともしてね。笛を吹いたり、琵琶を弾いたりしたの』


「びわ?」


『食べる方じゃないわよ』


「……分かってるもん」


『いま食べる方、考えたやろ』


 茶丸の尻尾が、ぱたん。


「考えてへん」


『ほな、なんで腹鳴った』


「これは別や」


『便利な腹やな』


「茶丸うるさい」


 橋姫が声を立てて笑った。

 けれど――。

 その笑顔が、少しだけ寂しそうになった。


『きれいだったなあ……』


 ぽつり。


『舟の灯りが揺れて、笛の音が水の上をずっと向こうまで渡っていくの』


 茶太郎も川を見る。


「……いまは?」


『もう聞こえないわ』


 さら……。

 さら……。

 代わりに聞こえるのは、宇治川の音だけ。


 茶太郎はしばらく黙った。

 六つの指では足りないほど昔の話なんて、よく分からない。


 でも――。

 橋姫がもう一度聞きたそうなのは分かった。


「ほな」


 ぴょん、と石から下りる。


「やろ」


『え?』


「笛とか、舟とか」


『昔と同じにはできないわよ』


「ええやん、べつに」


『え?』


「おんなじにせんでも」


 茶太郎はにっと笑った。


「橋姫が覚えてるとこだけ、やってみよ」


 ◇

「また、うち?」


 《莵々の縁》ゆかりが腰に手を当てた。


 机の上には、赤、白、青。

 細い糸がいっぱい並んでいる。


「だって、ゆかりが一番うまいやん」

「茶太郎もやるんよ」

「え」

「え、やない」

「僕、ほかの準備が……」

「ない」

「茶ぁの準備が……」

「宗次おじさんがしてる」

「団子の味見が……」

「それは仕事ちゃう」

「大事やで?」

「座る」

「……はい」


 茶太郎は、すとんと座った。

 茶丸が店の隅で丸くなる。


『捕まったな』

「助けて」

『嫌や』


 ゆかりから糸を渡された。


「ここ持って」

「うん」

「こっち通して」

「うん」

「ほんで、こっち」

「……こっち?」

「そっちちゃう!」

「あっ」

 するっ。

 一本抜けた。


「あああ」

「もう!」

「むずかしい!」

「料理より簡単や!」

「絶対うそや!」


 ゆかりが笑う。

 茶太郎も笑った。


 もう一度。

 右。

 左。

 くぐらせて。

 きゅっ。


「茶太郎、引っ張りすぎ」

「ほどけたら嫌やもん」

「強うしたらええってもんちゃうよ」


 ゆかりが茶太郎の指に自分の指を添え、少しだけ糸を戻した。


「ほら」

「……ゆるいで?」

「ここは、それでええの」


 一本を緩める。

 すると、不思議なくらい全体がきれいに収まった。

 茶太郎が目を丸くする。


「なんで?」

「糸ってな」

 ゆかりが笑った。

「ゆるめるとこがあるから、ほどけへんの。」

「……へんなの」

「茶太郎が引っ張りすぎなんや」

「むぅ」


 それでも夕暮れまでかかって、ようやく一本できた。

 太い。

 細い。

 途中で曲がっている。

 茶太郎は持ち上げた。


「……へたやな」

「うん」

「そこは、じょうずって言うとこやろ!」

「嘘ついたらあかんもん」

「ゆかりのいじわる」

「でも使うよ」

「え?」


 ゆかりは茶太郎の不格好な組紐を取った。

 そして、他のどれより大事そうに籠へ入れた。


「茶太郎が結んだんやろ?」

「……うん」

「ほな、これでええ」

 茶太郎は鼻の頭を掻いた。

「……そっか」


 ◇

 夜。

 大きな祭りではない。

 お客もいない。

 いるのは、いつもの顔。


 茶太郎。

 ゆかり。

 かん太。

 こたろ。

 茶丸。

 希太。

 それから、仲間たち。

 橋姫とうじまるも一緒だった。

 宗次たち大人は舟を出すところだけ手伝ってくれた。


「無茶すんなよ」

「分かってる!」

「舟から身ぃ乗り出すなよ」

「分かってる!」

「茶太郎、お前が一番心配なんや」

「なんで!」


 笑い声が岸に残る。

 舟がゆっくり離れた。

 ぎい。

 櫂が軋む。

 ちゃぷん。

 水が舟腹を叩く。

 夜の宇治川は、昼間よりずっと大きく感じた。


 山は黒い。

 川も黒い。

 その間から――。

 月が昇った。


「わぁ……」

 誰かの声が漏れた。

 茶太郎も口を開けたまま見上げる。


「まんまるや」

「茶太郎」

「ん?」

 ゆかりが舟の横を指した。


「下」

 茶太郎が覗き込む。

「あっ」

 水の中にも月があった。


 空に一つ。

 川に一つ。


「ゆかり」

「なに?」

「月、二つある」

「ほんまやなぁ」


 二人で並んで眺めた。

 茶太郎は、そっと指を伸ばした。


「茶太郎、あかんて」

 ぽちゃん。

「あ」

 水の月が割れた。

「あーあ」

「戻るもん」

「ほんま?」

「……たぶん」

「たぶんなん?」

「待ってみよ」


 二人で待つ。

 じーっ。

「まだ?」

「まだ」

「……まだ?」

「しゃべったら遅なるんちゃう?」

「そんなんある?」

「知らん」

 やがて波紋が小さくなった。


 ゆらり。

 ゆらり。

 そして――。

 月がまた丸くなる。


「あ!」

「戻った!」

「ほらな!」

「茶太郎、何もしてへんやん」

「待ってた!」

「それだけやん」

 二人の笑い声が、夜の川へ小さくこぼれた。


 ◇

『たぶん……こんな感じ』

 橋姫が耳を澄ませる。

 岸から、

 ひゅう――……。

 一本の笛が鳴った。


 茶太郎がぱっと振り向く。

「おお……」

『もう少し長かったかしら』

『いや、もっとゆっくりじゃ』

 うじまるが口を挟む。

『あんた水の中にいたでしょう』

『水ん中でも音は聞こえるわい』

『聞こえ方が違うの』

『そうかの?』


「けんかしたら聞こえへん!」

 茶太郎が人差し指を口へ当てる。

「しーっ」

 二柱が黙った。

 ひゅう――……。

 笛が夜空へ伸びる。


 少しして、

 ……べん。

 琵琶。

 茶太郎の肩がぴくっと動いた。


「これが、びわ?」

『そう』

「食べられへん方?」

『まだ言うか』

 茶丸が呆れた。


 また笛。

 ひぃ――……。

 そこへ柔らかな音が重なる。

 ふわり。

 茶太郎は目を閉じた。


 笛は、空へ飛んでいく。

 琵琶は、ぽちゃんと水へ落ちる。

 柔らかな音は、その間を包んでいく。


 そして――。

 さら……。

 さら……。

 ずっと下で、宇治川が鳴っていた。


 茶太郎は目を開ける。

「……すごいな」

 ゆかりが横を見る。

「なにが?」

「分からん」

「なんやそれ」

「でもな」

 茶太郎は月を見る。

「川も、いっしょに歌ってるみたい」

 ゆかりも耳を澄ませた。

「……ほんまや」


 ◇

 岸では大人たちが黙って見ていた。

 宗次。

 志乃。

 ひこじい。

 舟を出してくれた者たち。


 最初は、

「子どもの遊びや」

 と笑っていた。

 けれど、いつの間にか誰も喋らなくなっていた。


 月。

 舟。

 笛。

 琵琶。

 そして川。


 最後に、

 ひゅう――――……。

 笛が長く伸びた。

 ……べん。

 琵琶が一つ。

 静かになった。


 茶太郎が橋姫を見る。

「……おしまい?」

『まだ』

「え?」

 橋姫は目を閉じた。


 ちゃぷん。

 さら……。

 さら……。

 虫が鳴いている。


 岸の竹が、

 さわ……。

 と揺れる。


『ほら』

 橋姫が笑った。

「最後は川が弾くんよ。」


 茶太郎は黙った。

 ゆかりも黙った。

 かん太も、こたろも。

 茶丸まで耳を立てた。


 何もしない。

 ただ聞いた。

 宇治川が流れる音を。

 空にも。

 川にも。

 月があった。


 ◇

 次の朝。

「茶太郎」

「んー?」

 《茶結屋》の朝飯。

 茶太郎は飯を頬張っていた。


「昨日のん」

 宗次が向かいへ座った。

「また来年もやろか」

「ん」

 もぐもぐ。

「舟、もうちょい増やして」

「ん」

「茶も出して」

「ん」

「町のみんなも呼んで」

「ん――」

 ぴたり。

 茶太郎の口が止まった。

 ごくん。

「……とうちゃん」

「なんや」

「それ、もう僕らの遊びちゃうやん」

「ええやないか」

「ええけど……」


 そのとき。

「宗次ー!」

 外から声がした。

「来年なら舟、あと三艘出せるぞ!」

 別の声もする。

「団子も出そか!」

「笛吹けるやつ、知ってるで!」

「茶ぁは茶結屋やろ!」


「ちょ、ちょっと待って!」

 茶太郎が飯を置いて飛び出した。

「まだ一年も先やで!」

 どっと笑いが起きた。


 茶太郎は頬を膨らませる。

「もう……」

 その横を、宇治川から来た風が通り抜けた。


 昨日と同じ朝。

 昨日と同じ川。


 けれど。

 子どもたちが月を見た、ただそれだけの一夜は――

 もう誰かの、

「来年も」

 になっていた。

茶太郎の一言が平安宇治の記憶、霊性、宇治川、音楽、茶結屋、ゆかり、そして将来の宇治の新しい行事につながるお話でした。

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『茶太郎がゆく』
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