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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
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第278話 「裏返された道札と、声のない通行止め」

 ――道を閉じることも、道を守る仕事になる――


 朝日山の麓に着いたとき、道札は表を向いていた。


『青羽便休み場 この先』


 墨で書かれた文字の下に、羽と水輪の印がある。


「今は、裏返ってへんな」


 かん太が道札の周りを調べた。

 杭は抜かれていない。

 縄も切られていない。


 ただ、札だけが何度も回されたらしく、縄の繊維が白く毛羽立っていた。


 山から吹き下ろす風は弱い。

 杉の葉がかすかに鳴る程度で、厚い木札を三度も裏返せるとは思えなかった。


「人の手やな」


 弥七やしちが言った。

 茶丸は札の根元を嗅ぎ、白灯あかりは山道の脇へ進んだ。


「……ニャッ」


「にゃっ」


 二匹が見つけたのは、小さな草履の跡だった。

 札の前まで来て、山の方へ戻っている。


「子どもの足や」


 かん太が顔を上げた。

 そこへ、休み場を任されていた寺男が駆けてきた。


「また悪戯か!」


 男は息を切らしながら、道札を強く叩いた。


「昨日も一昨日も、裏返されとった。旅人が迷うて、うちへ怒鳴り込んできたんやぞ」


「誰がやったか、見たん?」


 茶太郎が尋ねる。


「見てへん。せやけど、麓の子らに決まっとる。新しい札が珍しいんや」


「決まってへんよ」


 茶太郎が答えると、寺男は眉を寄せた。


「足跡まであるやないか」


「足跡があることと、悪戯したことは同じやない」


 前に青い水を見たとき。

 染屋を疑った人たちも、目の前の色だけで答えを決めようとした。

 茶太郎は札を元へ戻さず、そのまま周囲を確かめることにした。


 子どもたちは山道へ入らない。

 弥七とかん太が足跡を追い、茶丸と白灯は安全な道の端から匂いを辿る。


 茶太郎は寺男と一緒に、麓の家々を訪ねた。

 乾いた薪の匂いが漂う小屋の裏で、一人の少年が見つかった。


 年は十ほど。

 膝を泥で汚し、削りかけの木片を握っている。

 寺男を見るなり、少年は逃げようとした。


「待て!」


 弥七は道を塞がなかった。

 ただ、少年が急な斜面へ向かわないよう、少し離れて声をかけた。


「追いかけへん。そっちは足場が悪い。そこで話してくれ」


 少年は立ち止まった。


「札を裏返したんは、お前か」


 寺男が尋ねる。


「……そうや」


「やっぱり悪戯やないか!」


「違う!」


 少年の声が、杉林へ鋭く響いた。


「あの先、通ったらあかんのや!」


 少年は木片を差し出した。

 表面には、一本の道と、崩れ落ちる石の絵が刻まれている。


 字ではなかった。

 道を塞ぐ印を作ろうとしていたのだ。


「三日前、山で音がした」


「どんな音?」


 茶太郎が尋ねた。


「腹の中で石を噛むみたいな音や。ごり、ごりって。次の日には、道の脇に細い割れ目ができてた」


 少年は炭焼きの父へ知らせようとした。

 だが父は荷を運びに出ており、二日戻らない。

 寺へ行っても、忙しいからあとにしろと追い返された。


「せやから札を裏返した。こっちへ来るなって意味で」


「なら、なぜ札へ書かなかった」


 寺男が言う。

 少年は唇を噛んだ。


「字、書けへん」


 誰も何も言わず、風が杉の匂いを運んだ。

 道札には、行き先は書かれていた。

 しかし、字を書けない者が危険を知らせる方法はなかった。


「割れ目を見に行く」


 弥七が告げた。


「茶太郎らは、ここで待て。猫も連れていかん」


 茶丸が不満そうに尾を振る。


「……ニャ」


「崩れるかもしれん場所へ、猫を先に行かせたらあかん」


 弥七とかん太、土地を知る大人二人が、縄と長い棒を持って山道へ入った。

 割れ目には近づきすぎず、道の下側から回り込み、木の傾きと土の動きを確かめる。

 戻ってきた弥七の草鞋には、赤茶けた湿り土が付いていた。


「ほんまに割れとる。道の下まで続いとるかは分からん。けど、荷を通してええ状態やない」


 寺男の顔から血の気が引いた。


 もし道札を表へ戻したまま、荷車を通していたら。

 車輪の重みで、斜面が崩れたかもしれない。


 寺男は少年へ頭を下げた。


「すまん。話を聞かんかった」


 少年は驚き、握っていた木片を胸へ抱いた。


「でも、札を裏返すだけでは、何が起きたか分からへん」


 茶太郎が言った。


「休み場が閉まってるんか、道が危ないんか、誰かの悪戯なんか」


「ほな、どうする?」


「声にできへん人でも、危ないって知らせられるようにする」


 新しい道札には、表と裏で違う印を付けることになった。


 通れる側には、羽と水の印。

 通れない側には、大きな斜めの二本線。


 ただ裏返すのではなく、二本線の下へ理由を示す小札を掛ける。


 崩れかけた道は、石の印。

 増水は、波の印。

 休み場の閉まりは、伏せた椀の印。


 正体が分からなければ、何も描かれていない黒い札を掛け、大人を呼ぶ。


 子どもは危険を調べに行かない。

 札を閉じる側へ回し、最寄りの家か寺へ知らせるところまで。

 通行を再開するかどうかは、土地を知る大人が現場を確かめて決める。


「閉じる札にも、決まりが要るんやな」


 かん太が呟いた。


「勝手に閉じたら困る。でも、偉い人を待ってて怪我人が出るんも困る」


 茶太郎は少年の木片を見た。


「最初に止めるのは、見つけた人。確かめるのは、大人。開けるのは、道を見た人たちが一緒に決める」


 少年が作った石の印は、そのまま小札の形に使われた。

 名は記さなかった。

 手柄として掲げれば、今度は真似をして札を閉じる者が現れるかもしれない。


 ただ帳面には、

『麓の者の知らせにより、崩れの疑いを発見』

 と残した。


 夕刻。


 道の入口へ縄が張られ、石の小札が風に揺れた。


 からん。


 木と木が触れ、乾いた音がする。

 その音なら、字を読めない旅人も札へ目を向ける。


 茶丸は縄の前に座り、閉じられた道を見上げた。

 白灯は少年の足元へ身体を寄せる。


「にゃ」


 少年が、おそるおそる白灯の背を撫でた。

 指先についた木屑が、白い毛の上へ落ちた。


 茶太郎は朝日山を仰いだ。

 夕日に照らされた木々の間から、観音堂の屋根がわずかに見える。


 道を開くことばかり考えていた。

 けれど、危ないときに閉じられなければ、その道は人を守れない。


 翌朝、山仕事の者たちが斜面を調べに入った。

 崩れかけた土の下から、古い石段の端が見つかった。


 石段は現在の道とは違う方角へ延びている。

 先にあるのは、朝日山観音ではなかった。

 土地の老人が苔を払い、刻まれた印を見つめた。


「これは……炭山へ抜けていた古道の印や」


 裏返された札の先で。

 忘れられていた東の道が、土の下から姿を現そうとしていた。


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『茶太郎がゆく』
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