第277話 「七日目の帳面と、誰のものでもない道」
――同じ出来事を、同じように書くとは限らない――
試しの七日目。
男山の麓に、五冊の帳面が並べられた。
幕府の奉行人。
木沢長政の役人。
三好方の使者。
石清水八幡宮と善法寺家。
山崎の神人、油商人、船頭たち。
同じ七日を記したはずの帳面は、厚さも、墨の濃さも違っていた。
障子の隙間から湿った風が入り、紙と古い畳の匂いを揺らす。
「急ぎ荷、九つ」
幕府の奉行人が読み上げた。
「うち、薬荷が五つ。食の救い荷が二つ。誤って急ぎとされた商い荷が一つ。残る一つは——」
「誤りやない。偽りや」
木沢長政が言葉を挟んだ。
赤い紐を勝手に結び、検めを早く抜けようとした荷のことだった。
木沢方の帳面には、大きく書かれている。
『偽りの急ぎ荷、一』
三好方の帳面には、別の一行があった。
『木沢方の検めにより、薬荷一刻滞る』
「こちらも消してもらっては困る」
三好の使者が言った。
「偽りを見つけた功ばかり書いて、真の急ぎ荷を止めたことを書かぬのでは、木沢殿に都合のよい帳面になる」
木沢の家臣が膝を進めた。
「止めたのは送り印が薄かったからだ。手順に従ったまで」
「病人は手順を待たぬ」
「偽薬を通して死人が出れば、誰が責めを負う?」
声が重なった。
墨の匂いに、張りつめた汗の匂いが混じる。
茶太郎は帳面の端を見比べた。
山崎の記録には、雨で船を止めた時刻が書かれている。
男山の記録には、《戻し札》を出した時刻がある。
ところが二つの間には、半刻ほどの違いがあった。
「どっちが間違ってるん?」
茶太郎が尋ねた。
山崎の船頭が腕を組む。
「川面を見て、船を出せんと決めた時刻や」
男山の使い番は答えた。
「こっちは、その知らせを受け取った時刻を書いた」
「ほな、どっちも合ってるんや」
部屋が静かになった。
茶太郎は二つの時刻の間へ指を置いた。
「船を止めたときと、男山が知ったとき。その間に知らせが歩いた時間がある」
間違いに見えたずれは、知らせの速さを示していた。
だが、それだけではなかった。
道沿いの小さな茶屋へは、《戻し札》が届いていなかった。
字を読める主人が熱を出し、代わりに店を開けた妻は、札の決まりを知らなかったからだ。
荷は二つ、そこで行き先を失った。
「札を作っただけで、伝わると思うたんが失敗や」
弥七が言った。
「人が替わったときの伝え方がない」
善法寺家の使者が頷く。
「ならば、字だけに頼らぬ印も要る。されど神紋を勝手に使わせるわけにはいかぬ」
「三好の印も、木沢の印も同じだ」
三好の使者が答える。
「道の印が、どちらかの支配の印に見えてはならん」
そこで木沢長政が茶太郎へ尋ねた。
「水輪の印を使えばよいのではないか」
「使わへん」
茶太郎はすぐに首を振った。
「なんでや。お前たちが結んだ道であろう」
「ぼくらの道になってしまうから」
茶太郎は、並んだ五冊を見た。
「この道は、木沢さんの道でも、三好さんの道でも、八幡宮さんの道でも、山崎の人だけの道でもない。水輪のものでもない」
「誰のものでもない道など、誰が守る?」
木沢の問いは厳しかった。
茶太郎は少し考えた。
「自分の前と、自分の次を、それぞれが守る」
一人で堺から宇治まで抱え込む者はいない。
船頭は、船を出せるか決める。
茶屋は、水と休み場の有無を知らせる。
検め役は、偽りの印を見つける。
寺社は、境内と参詣路の秩序を守る。
荷主は、中身と行き先を偽らない。
水輪は、それらが途切れていないか確かめる。
「全部を守る人はおらん。でも、誰も守らん場所も作らへん」
奉行人は筆を取り、白い紙の上へ一行を書いた。
『男山・山崎の道は、いずれ一方の知行、役所、商い場とも定めず』
その下へ、役目の境目を書き加える。
同じ内容の覚書を五通作り、それぞれが持つことになった。
ただし、五通を一字一句同じにはしなかった。
木沢方が見つけた偽り。
三好方が記した遅れ。
山崎が船を止めた時刻。
男山が知らせを受けた時刻。
茶屋へ札が届かなかった失敗。
互いに異なる記録を消さず、五通それぞれへ書き添えた。
「違いがあれば、また揉めるぞ」
木沢の家臣が言う。
「違いを隠した方が、あとでもっと揉めます」
茶太郎が答えると、長政は喉の奥で小さく笑った。
「六つの子にしては、面倒な道を作る」
「簡単な道やったら、もう誰かが作ってるよ」
奉行人の筆が止まった。
座のあちこちで、こらえきれない笑いが漏れた。
昼過ぎ、茶太郎たちは男山を発つことになった。
雨上がりの馬場には、濡れた土と青い草の匂いが満ちている。
厩の前では、白妙が待っていた。
背の傷は乾き、毛の間に薄い痕だけが残っている。
馬丁が鞍も荷も付けず、白妙をゆっくり歩かせた。
茶丸は道の真ん中へ座り、その姿を見つめている。
「帰るよ、茶丸」
「……ニャ」
呼ばれても動かない。
白妙が近づき、温かな鼻先で茶丸の背を押した。
茶丸は一歩よろめく。
「ニャッ」
抗議するように見上げたあと、白妙の前脚から肩へ、するすると駆け上がった。
「こら!」
馬丁が声を上げたが、白妙は暴れなかった。
耳を後ろへ向け、茶丸の位置を確かめる。
茶丸は白い鬣の間へ黒い身体を沈めた。
馬丁が白妙の脚と呼吸を見てから、手綱を短く持つ。
「一回りだけやぞ」
白妙は、濡れた馬場をゆっくり歩いた。
白い背に、黒い猫。
蹄が柔らかな土を踏むたび、湿った音がする。
茶丸の尻尾が鬣の上で揺れた。
一周すると、白妙は茶太郎の前で止まった。
茶丸はなかなか降りようとしない。
「離れてても、道は切れへんよ」
茶太郎が両腕を差し出す。
「また来られるように、ぼくらが繋ぐんやから」
茶丸は白妙の首へ額を押しつけた。
白妙も首を曲げ、黒い背へ息を吹きかける。
それから茶丸は、ようやく茶太郎の腕へ飛び降りた。
一行が遠ざかると、背後から高い嘶きが響いた。
「……ニャッ!」
茶丸が茶太郎の肩から振り返る。
男山の緑の下に、白妙の姿が小さく残っていた。
誰のものでもない道は、誰もが好きにしてよい道ではない。
離れた者どうしが、次に会えるよう守る道だった。
その夕方。
伏見へ戻った茶太郎を、友照と千代が一通の文を持って待っていた。
送り元は宇治。
朝日山の麓からだった。
『青羽便の休み場に立てた道札が、三度裏返されている。
風か、人か、まだ分からない』
西の男山と山崎が繋がった日に。
東へ延びる道では、何者かが印を隠し始めていた。




