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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
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第276話 「渡れない知らせと、赤い紐の偽り」

 ――進めないと分かったなら、来る前に返す――


 雨は、夜通し男山を叩いた。

 竹の葉から落ちる雫が、屋根を細かく打つ。

 川の音は山の上まで届いていた。


 ごう。

 ごう。

 暗闇の中で、大きな獣が息をしているようだった。


 白妙しろたえは神馬舎の奥へ移されている。

 風の吹き込まない場所。

 雨漏りのない屋根。

 乾いた敷藁。


 馬丁たちは戸の留め具や水桶を確かめ、白妙が驚かないよう灯りを少なくした。


 茶丸は飼葉桶の横で丸くなっている。


 雷が鳴るたび、片目だけ開けた。


「茶丸、怖いん?」


「……ニャ」


 違う、と言っているようだった。


 白妙が鼻先を下げ、黒い背へ触れる。


 茶丸の尻尾が一度だけ揺れた。


「白妙を見張ってるんやな」


「……ニャッ」


 今度の返事は少し強い。


「ほな、お願い」


 茶太郎は馬丁と一緒に戸を閉めた。


 子どもが夜の川や山道を見回ることはできない。


 茶太郎とかん太、白灯あかりは宿坊の内側で待った。


 外を確かめるのは、土地を知る大人たちだった。


 朝。


 雨は弱くなったが、川は濁っていた。


 茶色い水が泡を巻き、枝や草束を押し流している。


 渡し船は岸へ引き上げられ、太い縄で杭へ結ばれていた。


 船頭が首を横に振る。


「今日は出さん」


「昼から水が引いても?」


「今は分からん。上流でも降っとるかもしれん」


 青羽便も止められた。


 風が乱れ、雨雲が低い。


 アオバトを放しても、帰れる保証がない。


「舟も、シオたちもあかん」


 かん太が言った。


「山崎へ閉まってるって、どう知らせるん?」


 茶太郎は対岸の方角を見た。


 川霧と雨で、何も見えない。

 大声も届かない。

 鳩も飛ばせない。

 船も出せない。


「渡れへん知らせを、向こうへ渡そうとしてるから困るんかな」


「どういうことや?」


「男山が閉まってるって、一番先に知ってほしいんは、これから男山へ来る人やろ?」


 山崎へ直接知らせられなくても、伏見や宇治から来る荷へは知らせられる。

 山崎側も、摂津や京から来る荷へ閉鎖を返せばよい。

 両岸が連絡できなくても、それぞれが自分の上流を止められる。


「来てから戻すんやなくて、来る前に返す」


 弥七が頷いた。


「ほな、《戻し札》やな」


 厚い木札の表へ、渡し船の絵を描く。

 裏には、その船へ大きな斜め線を引く。


 開いているときは船の面。

 閉じているときは斜め線の面。

 その下へ、閉じた時刻を示す札を掛けた。


 字が読めない者にも分かるよう、朝、昼、夕方を太陽の位置で描く。

 男山の使番は、伏見側の受け場へ《戻し札》を運んだ。


 山崎側でも、土地の神人が同じ札を京寄りと摂津寄りへ送った。

 川を越える知らせではない。

 川へ向かってくる荷を、その手前で止める知らせだった。


 昼前。


 伏見方面から二台の荷車が来た。


 一台は米俵。


 もう一台には、赤い組紐を付けた小箱が積まれている。


「薬荷や!」


 荷運び人が叫んだ。


「急ぎや。先へ通してくれ!」


 改め所の者は、すぐに縄を解かなかった。


 新しい決まりでは、赤い組紐だけで薬とは認めない。


 送り元の印。


 受取人の印。


 箱の数。


 通過した時刻。


 それを大人二人で確かめる。


「送り印は?」


「伏見で付けてもろた」


 荷運び人が木札を差し出す。


 表には薬屋らしい印がある。


 だが裏には、受取人の印がなかった。


「受け取る医師は誰や」


「山崎へ着いたら決める」


「薬の数は?」


「箱を開けな分からん」


「開けずに数えられるよう、送り元が書く決まりや」


 荷運び人の顔が強張った。


「ほんまに急いどるんや!」


 茶太郎は近づかなかった。


 荷を調べるのは大人の役目だ。


 正体の分からない箱へ白灯を寄せることもしない。


 木沢方の役人、八幡宮の神人、荷運び人の組を知る者が立ち会った。


 箱は道の列から外され、人と馬を離してから確認された。


 中に入っていたのは、薬ではなかった。


 小さな油壺。


 染料。


 高価な布。


 どれも禁じられた品ではない。


 ただ、関銭と順番を避けるため、商いの荷へ赤い組紐を付けていた。


「薬やないやん」


 かん太が呟く。


 荷運び人は俯いた。


「川が止まる前に、山崎へ渡したかったんや」


「薬の紐なら先に通れると思うたか」


 木沢方の役人が尋ねる。


「……はい」


「誰に言われた」


「俺が勝手にやった。荷主は知らん」


 その言葉も、すぐには信じない。


 荷主と送り元を調べ、誰が赤い紐を付けたのか、大人たちが記録することになった。


 荷は没収されなかった。


 勝手に罰を決める場でもない。


 商いの荷として正しい列へ戻され、処分は荷主、座、関係する役人の話し合いへ渡された。


 ただし、偽の赤い紐は外された。


 その一件も帳面へ残す。


『赤紐あり。


 受取印なし。


 中は商荷。


 薬として通さず』


「木沢長政さんの言うた通りやった」


 茶太郎が言った。


「薬って書けば、何でも薬にできる」


「せやけど、全部開けてたら、また遅なるで」


 かん太が答える。


「うん。せやから、印と数を先に確かめるんやと思う」


 疑うことと、全てを壊して調べることは同じではない。


 送り元。


 受取人。


 箱の数。


 封の状態。


 どこで通り、どこで止まったか。


 一つの印を信じきるのではなく、複数の記録を重ねる。


 午後には、ほんものの薬荷が一つ届いた。


 宇治から八幡の医師へ送られた腹の薬だった。


 送り元と受取人の印が合う。


 箱の数も記録どおり。


 だが渡しは閉じている。


「これは山崎へ行く荷やない」


 八幡の医師が言った。


「男山の麓で待つ病人へ届ける。川を渡す必要はない」


 荷は渡し場へ回されず、そのまま八幡の受け場から医師へ渡った。


「何でも山崎へ持っていこうとしてたら、これも遅れてたな」


 茶太郎は地図を見た。

 荷の行き先を確かめず、道の順番だけで運べば、近い相手へも遠回りさせてしまう。


 《双つ受け》は、荷を二つの場所へ集める仕組みではない。


 どちらへ渡す必要があるかを、手前で分ける仕組みだった。


 夕方。


 雨が上がった。


 川の水位はまだ高く、船頭は舟を出さない。


 空には薄い夕焼けが戻ったが、青羽便も翌朝まで待つことになった。


「晴れたから飛べる、とは限らん」


 使番が言う。


「鳥も夜へ入る前に休ませる」


 その判断も帳面へ残された。

 男山側へ来た荷車は、朝の半分以下だった。

 伏見の受け場で《戻し札》を見て、急がない荷が出発を見合わせたからだ。


 山崎側でも、京と摂津から来る荷を手前で止めたという知らせが、遠回りの陸路で届いた。


 川を越えられなくても、両側の道は働いていた。


 翌朝。


 木沢方、三好方、石清水八幡宮、山崎の神人、幕府奉行人へ、それぞれ同じ写しが渡された。


『舟、終日止まり。

 青羽、終日出さず。

 偽の赤紐、一件。

 急ぎの薬、一件は八幡内で受渡し。

 川辺へ集まった荷、前日より減る』


 木沢方の役人は、偽の赤紐の箇所へ指を置いた。


「だから改めが要る」


 三好方の使者は、荷が減った箇所を見る。


「だから閉鎖の知らせが要る」


 善法寺家の男が二人を見た。


「どちらか一方だけでは、道は守れぬということだ」


 七日の試しへ、《戻し札》の決まりが加えられた。


 道や渡しを閉じた者は、自分の前へ来た荷を止めるだけでは足りない。

 可能な範囲で、一つ手前の受け場へ知らせる。

 知らせを受けた場所も、さらに一つ手前へ返す。


 詳しい理由を言えないときも、閉じている事実だけは伝える。

 いつ開くか分からなければ、勝手な見込みを書かない。


 白妙の神馬舎へ戻ると、茶丸が干し草の山から顔を出した。


 白妙は落ち着いた様子で飼葉を食べている。


 茶丸の頭には、細い藁が一本載っていた。


「一晩ずっと見張ってたん?」


「……ニャ」


 白妙が茶丸の頭へ鼻先を寄せる。

 ふっ。

 藁が飛んだ。


「にゃっ」


 白灯が嬉しそうに追いかける。

 白妙は今度、白灯へも鼻先を近づけた。


 白灯は身構える。

 だが強い鼻息は来なかった。

 白妙は白灯の頭巾を、唇でそっと持ち上げただけだった。


「にゃ?」


 茶丸が目を細める。


「……ニャ」


 少しだけ、仲間と認められたらしい。

 茶太郎は《水輪藁紙》へ、舟に斜め線を引いた印を描き直した。


 止まることは、失敗ではない。

 知らせずに集め、無理に進ませることが失敗になる。

 男山と山崎を結んだ最初の大雨は、荷を一つも川へ渡さなかった。


 それでも——道は、切れていなかった。


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『茶太郎がゆく』
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