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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
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第275話 「男山と山崎、二つの受け場」

 ――一つにまとめず、離れたままで助け合う――


 話し合いの朝、川霧が深かった。

 男山の竹林は白く霞み、対岸の山崎は影しか見えない。

 水面を進む渡し船も、櫂が水を切る音だけを残して霧へ消えていく。


 茶太郎は岸に立ち、目を凝らした。


「近いのに、見えへんな」


「川が荒れたら、もっと遠うなる」


 弥七やしちが答える。


「向こうに人がおっても、渡れへん日は別の国みたいなもんや」


 今日の話し合いは、山崎側で行われる。


 石清水八幡宮と善法寺家。

 大山崎の神人と油商人。

 木沢方。

 三好方。

 そして室町幕府の奉行人。


 それぞれが同じ場所へ集まることになった。


 白妙しろたえは男山に残った。

 背の傷は乾き始めていたが、馬丁はまだ馬具を付けない。

 茶丸も神馬舎の前から離れようとしなかった。


「今日は一緒に来る?」


 茶太郎が尋ねる。


「……ニャ」


 茶丸は白妙を見上げた。

 白妙が首を下げる。

 黒い額と白い鼻先が触れた。


「ほな、白妙と留守番お願い」


「……ニャッ」


 茶丸は短く答えた。

 白灯あかりは先に渡し船へ乗ろうとして、船頭に止められた。


「勝手に乗せたらあかん。揺れて落ちるぞ」


「にゃっ」


「白灯、籠に入ろな」


「にゃあ……」


 弥七が用意した籠へ入り、蓋は閉めずに大人が押さえる。

 子どもたちも船の中央へ座った。


 立ち上がらない。

 舷へ寄らない。

 船頭の指示があるまで動かない。


 櫂が水へ入る。

 ぎい。

 ざぶん。


 川霧の中で、水の匂いが濃くなった。

 男山の岸が見えなくなる。

 しばらくして、油と木煙の匂いが漂ってきた。

 山崎側だった。


 船着き場には、壺や桶を載せた荷車が並んでいる。

 油を扱う店の軒には、灯明皿の印が掲げられていた。


「ここでは、勝手に油を売ったらあかん」


 善法寺家の使者が茶太郎へ念を押す。


「売りません」


「水輪の名で油を運ぶ仕事も受けぬな」


「はい」


「安い油を持ち込んで、座の商いを奪うことも」


「しません」


 茶太郎は指を折りながら答えた。


「水と、休める場所と、次にどこへ行けばええか。それだけお願いするんやろ?」


「まずは、そこまでだ」


 話し合いは、離宮八幡宮に近い会所で開かれた。

 畳の中央に、大きな地図が置かれている。


 北には京。

 東には伏見と宇治。

 南には八幡と河内。

 西には摂津。

 川と街道が、何本もの墨線で交わっていた。

 上座には座らず、幕府奉行人は地図の横へ腰を下ろした。


「本日は、新たな領地を定める場ではない」


 最初にそう告げた。


「石清水八幡宮の領分を削る場でも、木沢方や三好方の軍役を否定する場でもない。山崎の座と神人が持つ権利を、水輪へ移す場でもない」


 大山崎の神人が頷いた。


「ならば聞こう。水輪は何を望む」


 視線が茶太郎へ向く。

 茶太郎は弥七の隣に座ったまま、地図を指した。


「荷が止まったとき、前の場所へ知らせたいです」


「それだけか?」


「休める場所と、水がある場所も分かるようにしたい。薬とか食べ物が急ぐときは、ほかの荷と分けたいです」


「関銭は?」


「取りません」


「油の売買は?」


「しません」


「船頭を、水輪の命令で動かすか?」


「動かしません。船を出すかどうかは、船頭さんが決めます」


 船頭の一人が腕を組んだ。


「水が増えとる日に、子どもの頼みで船を出せ言われても出さんぞ」


「出さんといてください」


 茶太郎は答えた。


「危ないって分かったら、渡れへん印を出してほしいです」


 会所が少し静かになった。


 三好方の使者が尋ねる。


「木沢方が道を閉じたとき、山崎へ荷を逃がすつもりか」


「逃がすんやなくて、通れるか聞きます」


「三好方が閉じたときは?」


「男山へ聞きます」


「双方が閉じたら?」


「前の受け場で止めます」


「何があっても運ぶ道ではないのか」


「危ないときに止まれるのも、道やと思います」


 木沢方の役人が鼻を鳴らした。


「便利な言葉だ。止めた責めを負いたくないだけではないか」


 茶太郎は少し考えた。


「止めた人の名前と、止めた理由と、時刻を残します」


「それで責任を取ったことになるか?」


「なりません。でも、次に誰へ聞けばええかは分かります」


 幕府奉行人が口を開く。


「全てを一度に裁こうとするから、話が進まぬ」


 地図の男山へ、丸い石を置く。

 山崎へも、別の石を置いた。


「まず、この二か所の役目を定めよ」


 話し合いは、昼を越えた。

 誰が荷の封を見るのか。

 誰が渡し船を止めるのか。

 どこまでが社領で、どこからが街道なのか。

 何を帳面へ書き、何を書いてはならないのか。


 大人たちは何度も言い争った。

 茶太郎は途中で口を挟まず、聞いたことを絵へ変えた。


 男山には、竹の印。


 山崎には、灯明皿の印。


 二つの間には、舟。


 舟の横には、波が穏やかな印と、荒れている印。


「その絵、見せてみよ」


 大山崎の神人が言った。


 茶太郎が紙を差し出す。


「男山と山崎、どちらが上だ」


「上?」


「正の受け場と、副の受け場。どちらを本とする」


 茶太郎は二つの丸を見比べた。


「決めなあかんの?」


「本と副を決めねば、命じる者がおらぬ」


「でも、川のこっちと向こうで、できること違うやろ?」


 男山は、河内や山城南部から来る荷を受けやすい。


 石清水八幡宮の参詣路や社領の道にもつながる。


 山崎は、摂津や京へ向かう陸路と、川船の荷を受けやすい。


 油商人、神人、船頭もいる。


 同じ役目ではない。


「男山が閉まったら、山崎が本」


 茶太郎が言う。


「山崎が閉まったら、男山が本。どっちも開いてたら、行き先に近い方を使う」


「都合のよいときだけ本になる、と?」


「うん」


「それでは上下がない」


「なくても困らへんのと違う?」


 木沢方の役人と三好方の使者が、同時に眉を寄せた。


 善法寺家の男は、小さく笑った。


「この子は、どちらかへ頭を下げさせようという話をしておらぬ」


 大山崎の神人が地図を見つめる。


「一つにまとめず、二つのまま使うか」


「《双つ受け》や」


 かん太が言った。


「二つあるから、片方が休んでも切れへん」


 名称は《男山・山崎の双つ受け》と定められた。


 男山の受け場は、石清水八幡宮と善法寺家が管理する。


 山崎の受け場は、土地の神人、商人、船頭が役目を分けて管理する。


 水輪は、どちらも所有しない。


 独自の関銭を取らない。


 油、舟、社領、軍勢の扱いへ勝手に入らない。


 行うのは、休息場所の案内。


 飲み水の有無。


 急ぐ荷の通過時刻。


 閉鎖と迂回の連絡。


 それだけだった。


 木沢方と三好方も、道を閉じる場合には、理由と時刻を受け場へ知らせる。


 軍事上、詳しい理由を明かせないときは、


『兵のため閉じる』


 とだけ記す。


 いつ開くか分からなければ、分からないと書く。


 見込みを事実のように伝えない。


「この定めは、双方の支配権を認める証文ではない」


 幕府奉行人が念を押した。


「七日の試しを、川の両側へ広げるための覚えである。効かぬなら直す」


 全員が満足したわけではない。


 木沢方は、八幡宮の札だけで荷が通ることを認めなかった。


 三好方も、木沢方の送り印を信用したわけではない。


 山崎の商人は、水輪が将来、商いへ入ってこないか警戒している。


 それでも、同じ帳面を見ることには合意した。


 午後、最初の試しが行われた。


 急がない文を二通用意する。


 内容は同じ。


『男山、山崎とも、今は受けられる』


 一通は男山から伏見へ。


 もう一通は山崎から京寄りの茶屋へ。


 早さを競うためではない。


 どこで止まり、誰へ渡り、何が分かりにくかったかを確かめるためだった。


 山崎の文を預かった使番が出発する。


 男山の文は渡し船へ載せられた。


 だが船頭は、空を見て櫂を置いた。


「待て」


 西の空に、黒い雲が膨らんでいる。


 川面を走る風が冷たくなった。


「雨が来る。今出せば、戻れんかもしれん」


「文一通だけやぞ」


 荷運び人が言う。


「文一通のために、船頭と船を危うくする気か」


 船頭は動かなかった。


 茶太郎は地図の舟へ、斜めの線を引いた。


『渡し、止まり』


 男山側へ知らせるため、青羽便を使う案も出た。

 しかし風が強くなり、アオバトを飛ばすことも見送られた。


「どっちも使われへん」


 かん太が空を見上げる。


「ほな、失敗?」


「違うと思う」


 茶太郎は答えた。


「危ないって分かって、出さんかったんやから」


 山崎の受け場から、陸路の使番が一人、伏見側へ回ることになった。

 遠回りになる。

 到着も遅れる。

 それでも、船も鳥も無理に出さない。


 帳面には、


『川風強し。舟止め。

 青羽も出さず。

 陸へ返す』


 と記された。


 夕方、男山へ戻ると、白妙が神馬舎の外へ出ていた。

 馬丁が傷を確かめ、短い歩行を許したのだ。


 茶丸は、馬丁の許しを得て白妙の首近くへ乗っていた。


 白い背の上で、黒い尻尾がゆっくり揺れている。


「今日は乗せてもろたん?」


「……ニャッ」


 白妙が茶太郎へ鼻先を寄せた。


 その息は温かく、干し草の甘い匂いがした。


 白灯も期待して近づく。


 白妙は少し考えるように白灯を見た。


 ふうっ。


 今度の鼻息は弱かった。


 白灯の頭巾が、ほんの少しだけ揺れる。


「にゃ?」


 拒まれたのか、許されたのか。


 白灯には分からない。


 茶丸は背の上から目を細めた。


「……ニャ」


 雨が竹の葉を叩き始めた。


 ぱら。

 ぱらぱら。

 やがて男山も山崎も、白い雨幕の向こうへ隠れていく。


 二つの受け場を結ぶ最初の試しは、予定どおりには進まなかった。

 だから帳面には、


『双つ受け、完成』


 とは書かなかった。


『雨の日の道、これより確かめる』


 とだけ記された。


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『茶太郎がゆく』
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