第274話 「三つ目の旗と、善法寺家の門」
――守る者が増えるほど、道が安全になるとは限らない――
三好の旗は、川風にはためいていた。
山崎へ渡る船着き場の手前。
岸へ続く道に縄が張られ、赤い組紐を付けた薬荷が止められている。
「木沢方が通した荷やから、なおさら調べる」
三好方の兵はそう告げた。
荷運び人が八幡宮の札を見せても、木沢方の通過印を見せても、縄は解かれなかった。
「封は開けへん約束や!」
「その約束を結んだ場に、我らはおらぬ」
「送り元も受取人も書いてある!」
「その印が本物やと、誰が請け合う?」
荷運び人は答えられなかった。
木沢方との七日の試しが始まって、まだ二日。
薬荷は八幡を早く出られるようになった。
しかし今度は、山崎へ渡る手前で止まった。
道に立つ旗が、二つから三つへ増えただけだった。
知らせを受けた茶太郎たちは、善法寺家の使者とともに船着き場へ向かった。
白妙は男山に残した。
背の傷が塞がるまでは、遠くへ歩かせない。
茶丸も白妙のそばから動こうとしなかった。
「茶丸、行かへんの?」
「……ニャ」
白妙の前脚の横へ座り、茶太郎を見送る。
白妙が首を下げると、黒い額が白い鼻先へ触れた。
「分かった。白妙、見ててあげて」
「逆やない?」
かん太が言う。
「茶丸が見てもらう方やろ」
「……ニャッ」
茶丸の不満そうな声が、神馬舎から追いかけてきた。
茶太郎たちは弥七と大人たちに付き添われ、川沿いの道を進んだ。
水は陽を弾き、眩しいほど白く光っている。
川風には湿った砂と舟板の匂いが混じっていた。
船着き場が近づくにつれ、荷車の軋む音と、苛立った馬の鼻息が聞こえてくる。
「子どもは縄へ寄るな」
弥七が告げる。
「兵と荷運び人の間にも入るなよ」
「うん」
茶太郎とかん太、白灯は、道から離れた木陰で待った。
交渉するのは、善法寺家の使者だった。
「この薬荷は、石清水八幡宮の者が送り印を確かめ、木沢方も封を改めず通したもの。なぜ止める」
三好方の兵を束ねる男が答えた。
「だからこそだ。木沢左京亮が、赤い組紐の荷を早く通す新しい決まりを始めたと聞いた」
「急ぐ薬を止めぬための試しだ」
「木沢方の間者が、薬の箱を使わぬと言い切れるか?」
善法寺家の使者が黙る。
男は続けた。
「木沢殿は河内に兵を持ち、山城へも手を伸ばしておられる。その方が作った抜け道を、三好方が無条件で通せると思うか」
「木沢方だけで作った決まりではない」
「されど、我らは加わっておらぬ」
前の日、木沢長政が茶太郎へ投げた問いと同じだった。
薬と書けば、何でも薬になるのか。
送り印があれば、誰でも信じてよいのか。
木沢方を加えて作った決まりは、三好方から見れば木沢方の札だった。
「道って、誰か一人と約束したら終わりやないんやな」
茶太郎が呟く。
「通る先に別の人がおったら、そこでも止まる」
「ほな、全員の札付けるん?」
かん太が尋ねる。
茶太郎は荷箱を見た。
八幡宮の札。
木沢方の通過印。
もし三好方の札まで付ければ、次は幕府の札、座の札、船頭の札と増えていくかもしれない。
「荷より札の方が重うなる」
「ほんまや」
白灯が木陰から一歩出ようとした。
「にゃ」
「白灯、待って」
川岸では、見知らぬ荷から匂いを取らせようとする兵もいた。
だが影猫衆は、正体不明の荷を調べる道具ではない。
白灯を毒や薬の試しに使うこともしない。
茶太郎は白灯を抱き上げ、騒ぎから離した。
やがて、薬箱の送り先から使いが来た。
山崎の寺にいる医師だった。
受取人の印を持ち、薬の数も話せる。
三好方の男は、送り印と受取印を大人二人に確かめさせた。
箱の数。
縄の結び目。
封の傷。
どれも記録と合っている。
「今回は通す」
縄が解かれた。
「だが、木沢方の取り決めを三好方の道へ持ち込むことは認めぬ」
荷車が動き出す。
車輪が湿った土へ深い跡を残した。
薬は渡し船へ積まれた。
間に合うかどうかは、まだ分からない。
止められた時間は、《水輪藁紙》へ書き加えられた。
男山へ戻るころには、空が茜色に染まっていた。
善法寺家の門をくぐると、茶丸が駆けてきた。
「……ニャッ」
「白妙は?」
神馬舎を見る。
白妙は敷藁の上に立ち、こちらを見ていた。
傷へ当たる馬具は付けていない。
馬丁が背の様子を確かめたあと、短い時間だけ外へ出していた。
茶丸が白妙のもとへ戻る。
白妙は鼻先で黒い身体を押し、茶丸を自分の胸元へ寄せた。
「仲良うなったなあ」
かん太が笑う。
白灯も近づこうとした。
ふうっ。
白妙の鼻息が飛ぶ。
「にゃっ!」
白灯は今度こそ二歩下がり、茶丸を睨んだ。
「……ニャ」
茶丸は白妙の前脚の間へ座り、得意げに尻尾を巻いた。
その夜。
善法寺家の座敷に、八幡宮の関係者が集まった。
昼の出来事が報告される。
「木沢方の次は三好方か」
神人の一人が吐き捨てる。
「ならば八幡宮の名で、三好の兵を退ければよい」
「それをすれば、三好方は兵を増やす」
善法寺家の男が答えた。
「木沢方も、八幡が三好へ傾いたと見るであろう」
「では、木沢と三好の両方へ札を出すか」
「八幡宮の札が、両者の軍勢を通す札に変わる」
座敷が静まった。
石清水八幡宮には、守らなければならない領分と権威がある。
だがその権威を使って一方を退ければ、もう一方へ味方したと見られる。
「道を結ぶ話を始めたのは、そなたらだったな」
善法寺家の男が茶太郎を見る。
「はい」
「男山へ受け場を置きたいと申した」
「はい。でも、ぼくらの場所にしたいんやありません」
「では、誰の場所にする」
「今ある場所のままです」
「それでは答えにならぬ」
茶太郎は少し考えた。
「八幡宮の中では、八幡宮の人が決める。山崎では、山崎の人が決める。ぼくらは、どこで水が飲めるか、どこで荷を渡せるか、どこが閉まってるかを結ぶだけです」
「八幡の名を付けた札を、伏見や山崎で掲げぬか」
「はい」
「水輪の印を使って、関銭を取らぬか」
「取りません」
「八幡宮の神人や善法寺家を、そなたらの配下のように帳面へ書かぬか」
「書きません」
「神馬を、水輪の荷や行列へ使わぬか」
茶太郎は神馬舎を見た。
白妙のそばで、茶丸が丸くなっている。
「使いません」
「白妙と茶丸が仲良うなったことまで、禁じるつもりはないぞ」
「よかった」
茶太郎が胸を撫で下ろすと、座敷の緊張がわずかに解けた。
善法寺家の男は、しかしすぐ厳しい顔へ戻った。
「ならば、門を一つ定めよう」
「門?」
「誰かを閉め出す門ではない。ここから先は、誰の役目であるかを示す境だ」
男山の《八幡受け場》は、石清水八幡宮と善法寺家が管理する。
水輪は場所を所有しない。
独自の関銭を取らない。
参詣人、神人、商人、武士の荷を同じ帳面へ混ぜない。
水、休息、急病人の知らせ、次の受け場への連絡だけを結ぶ。
荷の中身を改める権限は、それぞれの領分を持つ大人たちが決める。
「それでも木沢方と三好方は争います」
茶太郎が言った。
「そうだ」
「どっちの札が上か、ぼくらには決められません」
「ゆえに、決めるべき者を呼ぶ」
善法寺家の男は、一通の文を座敷へ置いた。
宛先は、京の室町幕府。
石清水八幡宮と足利将軍家の長い縁を通じ、奉行人の立ち会いを求める文だった。
「木沢方も三好方も、幕府と細川殿の政の内にある。それぞれが勝手に境を広げれば、最後には誰の命にも従わぬ道となる」
「幕府が全部決めるん?」
「いや」
男は首を横に振った。
「幕府には、八幡の領分、守護代の領分、街道と川の役目を同じ座敷で確かめてもらう。道そのものを差し出すのではない」
文には、木沢方と三好方にも同じ話を送ると記された。
誰か一人と先に裏で約束しない。
誰か一人へだけ帳面を見せない。
三方が同じ記録を見られる場を作る。
「山崎の者も呼ばねばならぬ」
神人が言った。
「川の向こうを、八幡だけで決めることはできぬ」
「その通りだ」
善法寺家の男は頷いた。
「山崎には山崎の社と神人、商人、船頭がおる。男山だけに荷を集めれば、ここを閉ざされた日に全てが止まる」
茶太郎は地図を開いた。
男山。
川。
山崎。
二つの場所は近い。
けれど、同じ力の下にはない。
「一つにせんでも、結べるかな」
「一つにしてはならぬから、結ぶのであろう」
善法寺家の男が答えた。
夜の神馬舎から、白妙の鼻を鳴らす音が聞こえた。
ぶるるっ。
続いて、茶丸の低い声。
「……ニャ」
白と黒。
同じ色にはならない。
どちらかが、どちらかの物になったわけでもない。
それでも隣にいられる。
茶太郎は地図の男山と山崎へ、それぞれ別の丸を描いた。
二つの丸の間に、一本の線を引く。
翌朝。
幕府へ向かう使者が男山を発った。
同じころ、山崎からも返事が届いた。
『場所は貸せる。
ただし油座の商いと、船頭の仕事へ勝手に入ることは認めぬ』
男山と山崎。
川を挟んだ二つの受け場を結ぶための話し合いが、始まろうとしていた。




