第272話 「白妙の背の黒猫と、二枚の通行札」
――白いから清く、黒いから悪いと、誰が決めたのか――
宇治橋の東へ向かう道中、男山が見えてきた。
空を覆うほど茂った竹林の向こうに、石清水八幡宮の社殿がのぞいている。
風が山肌を下り、湿った土と若い竹の匂いを運んできた。
道の先では、荷車の車輪が止まっていた。
一台。
二台。
三台。
馬の鼻息と、荷運び人の怒鳴り声が重なる。
「また改めか!」
「伏見で札を見せたやろ!」
「その札は八幡の内でしか通じん。ここから先は木沢様の御支配や!」
道端に新しい柵が組まれていた。
太い丸太を横へ渡し、その前に槍を持った兵が立っている。
兵の後ろには、見慣れない印の木札が掛けられていた。
「これが、二枚目の札か」
弥七が低く言った。
荷にはすでに、石清水八幡宮の神人が確かめた札が結ばれている。
だが新しい改め所では、木沢方の通行札を別に買わなければならないという。
「同じ荷を、二回止めるん?」
茶太郎が尋ねる。
「止めるだけやない。二回銭を取るつもりやろな」
かん太が顔をしかめた。
荷車の一つには、乾燥させた茸と米、それに薬の包みが積まれていた。
急ぎの荷であることを示す赤い組紐も付いている。
それでも列は動かない。
「先に、どこで何を確かめとるか見よう」
弥七が言った。
「茶太郎らは柵へ寄るな。馬の後ろにも立つなよ」
「うん」
茶太郎が答えたとき、茶丸が鼻を上げた。
「……ニャッ」
男山の方角から、馬の高いいななきが聞こえた。
ひひん——。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
茶丸の耳が前を向く。
「茶丸?」
「……ニャ」
黒い身体が竹の影へ滑り込んだ。
「待って!」
追いかけようとした茶太郎を、弥七が止める。
「走ったらあかん。人も馬も多い」
茶太郎たちは、荷車を避けながら大人と一緒に坂を上った。
八幡宮の門前へ近づくほど、騒ぎ声が大きくなる。
「降ろせ!」
「神馬の背やぞ!」
「その黒猫、どこのや!」
人垣の向こうに、白い馬が立っていた。
朝の光を浴びた毛並みは、薄い銀色に輝いている。
長い睫毛。
淡い色の鼻先。
磨かれた蹄。
立派な馬だった。
だが、その真っ白な背の上に——。
「茶丸!」
黒猫が香箱を組んで座っていた。
「……ニャ」
茶丸は一度だけ茶太郎を見た。
それから何事もなかったように目を細める。
「何してるん!」
茶太郎の声が裏返った。
白い神馬の周りでは、神人と馬丁が困り果てている。
「追い払おうとすると、この白妙が暴れるんや」
若い馬丁が手綱を握ったまま言った。
「猫だけ捕まえられへんのか」
「無理に手ぇ伸ばしたら、白妙が耳を伏せる。蹴られたら終わりや」
白妙と呼ばれた神馬は、前脚で地面を掻いた。
ざっ。
乾いた土が飛ぶ。
けれど、茶丸を振り落とそうとはしない。
むしろ何度も首を曲げ、背の黒猫を確かめている。
「不吉や」
人垣の中から声が上がった。
木沢方の印を付けた役人だった。
「八幡の白き神馬へ、どこのものとも知れぬ黒猫が乗る。山城の道が乱れておる徴ではないか」
「黒いだけで?」
茶太郎が振り返る。
役人は六歳の子どもに見返され、眉を寄せた。
「黒は闇の色。白き神馬とは相容れぬ」
「茶丸は悪い猫やない」
「飼い主なら、すぐ降ろせ」
「ぼくの言うこと、何でも聞くわけやないもん」
「飼い主ではないのか?」
「仲間です」
役人が言葉に詰まった。
白灯が人垣の端から顔を出す。
「にゃっ」
同じ白い者を見つけたからか、尻尾を高く立てて白妙へ近づこうとする。
「白灯は待って」
茶太郎は抱き上げようとしたが、白灯はするりと腕を抜けた。
白妙の前へ座る。
「にゃ」
白妙が鼻先を近づける。
ふうっ。
強い鼻息で、白灯の頭巾がめくれた。
「にゃっ!」
白灯は驚いて尻餅をつく。
白妙の背から、茶丸が見下ろした。
「……ニャ」
得意そうだった。
「笑ってる場合やないよ!」
だが茶丸は降りない。
前脚を伸ばし、白妙の背を二度叩いた。
とん。
とん。
「そこに何かあるん?」
茶太郎が馬丁へ尋ねる。
「触って確かめて」
「子どもが馬へ近づくな」
馬丁はすぐ答えた。
「白妙を押さえる。ほかの者も下がってくれ」
人垣が離され、馬を扱い慣れた者だけが残った。
弥七も茶太郎たちを十分に下がらせる。
馬丁は白妙の呼吸と耳の向きを確かめ、ゆっくり手を背へ伸ばした。
「茶丸、少し前へ行ける?」
「……ニャ」
茶丸は鬣の方へ移った。
白妙の背には、儀式用の白い敷物が載せられている。
馬丁が紐を緩め、敷物を外した。
「これは……」
毛の下に赤い擦り傷があった。
敷物を留める金具の一つが割れ、尖った先が内側へ曲がっていた。
歩くたび、白妙の背へ食い込んでいたのだ。
「いつからや」
年嵩の馬丁が若い者へ尋ねる。
「今朝、道具を付けたときには……」
「見たんか?」
「急いでいて、手で撫でただけです」
「それは見たとは言わん」
年嵩の馬丁は金具を布で包み、大人へ渡した。
傷は深くなかったが、毛の間に汗が溜まり、熱を持っている。
白妙が落ち着かなかったのは、猫を嫌ったからではない。
背が痛かったからだ。
茶丸は傷の上へ座り、人に知らせようとしていた。
「黒猫が神馬を穢したのではない」
静かな声がした。
人垣が左右へ分かれる。
現れたのは、白い小袖に薄墨色の衣を重ねた男だった。
善法寺家の者だという。
「人が見落とした痛みを、この猫が見つけたのであろう」
木沢方の役人が口を結ぶ。
「されど、神馬の背へ猫が乗るなど、前例がございませぬ」
「前例がなければ、痛みを知らせた働きまで無かったことになるのか?」
「それは……」
「神意と決めつける必要もない。ただ、傷があり、猫がそこを示し、馬丁が確かめた。それだけのことだ」
茶太郎は、その言葉に深く頷いた。
白いから清い。
黒いから悪い。
そんな決め方をしていたら、白妙の痛みは見つからなかったかもしれない。
馬丁が傷を水で洗い、清潔な布を当てる。
薬を使うかどうかは、馬の扱いに詳しい者が決めた。
茶太郎は近づかず、邪魔にならない場所で待った。
茶丸だけが、白妙の首近くに残っている。
白妙が鼻を鳴らした。
ぶるるっ。
温かい息が、茶丸の髭と額の毛を揺らす。
「……ニャ」
茶丸は目を細め、白い鬣へ額を押しつけた。
手当てが終わると、茶丸は地面へ飛び降りた。
白妙は一歩進み、黒猫の前で止まる。
そして長い首を低くした。
「乗れ言うてるんかな」
かん太が囁く。
「勝手に決めたらあかん」
茶太郎は馬丁を見た。
馬丁は白妙の耳、脚、呼吸をもう一度確かめた。
「背の傷へ触れへんよう、首の近くまでや。走らせん。すぐ降ろす」
茶丸は前脚から肩へ上がり、白妙の首の付け根へ座った。
馬丁に引かれ、白妙がゆっくり歩き出す。
こつ。
こつ。
白い背の上で、黒い尻尾が揺れた。
参詣に来ていた子どもたちから、笑い声がこぼれる。
白灯も後を追った。
「にゃっ、にゃっ」
「白灯は歩こな」
「にゃあ……」
不満そうだが、白妙は振り返らない。
善法寺家の男が、茶太郎へ尋ねた。
「そなたが、伏見と宇治の道を結んでおる子か」
「ぼくだけやありません。茶屋の人とか、お寺の人とか、荷を運ぶ人とか……みんなです」
「では、なぜ男山へ来た?」
「堺から来る荷を、伏見へ安全に渡せる場所が要るからです。ここを、ぼくらの物にしたいんやない。次へ渡す場所を借りられへんか、お願いに来ました」
男は目を細めた。
「その話なら、聞かねばなるまい。ただし——」
その視線が、坂の下へ向く。
木沢方の役人が、二枚の木札を手に立っていた。
一枚には、石清水八幡宮の印。
もう一枚には、木沢方の印。
「八幡の内へ入る荷に、守護代方が新たな札を求めておる」
善法寺家の男の声が低くなる。
「道を守るためと申すが、誰が、どこまで荷を改めるのか。その境が曖昧になっている」
役人が一歩進んだ。
「木沢左京亮様は、河内と山城の乱れを鎮めるために動いておられる。通る荷を確かめるは、守護代の務めにございます」
「八幡の社領へ入る荷までか?」
空気が張り詰めた。
さっきまで笑っていた者たちが、口を閉ざす。
茶太郎は二枚の札を見た。
同じ荷。
同じ道。
けれど、止める者が二人いる。
「薬の荷も、二回止まってました」
茶太郎が言った。
役人が見下ろす。
「だから何だ?」
「誰の権利が上かは、ぼくには決められへん。でも、止まった時間と、払った銭と、届かなかった物なら数えられます」
善法寺家の男が、わずかに笑った。
「ならば数えてもらおう」
役人の目が鋭くなる。
「その帳面、木沢様にも見せてもらう」
白妙の蹄が止まった。
その背で茶丸が目を開く。
「……ニャッ」
男山で始まったのは、白馬と黒猫の友情だけではなかった。
石清水八幡宮の札。
木沢長政の札。
二枚の通行札の間で、薬と食を止めないための話し合いが始まろうとしていた。




