第271話 「閉まった茶屋と、休んでも切れない道」
――人を休ませない道は、いつか人ごと途切れる――
青い羽の札が、裏返っていた。
昨日までは街道へ向けて掛けられていたのに、今日は戸口の壁を向いている。
茶屋の戸も、固く閉ざされていた。
「おかしいな」
かん太が戸口を覗く。
「昨日は開いとったんやろ?」
「うん。シオもここで水を飲んだ」
茶太郎は、戸を叩こうとして手を止めた。
軒下に人の気配はない。
土間へ続く足跡も、今朝ついたものは一つだけだった。
「……ニャッ」
茶丸が家の裏手へ目を向ける。
白灯は戸口から離れ、街道の先を見張った。
影猫衆は家へ忍び込まない。
誰かが倒れていると決めつけることも、店を捨てたと決めつけることもしない。
「隣に聞こか」
弥七が近くの畑へ向かった。
畦では、年老いた女が豆の蔓を支柱へ結んでいた。
「あの茶屋のお峰さん、今日は休みですか」
弥七が尋ねると、女の手が止まった。
「休みやない。寝込んどる」
「病か?」
「昨日の夕方、店先で立てんようになったんや。姪が医者を呼んで、今は奥で寝かせとる」
茶太郎の胸がきゅっと縮んだ。
お峰は六十を越えた女だった。
夫を亡くしてから一人で茶屋を守り、ときどき姪が手伝いに来る。
青羽便の休み場になってからは、人へ湯を出し、鳩へ水を用意し、札を確かめ、通った時刻まで記していた。
「仕事、増えてたんや……」
「羽の札を受けたからには、閉めたらあかん言うてな」
畑の女は眉を寄せた。
「朝暗いうちから湯を沸かして、夜まで戸を開けとった。しんどいなら休め言うても、道を止められん、の一点張りや」
弥七の顔が険しくなった。
「誰が、休むな言うた?」
「誰も言うてへん。せやから余計に、お峰さんが勝手に背負うたんやろ」
医師が診ている間、茶太郎たちは家の外で待った。
煮炊きの煙は上がらない。
いつもなら香る番茶の匂いもなかった。
軒先の風鈴だけが、乾いた音を鳴らしている。
やがて医師が出てきた。
「熱と疲れや。しばらく店は開けさせるな。水は少しずつ飲めとる。食べられるようになったら、家の者が柔らかい物を用意する」
「ぼくが何か——」
「今日は要らん」
医師は茶太郎を見た。
「見舞いの者が増えたら、それも休めん原因になる。静かにさせてやれ」
「……はい」
茶太郎は戸口へ頭を下げ、それ以上近づかなかった。
問題は、お峰を急いで店へ戻すことではない。
閉まった一軒の前で、青羽便をどうするかだった。
その日、堺から来た青灰色のアオバトが上空を二度回った。
休み場の目印は見えている。
だが、人がいない。
鳩は勝手に知らない庭へ下りないよう仕込まれていた。
「このままやと、次まで飛ばすことになる」
かん太が空を見上げる。
「腹はともかく、水なしはあかん」
弥七が携えていた合図布を広げ、鳩の扱いに慣れた使番を呼んだ。
使番は青羽の合図を出し、鳩を街道脇の空き地へ導いた。
茶太郎たち子どもは近づかず、離れた場所から見守る。
鳩には塩気のない穀粒と新しい水が与えられた。
文の送り印も、大人二人で確かめた。
「今日は助かった」
弥七が言う。
「せやけど、毎回たまたま使番がおるとは限らん」
茶太郎は裏返った青い羽の札を見た。
「札が、一つしかないのがあかんかったんや」
「開いとる印やろ?」
「うん。でも、閉まってる理由も、次にどこへ行けばええかも分からへん」
伏見へ戻ると、《縁扉》の前で話し合いが開かれた。
茶屋の者。
寺の僧。
荷運び人。
青羽便の使番。
それに、街道沿いで小さな商いをする女たちも加わった。
「休み場なら、いつでも開けるんが役目やろ」
一人の荷運び人が言った。
「閉まっとったら困る」
「困るからって、一人を倒れるまで働かせたら、ずっと閉まることになるよ」
茶太郎は答えた。
「ほな、誰が代わる?」
すぐには手が上がらなかった。
湯を沸かす。
水桶を洗う。
鳩へ塩のない餌を用意する。
送り印を確かめる。
時刻を残す。
一つ一つは小さくても、毎日続けば重い。
そこで役目を分けた。
お峰の茶屋は、人が休む茶屋だけに戻す。
青羽便の水と穀粒は、近くの寺が日の高いうちだけ預かる。
寺が閉じる刻以後は、街道脇の大返し場へ回す。
どちらも使えない日は、その一つ手前の休み場で鳩を先へ出さない。
「遠回りになるで」
「遠回りでも、休める場所が分かってる方がええ」
茶太郎は言った。
「着くかどうか分からん道より、遅れても着ける道にしたい」
新しい札も作られた。
表には、青い羽。
今、受けられる印。
裏には、羽を休める丸い巣。
今日は休みという印。
札の下には、次の受け場を示す絵札を一枚だけ掛ける。
寺なら釣鐘。
大返し場なら車輪。
字が読めない者にも、行き先が分かるようにした。
「閉めるときまで仕事させるんか?」
年老いた女が尋ねた。
「急に病気になったら、札なんか返されへんやろ」
「そのときは、隣の受け場が確かめに来る」
弥七が答えた。
「来んかったことを責めるんやない。来られへんと分かった時点で、道を切り替える」
さらに、受け場ごとに正と副を決めた。
正の場所が休めば、副へ回す。
両方が使えなければ、前の受け場で止める。
誰かが無理をして、黙って繋ぐことは禁止された。
青羽便の帳面には、届いた時刻だけでなく、
『休み』
『副へ回した』
『前で止めた』
も記すことになった。
数日後。
お峰の茶屋は、まだ閉まっていた。
けれど、青い羽の札の裏には、丸い巣が描かれている。
その下で、釣鐘の絵札が風に揺れていた。
シオが上空を一度回り、迷わず寺の方角へ進む。
鐘楼の下では、使番と僧が待っていた。
水。
塩気のない穀粒。
日陰の止まり木。
どれも、用意した者が帳面へ記してある。
茶太郎は遠くから、その様子を見届けた。
「道、切れへんかったな」
かん太が笑う。
「うん」
「お峰さんがおらんでも」
茶太郎は首を横に振った。
「お峰さんがおらんでも、やないよ」
閉ざされた茶屋の軒先から、風鈴の音が届く。
「お峰さんが休めたから、道が続いたんや」
道を守る者も、道の一部だ。
水桶や木札のように、壊れるまで使ってよいものではない。
《縁扉》には、新しく丸い巣の印が加えられた。
それは途切れの印ではない。
人が休みながら、次の人へ役目を渡せた印だった。
そして巣の印をたどるうち、茶太郎は一つの空白に気づいた。
伏見から宇治へ向かう道。
人の休み場はある。
荷の休み場もある。
だが川を渡った先に、青羽便を受ける副の場所がない。
「次は、ここや」
茶太郎が指したのは、宇治橋の東。
朝日山の麓へ続く道だった。




