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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
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第268話 「紙を作った黒い水と、流さない約束」

――安い物にも、誰かが払っている値段がある――


「これ、川へ流したらあかん」


 お滝の声は、はっきりしていた。


 《水輪藁紙》を作った翌朝。


 紙漉き場の裏には、三種類の水が残っていた。

 藁を灰汁で煮た、茶褐色の濁った水。

 最初に藁を洗った、黄色い水。

 最後のすすぎに使った、比較的澄んだ水。


「全部、同じ汚れた水やないの?」


 茶太郎が尋ねた。


「違う」


 お滝が桶を指す。


「一番あかんのは、こっちや」


 煮たあとの水。

 鼻を近づけなくても、灰と煮藁の重たい匂いがする。


「触ったら?」


「触るな」


「はい」


 茶太郎の手が即座に引っ込んだ。

 白灯あかりも桶へ近づこうとする。


「白灯も」


「にゃ……」


 お滝は子どもと猫を縄の外へ出した。


「紙だけ見とったら、ようできた話や。今まで余っとった藁が紙になった。子どもが何べんでも字ぃ書ける」


 それから濁った桶を見る。


「せやけど、そのたびに川へこれ流しとったら?」


 茶太郎は宇治川を思い出した。


 うじまる。

 河童たち。

 魚。

 田畑へ水を引く人。

 川下で水を汲む人。


「……紙を作るほど、川が困る」


「せや」


 ちょうどその日、寺から文が届いた。


『水輪藁紙、もう少し欲しい。

 手習いの子が十一人になった』


 茶太郎なら喜ぶはずの知らせだった。

 だが、その文を読んでも笑えなかった。


「いっぱい作ったらあかんの?」


 六助が聞く。


「今は、あかん」


「欲しい人おるのに?」


「作ったあとの水をどうするか決まってへん」


 茶太郎は紙と桶を交互に見た。


「紙だけ安くても、水がその代わりに汚れたら、ほんまに安いことにならへん」


 お滝が少し目を細めた。


「六つの子にしては、ええこと言うな」


「六つ関係ある?」


「ある」


「ないと思う」


 まず、何がどれだけ出るのか調べることになった。


 茶太郎たち子どもは、液そのものには触れない。

 桶へ木札を掛けるだけ。


 黒い二本線。

 黄色い一本線。

 澄んだ丸。


「混ぜたらあかんの?」


「混ぜたら、どれがどれだけ汚れとったか分からんようになる」


 お滝が答える。


 それは金物の選別と同じだった。

 分からない物を全部一緒にしない。

 混ぜる前に、正体を知る。


「一緒やな」


 六助が言いかけたような顔をしたが、もちろんそんな言葉は口には出さなかった。


 甚八じんぱちが木桶と樋を調べる。


「水を使うたび捨てるから増えるんやろ」


「せやけど、洗わんわけにはいかん」


「ほな、きれいな方から使い回せへんか」


 お滝が振り返った。


「どういうことや?」


「最後にすすいだ水は、まだましなんやろ?」


「ああ」


「次の藁の、最初の洗いに回す」


 全部を新しい水で始めない。

 比較的澄んだすすぎ水を取っておき、次の粗洗いへ回す。


 そこで使った水は、さらに汚れの強い側へ分ける。

 繊維が混じった水は、すぐ捨てず桶で静かに置いた。

 底へ沈んだ繊維は、お滝が回収する。


「紙になるもんまで流してたんやな」


「ちょっとずつやけどな」


 茶太郎は目を輝かせた。


「水も繊維も、もう一回使える」


「全部やないで」


 お滝が釘を刺す。


「何でも『もう一回』言うたらええんと違う。使えるか確かめてからや」


「はーい」


 一番濃い煮汁だけは別だった。

 再び紙漉きへ使えるのか。

 どれほど力が残っているのか。

 今の道具では正確には分からない。


「ほな、分からん物は?」


 甚八が聞く。


 茶太郎が答えた。


「使わへん。流さへん。分けて置いとく」


 濃い液を入れる桶には蓋をした。

 縄を二重に張る。


 子どもは近づかない。

 井戸、厨房、家畜の水場からも離す。

 量が増えすぎるなら——紙作りそのものを止める。


「止めるんか?」


 六助が驚いた。


「うん」


「せっかく売れそうやのに」


「売れるから止められへん、になったら怖いやん」


 お滝が笑った。


「そら商人に嫌われる考えや」


「でも川に嫌われるよりええ」


 その日の試し漉きは、前より少ない量で行った。


 使った水の桶数を数える。

 再び使った水には別の札。

 新しい水にも札。


 どこから来て、どこへ行ったか。

 千代が帳面へ記す。


 《水の行き先帳》。


 紙を何枚作ったかだけではない。


 そのために藁をいくら使ったか。

 灰をいくら使ったか。

 水をいくら使ったか。

 残った濁りはいくらか。


 そこまで書いて初めて、一回の紙作りと数えることにした。


「紙の帳面作るために、水の帳面までできたな」


 甚八が笑う。


「帳面が帳面を呼んどる」


「その帳面に使う紙なくなったらどうするん?」


 六助が聞く。


 一同が黙った。

 お滝が吹き出した。


「そこは上等な紙使え!」


 紙漉き場に笑い声が広がった。


 数日後。


 できた《水輪藁紙》が寺へ届いた。

 前より少しだけ表面が揃っている。


 けれど黄色い。

 やっぱり墨は少し滲む。

 子どもたちは気にしなかった。


「今日は『川』や!」


 恵信えしんが手本を書く。


 一画目。

 二画目。

 三画目。


 お菊の一枚目は曲がった。


「失敗!」


 二枚目。


「また失敗!」


 三枚目。


「できた!」


 笑い声が本堂脇まで響く。

 失敗した紙は捨てない。

 乾かして裏も使う。

 小さく切れば、計算や字の確認にも使える。


 最後まで使った物だけを、次の漉き返しへ回せるかお滝が確かめる。


 《水輪宿紙》と《水輪藁紙》。


 古い紙から生まれる紙。

 藁から生まれる紙。

 けれど、どちらにも、


『何にでも使える』


 とは書かなかった。


 茶太郎は寺の縁側で、子どもたちの手元を見つめた。


 墨の匂い。

 ざらざらした紙を筆が擦る音。

 庭から漂ってくる乾いた藁の匂い。


 遠くでは、さらさらと水が流れている。


「この音、なくしたらあかんな」


 茶太郎が呟いた。

 恵信が横に座る。


「川の音か?」


「うん」


 学べる子どもが増えるのは嬉しい。

 紙が安くなるのも嬉しい。

 でも、その嬉しさを川下の誰かへ押しつけてはいけない。


 その夜。


 《水の行き先帳》へ、新しい決まりが加えられた。


『流した先が分からぬ物は、流さない』


『捨て方が決まるまで、生産を増やさない』


 そしてもう一つ。


『水を使う仕事は、川下の者にも知らせる』


 それを読んだ弥七やしちが、顔を上げた。


「茶太郎。これ、紙屋だけの話やないぞ」


「え?」


「染物屋も、鍛冶屋も、酒屋も、いろんな仕事が水を使う」


 茶太郎は黙った。


 一軒の紙漉き場だけ水を守っても、川全体が守られるわけではない。


 その翌朝。


 影猫衆の茶丸が、伏見の水路脇で足を止めた。


「……ニャッ」


 白灯あかりも鼻を近づけ——すぐ顔を背ける。


「にゃっ!」


 水面に、うっすら青黒い色が流れていた。


 上流には染物を扱う仕事場が並んでいる。


 紙から出た黒い水を止めた茶太郎たちの前へ——。

 今度は、誰かが流した「青い水」がやってきた。


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『茶太郎がゆく』
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