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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
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第264話 「二つ目の返し路と、海へ行かない茶太郎」

――遠くへ行くことだけが、道を広げることではない――


 濡れた割符を見ても、千早ちはやは喜ばなかった。


「誰から受け取った」


 さっきまで《心太の餡蜜》を巡って海結姫みゆひめと笑っていた顔が、一瞬で海燕衆かいえんしゅうの頭領へ戻る。


 使いの男が答えた。


「今朝、南から入った小舟や。沖で海燕の旗を見て寄ってきた」


「船の名は」


「《白梢》」


「船頭は?」


真砂まさごいう男や」


「積み荷は?」


「干した魚、椰子縄、それに貝が少し。詳しい荷改めはまだや」


「なら、二つ目と決めるな」


 千早は割符を机へ置いた。


「似た札を持っとるだけかもしれへん」


 男が口を閉じた。

 茶太郎は、そのやり取りを黙って見ていた。


 柳生で消えた荷札も。

 丹波から出た海の甕も。

 印だけで正体を決めれば、間違える。


「割符、合わへんの?」


 茶太郎が尋ねた。


「形は合いそうや」


「ほな、ほかも見るんやね」


「そういうことや」


 千早は頷いた。


 海燕衆が保管していた古い半割と合わせる。

 欠け目は一致した。

 だが、それだけでは終わらない。


 紐の結び方。

 色の順。

 どの港から、どの島を経て来たのか。

 誰から札を預かったのか。

 途中で何を失い、何を積み替えたのか。


 一つずつ、別々に確かめていった。


 《白梢》の船頭、真砂も呼ばれた。

 日に焼けた四十ほどの男だった。


「この札は、父から受け継いだ」


「父の名は」


「磯丸」


 千早が古い帳面をめくる。

 名前があった。

 ただし、横には小さく、


『一度、船を失う』


 と記されている。


「船を失うたんか」


「ああ。せやから今の《白梢》は三代目や」


「同じ船が二十年かけて帰ってきたんやないんやね」


 茶太郎が言う。

 真砂は笑った。


「そんな船、とうに朽ちとる。残ったんは、道と約束だけや」


 二十年前に散った五艘。

 船そのものが帰ってくるのではない。


 生き残った者が道を伝え、その子や仲間が、少しずつ途切れた区間を繋ぎ直してきた。


「今度の道は、どこまで繋がったん?」


「南の島々を渡って、さらに向こうの海までや」


 真砂は答えたが、それ以上を大袈裟に語らなかった。

 知らない海を、知ったふりはしない。

 千早も地図へ一本の太い線を引くことはしなかった。

 確かめられた港と港の間だけに、短い線を記した。


「まだ二つ目の道が戻ったとは書けへん」


「割符も合ったのに?」


「海から来た話が一つしかない」


 千早は言った。


「別の便が同じ道を通って、同じ返し場を確かめてからや」


 茶太郎は嬉しくなった。


「五路返しと一緒や」


「陸だけの知恵や思うたか?」


「思ってへんよ」


「今ちょっと思った顔しとった」


「してへん」


 海結姫が横から口を挟んだ。


「してた」


「姫まで!」


 店先に笑い声が広がった。

 だが、千早は次に思いがけないことを言った。


「茶太郎」


「うん?」


「この道が確かめられたら、一度乗ってみるか」


 茶太郎の目が輝いた。


「海の向こうへ?」


「ああ。南の——」


「駄目や」


 弥七やしちの声が飛んできた。


 早かった。


「まだ何も言うてへんで」


「言う前から分かる」


 かん太も腕を組んだ。


「六つやぞ」


「六つでも料理できるよ」


「海が荒れたら料理で止められるんか?」


「……止められへん」


「病気になったら?」


「お医者さんがおらんところもある」


「船が壊れたら?」


「船乗りさんに任せる」


「ほな、今のお前が行かなあかん理由は?」


 茶太郎は黙った。


 行ってみたい。

 見たことのない島。

 知らない食べ物。

 知らない人。

 海の向こうに何があるのか、自分の目で確かめたい。


 その気持ちは本物だった。

 けれど——。


 茶太郎は、お浜の店先に掛かったばかりの木札を見た。


 水。

 飯。

 休み場所。

 医師。

 荷車。

 文。


 まだ一枚しかない。


「……ぼく、行かん」


 千早が目を細めた。


「怖いか?」


「怖い」


 茶太郎は正直に答えた。


「でも、それだけやない」


 木札を指す。


「千早さんたちは海の道を知ってる。真砂さんたちも知ってる。海結姫も、潮の変わるところを見つけられる」


「うん」


「ぼくが行っても、海のことはその人たちより分からへん」


 茶太郎は今度は陸の方を指した。


「ぼくは、こっちを繋ぐ」


 港へ届いた荷を、どこへ渡すか。

 海から届いた文を、誰が運ぶか。

 傷んだ船乗りが、どこで休むか。

 必要な薬や食べ物を、どうやって港まで送るか。


 海燕衆が海を伸ばすなら、水輪は陸を結べばいい。


「全部、自分で行かんでもええんや」


 茶太郎は言った。


「行ける人と、行ける場所を結んだらええ」


 千早はしばらく茶太郎を見ていた。


 やがて笑った。


「そら助かる」


「怒らへんの?」


「なんでや」


「誘ったのに」


「六つの子ぉを南の海へ連れてったら、うちがお母はんに殺される」


「最初から連れてく気なかったん!?」


「半分な」


「半分もあったん!?」


 弥七の顔が怖くなる。


「千早」


「冗談や! その顔やめぇ!」


 海結姫が腹を抱えて笑った。


 その日の夕方、《返し茶屋》に最初の帳面が置かれた。

 海燕衆の船が着いた日。

 船の名。

 必要とした物。

 水を得た場所。

 次に向かう陸路。

 預かった文の数。


 そして、分からなかったこと。

 成功だけではなく、困ったことも残す。

 お浜は帳面を見てため息をついた。


「これ、うちが全部書くん?」


「書けへん日は印だけでもええよ」


「字ぃ苦手な人は?」


「絵と印にしよう」


「忙しい日は?」


「あとで分かるように、木札を箱へ入れとく」


「銭は?」


「そこが一番大事やな」


 千早が笑った。


 ただ働きでは続かない。

 そこで海燕衆は、文や小荷物を預けるときに少額の取次銭を払うことにした。


 心太や飯は食べた者が払う。

 水は井戸ごとの決まりに従う。

 医師への支払いへ、返し茶屋が勝手に口を挟まない。


 役目も銭も、一か所へ集めない。

 それが最初の決まりになった。


 日暮れ前。

 一人の荷車引きが木札の前で立ち止まった。


「これ、ええな」


「何が?」


 お浜が聞く。


「伏見へ行く途中の茶屋にも欲しいわ。船から荷預かっても、次どこで休めるか毎回聞かれるんや」


 茶太郎が振り向いた。


「茶屋、あるん?」


「あるで。小さいけどな。婆さんと娘でやっとる」


「井戸は?」


「ある」


「荷車、停められる?」


「二台くらいなら」


「文は預かれる?」


「それは聞いてみんと分からんな」


 茶太郎の顔が明るくなった。


 まだ二つ目の海路は、確定していない。


 けれど陸では——。


 一軒しかなかった《返し茶屋》から、早くも次の一軒へ繋がる道が見え始めていた。


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『茶太郎がゆく』
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