第264話 「二つ目の返し路と、海へ行かない茶太郎」
――遠くへ行くことだけが、道を広げることではない――
濡れた割符を見ても、千早は喜ばなかった。
「誰から受け取った」
さっきまで《心太の餡蜜》を巡って海結姫と笑っていた顔が、一瞬で海燕衆の頭領へ戻る。
使いの男が答えた。
「今朝、南から入った小舟や。沖で海燕の旗を見て寄ってきた」
「船の名は」
「《白梢》」
「船頭は?」
「真砂いう男や」
「積み荷は?」
「干した魚、椰子縄、それに貝が少し。詳しい荷改めはまだや」
「なら、二つ目と決めるな」
千早は割符を机へ置いた。
「似た札を持っとるだけかもしれへん」
男が口を閉じた。
茶太郎は、そのやり取りを黙って見ていた。
柳生で消えた荷札も。
丹波から出た海の甕も。
印だけで正体を決めれば、間違える。
「割符、合わへんの?」
茶太郎が尋ねた。
「形は合いそうや」
「ほな、ほかも見るんやね」
「そういうことや」
千早は頷いた。
海燕衆が保管していた古い半割と合わせる。
欠け目は一致した。
だが、それだけでは終わらない。
紐の結び方。
色の順。
どの港から、どの島を経て来たのか。
誰から札を預かったのか。
途中で何を失い、何を積み替えたのか。
一つずつ、別々に確かめていった。
《白梢》の船頭、真砂も呼ばれた。
日に焼けた四十ほどの男だった。
「この札は、父から受け継いだ」
「父の名は」
「磯丸」
千早が古い帳面をめくる。
名前があった。
ただし、横には小さく、
『一度、船を失う』
と記されている。
「船を失うたんか」
「ああ。せやから今の《白梢》は三代目や」
「同じ船が二十年かけて帰ってきたんやないんやね」
茶太郎が言う。
真砂は笑った。
「そんな船、とうに朽ちとる。残ったんは、道と約束だけや」
二十年前に散った五艘。
船そのものが帰ってくるのではない。
生き残った者が道を伝え、その子や仲間が、少しずつ途切れた区間を繋ぎ直してきた。
「今度の道は、どこまで繋がったん?」
「南の島々を渡って、さらに向こうの海までや」
真砂は答えたが、それ以上を大袈裟に語らなかった。
知らない海を、知ったふりはしない。
千早も地図へ一本の太い線を引くことはしなかった。
確かめられた港と港の間だけに、短い線を記した。
「まだ二つ目の道が戻ったとは書けへん」
「割符も合ったのに?」
「海から来た話が一つしかない」
千早は言った。
「別の便が同じ道を通って、同じ返し場を確かめてからや」
茶太郎は嬉しくなった。
「五路返しと一緒や」
「陸だけの知恵や思うたか?」
「思ってへんよ」
「今ちょっと思った顔しとった」
「してへん」
海結姫が横から口を挟んだ。
「してた」
「姫まで!」
店先に笑い声が広がった。
だが、千早は次に思いがけないことを言った。
「茶太郎」
「うん?」
「この道が確かめられたら、一度乗ってみるか」
茶太郎の目が輝いた。
「海の向こうへ?」
「ああ。南の——」
「駄目や」
弥七の声が飛んできた。
早かった。
「まだ何も言うてへんで」
「言う前から分かる」
かん太も腕を組んだ。
「六つやぞ」
「六つでも料理できるよ」
「海が荒れたら料理で止められるんか?」
「……止められへん」
「病気になったら?」
「お医者さんがおらんところもある」
「船が壊れたら?」
「船乗りさんに任せる」
「ほな、今のお前が行かなあかん理由は?」
茶太郎は黙った。
行ってみたい。
見たことのない島。
知らない食べ物。
知らない人。
海の向こうに何があるのか、自分の目で確かめたい。
その気持ちは本物だった。
けれど——。
茶太郎は、お浜の店先に掛かったばかりの木札を見た。
水。
飯。
休み場所。
医師。
荷車。
文。
まだ一枚しかない。
「……ぼく、行かん」
千早が目を細めた。
「怖いか?」
「怖い」
茶太郎は正直に答えた。
「でも、それだけやない」
木札を指す。
「千早さんたちは海の道を知ってる。真砂さんたちも知ってる。海結姫も、潮の変わるところを見つけられる」
「うん」
「ぼくが行っても、海のことはその人たちより分からへん」
茶太郎は今度は陸の方を指した。
「ぼくは、こっちを繋ぐ」
港へ届いた荷を、どこへ渡すか。
海から届いた文を、誰が運ぶか。
傷んだ船乗りが、どこで休むか。
必要な薬や食べ物を、どうやって港まで送るか。
海燕衆が海を伸ばすなら、水輪は陸を結べばいい。
「全部、自分で行かんでもええんや」
茶太郎は言った。
「行ける人と、行ける場所を結んだらええ」
千早はしばらく茶太郎を見ていた。
やがて笑った。
「そら助かる」
「怒らへんの?」
「なんでや」
「誘ったのに」
「六つの子ぉを南の海へ連れてったら、うちがお母はんに殺される」
「最初から連れてく気なかったん!?」
「半分な」
「半分もあったん!?」
弥七の顔が怖くなる。
「千早」
「冗談や! その顔やめぇ!」
海結姫が腹を抱えて笑った。
その日の夕方、《返し茶屋》に最初の帳面が置かれた。
海燕衆の船が着いた日。
船の名。
必要とした物。
水を得た場所。
次に向かう陸路。
預かった文の数。
そして、分からなかったこと。
成功だけではなく、困ったことも残す。
お浜は帳面を見てため息をついた。
「これ、うちが全部書くん?」
「書けへん日は印だけでもええよ」
「字ぃ苦手な人は?」
「絵と印にしよう」
「忙しい日は?」
「あとで分かるように、木札を箱へ入れとく」
「銭は?」
「そこが一番大事やな」
千早が笑った。
ただ働きでは続かない。
そこで海燕衆は、文や小荷物を預けるときに少額の取次銭を払うことにした。
心太や飯は食べた者が払う。
水は井戸ごとの決まりに従う。
医師への支払いへ、返し茶屋が勝手に口を挟まない。
役目も銭も、一か所へ集めない。
それが最初の決まりになった。
日暮れ前。
一人の荷車引きが木札の前で立ち止まった。
「これ、ええな」
「何が?」
お浜が聞く。
「伏見へ行く途中の茶屋にも欲しいわ。船から荷預かっても、次どこで休めるか毎回聞かれるんや」
茶太郎が振り向いた。
「茶屋、あるん?」
「あるで。小さいけどな。婆さんと娘でやっとる」
「井戸は?」
「ある」
「荷車、停められる?」
「二台くらいなら」
「文は預かれる?」
「それは聞いてみんと分からんな」
茶太郎の顔が明るくなった。
まだ二つ目の海路は、確定していない。
けれど陸では——。
一軒しかなかった《返し茶屋》から、早くも次の一軒へ繋がる道が見え始めていた。




