第263話 「海の姫と、甘い心太」
――海を結ぶなら、まず人が休める岸を作る――
海結姫との約束を果たすため、茶太郎たちは船を降りた。
「船の上で作らへんのか?」
千早が尋ねる。
「揺れるところで火を使うより、岸で作った方がええやろ?」
六歳の茶太郎が答えると、千早は少しだけ悔しそうな顔をした。
「……うちより船乗りらしいこと言うな」
「そこは悔しがるところなん?」
海結姫が笑った。
堺の船着き場から少し離れたところに、心太を商う小さな店があった。
店を切り盛りしているのは、お浜という女だった。
夫を海で亡くしてから、一人で心太や湯漬けを売って暮らしている。
「甘い心太?」
お浜は腕を組んだ。
「酢醤油や辛子なら出すけど、そないな食べ方は知らんなあ」
「ぼくも、まだ食べたことない」
「ほな、なんで作ろう思たんや」
「海のお姫さんが、普通の魚や貝じゃない物を食べたいって」
お浜が海結姫を見る。
海結姫は、にこにこと座っていた。
「わたし、魚は毎日見てるから」
「そら飽きるか」
お浜は妙に納得した。
ただし、茶太郎が火へ近づくことは許されなかった。
小豆を煮るのも、心太を作るのも、お浜とかん太たち大人の仕事だ。
茶太郎が考えるのは、組み合わせと量だけだった。
まず、いつもの心太を一皿。
次に、冷ました湯へ少量の蜜を溶いたもの。
さらに、柔らかく煮た小豆へ少しだけ蜜を加えたもの。
「いきなり全部混ぜたら、何がうまかったか分からんから」
「料理でも分けて試すんやな」
千早が呆れる。
「船もちゃうの?」
「……船もや」
三つの小鉢が並んだ。
海結姫は最初に、いつもの心太をすすった。
「知ってる味」
二つ目。
蜜だけをかけた心太。
「甘い。でも、ちょっと寂しい」
三つ目。
冷たい心太へ、小豆を添え、上から蜜を細く垂らす。
海結姫は一口食べた。
止まった。
「…………」
千早が眉を寄せる。
「まずいんか?」
海結姫は、もう一口食べた。
そして器を両手で抱え込んだ。
「これ、わたしの」
「誰も取らへんって」
「千早は取る」
「取らんわ!」
白灯が器へ鼻を近づけた。
「にゃ?」
「白灯もあかん」
茶太郎に抱き上げられ、白灯は納得できない顔をした。
海の姫にもらった一皿ではあったが、最初から大量には作らなかった。
蜜は貴重だ。
小豆にも限りがある。
まして、病人へ効く薬として作った物ではない。
暑い日に岸へ戻った者が、少し涼んで腹と心を休めるための食べ物だった。
お浜が残った一皿を味見した。
「悪ないな」
「名前、どうしよう」
「小豆の餡に蜜やろ」
お浜はさらりと言った。
茶太郎が器を見る。
「ほな……心太の餡蜜?」
「そのまんまやな」
千早が笑った。
こうして試しに作られた甘い心太は、《心太の餡蜜》と呼ばれることになった。
ところが、その一皿を食べている間にも、船着き場では怒鳴り声が上がっていた。
「水や! 飲める水、どこや!」
入ってきた小舟の船乗りが、水桶を抱えて走っている。
別の男は、荷を下ろしたまま座り込んでいた。
「飯を食えるところは?」
「向こうや!」
「医者はおるか!」
「今日は知らん!」
声が飛び交う。
茶太郎は心太を食べる手を止めた。
千早もそちらを見る。
「港には物が集まる。せやけど、初めて来た船には分からんことが多い」
「水も?」
「井戸ならある。けど、どこが使えて、誰に断ればええかまでは船ごとに聞いとる」
「ご飯は?」
「店を探す」
「休むところは?」
「探す」
「お医者さんは?」
「それも探す」
茶太郎は首を傾げた。
「全部、来てから探すん?」
千早が黙った。
海では、海燕衆が航路を記録していた。
青羽便では、道と渡しと宿を結んでいた。
けれど、海から陸へ上がる場所だけが、ぽっかり空いている。
「返し場が要るんや」
茶太郎が言った。
「船を直すところやったら、もうあるで」
「船やなくて、人の返し場」
飲める水がある。
簡単な食事が取れる。
少し横になれる。
医師がどこにいるか分かる。
荷や文を、次の道へ渡せる。
全部を一軒で抱える必要はない。
分かる場所へ、ちゃんと結べればいい。
「集めるんやなくて、結ぶんか」
千早が呟いた。
「うん」
茶太郎は頷いた。
「ここで全部できるようにしたら、ここが止まったとき、全部止まるから」
お浜が店の柱へもたれた。
「飲み水の井戸なら、二筋向こうや。潮が高い日は味を確かめた方がええ井戸もある。医者は朝なら薬種屋の裏手に来ることが多い。荷車を頼める家も知っとる」
千早が振り返った。
「なんでそんな詳しいんや?」
「船乗りの嫁を何年やっとった思てんねん」
お浜は鼻で笑った。
茶太郎の目が丸くなる。
「お浜さん、返し場できるやん」
「できへん」
即答だった。
「うち一人で井戸も医者も荷車も抱えられるか」
「抱えんでええよ」
茶太郎は店先の木板を指した。
「水は井戸の人。病人はお医者さん。荷車は荷車の人。お浜さんは、どこへ行けばええか知ってるだけ」
お浜は黙った。
それなら、できる。
いや、すでに半分はやっていた。
迷った船乗りへ道を教え、腹を空かせた者へ心太を出し、疲れた者を軒先で休ませていたのだから。
「銭にならん仕事ばっかり増えそうやな」
お浜が言う。
「そこは決めなあかん」
茶太郎はすぐに答えた。
「続かへんかったら、返し場もなくなるから」
千早が笑った。
「六つの子が、そこだけ妙に商人やな」
「続くようにせんと、困る人が増えるもん」
その日のうちに、店を大きくする話はしなかった。
新しい井戸も掘らない。
海燕衆の持ち物にも、水輪の持ち物にもしない。
まずは、お浜の店先へ小さな木札を一枚掛けることになった。
水。
飯。
休み場所。
医師。
荷車。
文。
それぞれの行き先を、字が読めない者にも分かる印で示す。
分からないことには、分からない印を付ける。
確かめていない井戸へ、飲めるとは書かない。
「便利そうやからって、嘘を書いたら一番あかん」
茶太郎が言うと、お浜が頷いた。
「ほな、一月だけや」
「うん」
「面倒やったらやめる」
「うん」
「心太の餡蜜は銭もらうで」
「それも、うん」
海結姫が空になった器を差し出した。
「もう一杯」
「姫さんは銭持っとるんか?」
「…………」
海結姫が固まった。
千早が腹を抱えて笑い出す。
「海のお姫さん、無一文や!」
「海には銭、落ちてないもん!」
「貝ならあるやろ」
「それ店で使える?」
「使えへんな!」
二人が言い合う横で、茶太郎は新しい木札を見上げた。
海から来た者が、ここで迷わず陸へ上がれるようにする。
陸から来た文が、ここから海へ渡れるようにする。
まだ店一軒。
まだ木札一枚。
けれど、その小さな一枚が——海と陸の間に生まれた、最初の《返し茶屋》になった。
その夕方。
木札を掛け終えたばかりのお浜の店へ、一人の海燕衆が駆け込んできた。
「千早!」
男の手には、濡れた割符が握られていた。
「二つ目や」
千早の笑顔が消える。
「何が」
「二十年前に途切れた五つの返し路や」
男は息を整え、割符を差し出した。
「二つ目が——海の向こうから繋がった」




