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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
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第262話 「海結姫と、潮の向きを教えた指」

――救う力とは、代わりに舵を握ることではない――


 海面に生まれた三つの輪は、波とは違う動きをしていた。


 一つ。

 二つ。

 三つ。


 ゆっくりと《海燕》へ近づいてくる。


「海結姫さまが、来る」


 千早ちはやが呟いた。

 その声を聞いた船乗りたちが手を止める。

 しかし、誰も船縁へ駆け寄らなかった。


「持ち場を離れるな!」


 千早の一声で、皆が作業へ戻る。


「姫さんが来たからいうて、船が勝手に安全になるわけやない」


 茶太郎は、その言葉を覚えておこうと思った。

 水輪が船の横まで来た。

 海面から、白い指先が現れる。

 次に腕。

 濡れた長い黒髪。

 青緑の薄衣をまとった少女が、水面から顔を出した。


 年は十五、六ほどに見える。

 耳の横には小さな貝飾り。

 髪の先は水へ溶けるように揺れている。


「千早」


 少女が呼んだ。


「久しぶりやな」


 千早が頭を下げる。


「海結姫さま。ご無沙汰しております」


「そんな固い喋り方、昔はしてへんかったやろ」


「昔は頭領やなかったからな」


「今も、よう海へ落ちる?」


「落ちへんわ!」


 船乗りたちから笑いが起きた。

 茶太郎は千早を見上げる。


「海へ落ちたことあるの?」


「昔の話や!」


「三回」


 海結姫が即答した。


「二回や!」


「小舟から一回、大船から二回」


「数えんでええ!」


 どうやら頭領にも、触れられたくない過去があるらしい。

 海結姫は船縁へ手を掛けたが、船を押しも引きもしなかった。

 水で形作られた姿が、その場に留まっているだけだ。


 やがて彼女の視線が茶太郎へ向いた。


「この子?」


「せや」


 千早が答える。


「宇治の茶太郎」


「ちっちゃ」


「今日、二回目」


 茶太郎は少しむっとした。

 海結姫が楽しそうに笑う。


「うじまるから聞いとるで」


「うじまるを知ってるの?」


「水は、全部同じやない。けど、川は海へ話を持ってくることがある」


「うじまる、何て言ってた?」


「小さいくせに、何でも抱え込もうとする子がおるから見張っといて、やて」


「……帰ったら話し合う」


 茶丸が隣で頷いた。


「……ニャッ」


「茶丸まで?」


 海結姫は猫たちを見て、さらに目を細めた。


「黒いのも、白いのも来たんやな」


 白灯あかりは海結姫に興味を持ったらしく、籠から鼻だけ突き出している。


「にゃ」


「そこから出たらあかんで。海へ落ちても、うちは毎回拾えるわけやない」


 白灯の鼻が引っ込んだ。

 千早が腕を組む。


「茶太郎に見せたかったんは、海結姫さまだけやない」


「分かってる」


 茶太郎は木札を見る。


『水』


『飯』


『休む場所』


「船の人が長く働ける道を考えるんだよね」


「その前に、一つ昔話を聞いとき」


 海結姫が言った。

 彼女は千早を見た。


「この子はな、昔、一回死にかけてる」


「一回どころやないけどな」


「威張るところちゃう」


 十余年前。

 まだ千早が少女だった頃。

 父の船で南の海を渡っていた。


 途中で空が荒れた。

 帆を畳むのが遅れ、船は傷み、水も入った。

 雨で空は見えず、どちらへ進んでいるか分からなくなった。


「海結姫さまが船を運んでくれたん?」


 かん太が尋ねる。


「そんな力ないで」


 海結姫はあっさり答えた。


「大きな船をうち一人で引けるわけないやろ」


「ほな、どうやって助けたん?」


「潮が変わるところを教えた」


 暗い海の中。


 海結姫は、泡の流れる向きが変わる場所へ姿を現した。


 深い方角を指した。

 それだけだった。


「父らが綱を直した。船底の水を汲み出した。重すぎる荷を移した。船頭が深さを測った。帆を小さく上げ直して、舵を切った」


 千早が続ける。


「姫さまは道を指した。進んだんは、人や」


「もし船頭が判断を誤ってたら?」


「沈んどった」


「うちが間違うてても沈んどった」


 海結姫も言う。


「神や霊が出てきたら安心、とは思わんことや」


 茶太郎は頷いた。


「ぼくの《土味見》と同じだ」


「何や、それ」


 海結姫が興味を示す。


「土の具合が味みたいに分かる。でも、それだけで畑を決めないようにしてる」


「ええやん」


 少女の瞳が、海の色へ変わった。


「力は答えやない。気づくための一つの目や」


 千早が船倉から三つの器を持ってきた。


 一つ目には、汲んだばかりの水。

 二つ目には、数日船へ積んでいた水。

 三つ目には、もっと長く置かれ、臭いの変わった水。


「長旅では、これが命になる」


「途中で汲み替えられないの?」


「港による。水があっても、そのまま飲んでええか分からんこともある」


「煮たら?」


「薪を使う。船で火を使う危険も増える」


 茶太郎は黙って札へ書いた。


 水を得られる場所。

 安全を確かめる人。

 水甕を洗える場所。

 薪を補える場所。

 病人を降ろせる場所。


「港に着くたび、全部同じことを一から探してる?」


「そういう船も多い」


「なら、《返し場》に水の札も付けたら?」


 千早が眉を上げる。


「どんな札や」


「飲み水を分けてもらえるか。煮炊きできるか。医師を呼べるか。食べ物を買えるか」


「荷だけやなく、人の補給も記すんか」


「船が着いても、人が倒れたら次へ行けないから」


 海結姫がくすりと笑った。


「千早。呼んで正解やったな」


「まだ分からん。こいつ、海を見て一日目やぞ」


「一日目やから、当たり前を知らんのや」


「それをうちも言うた」


「ほな似た者同士や」


「誰と誰がや」


 二人は顔を見合わせた。

 昔からの付き合いらしい。


 そのとき、船倉から一人の船乗りが上がってきた。


 顔色が悪い。

 唇も乾いている。


「頭領。宗八がまた飯を残しました」


 千早の表情が変わった。


「医師には?」


「昨日、浜で診てもろた。今日は船を降りて休ませろと言われとる」


「なら降ろす。出航させへん」


 茶太郎は、その男へ料理を渡そうとはしなかった。


「先生が食べていい物を聞いてからにする」


「料理する子やのに、すぐ作らへんの?」


 海結姫が尋ねる。


「具合悪い人の身体は、ぼくには分からないから」


「ますます気に入った」


 海結姫は水面へ頬杖をついた。


「ほな、病人やなく、まず元気なうちに食べる飯を考えたらええ」


「船のご飯?」


「それもええけど」


 彼女は少し考え、急に子どものような顔になった。


「うちにも何か作って」


「海結姫に?」


「狐の姫には、お稲荷さん作ったんやろ?」


「何で知ってるの?」


「水の噂は早いんや」


 海結姫は胸を張った。


「うちにも海の食べ物がええ」


「魚?」


「いつも食べとる」


「貝?」


「飽きた」


「海藻?」


「それは嫌いやない」


 茶太郎の前世の記憶に、一つの涼しい甘味が浮かんだ。


 透き通った心太ところてん

 小豆。

 蜜。

 季節の果物。


 だが、同じ形の菓子がこの時代にあるとは限らない。


「心太を甘くしてみようかな」


「甘い心太?」


 海結姫の瞳が輝く。


「できるん?」


「試してみないと分からない」


「いつ?」


「材料と作れる人を探してから」


「今ちゃうん?」


「今は作れないよ」


 海結姫は露骨に頬を膨らませた。


 千早が大笑いする。


「神さま相手でも順番変えへんのやな!」


 海面の姫は不満そうに水を跳ねさせた。

 飛沫が茶太郎の足元まで届く。


「ほな待つ。その代わり、絶対作ってや」


「うん」


「約束やで」


 その瞬間。

 茶太郎の首の貝印と、海結姫の胸元が同時に淡く光った。


 一本の細い水の糸が、海と茶太郎の前へ浮かぶ。

 だが糸は、船を引かなかった。

 道を作りもしなかった。


 ただ、堺の浜から南へ向かって、一瞬だけ伸びた。

 その先には、海燕衆が二十年かけて結び直してきた無数の港がある。


 茶太郎はまだ、その海へ行かない。

 まず作るのは、船でも航路でもなかった。

 水を替え、飯を食べ、人が休んで、また出ていける場所。


 そしてなぜか、その第一歩は——

 海の姫へ食べてもらう、甘い心太になりそうだった。


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『茶太郎がゆく』
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