第261話 「六歳の茶太郎、海を見る」
――遠くへ行く前に、帰ってこられる道を確かめる――
『水輪の茶太郎へ。
海を結ぶ前に、一度、海を見に来い』
海燕衆の頭領から届いた割符を見て、最初に首を横へ振ったのは志乃だった。
「南の海なんか、絶対あかん」
「ぼくも南の海まで行くとは言ってないよ」
「海は海や」
六歳の子どもを、正体の知れない海の集団へ預けることはできない。
波乃も反論しなかった。
「当然や。うちらでも、六つの子を外海へ連れ出そうとは思わん」
「ほな、どこへ来い言うてるんや」
弥七が尋ねる。
「堺や」
海燕衆の船は、南から来た荷をいきなり畿内の奥へ運ばない。
海辺で荷を降ろし、持ち主と数を確かめる。
そこから別の船や荷車へ渡す。
頭領は今、堺近くの船溜まりにいるという。
「招待が本物か、先に確かめる」
宗次が決めた。
波乃の言葉だけでは動かない。
弥七が先行し、割符の片方を持つ者が実際にいるか確認する。
宿を決める。
帰りの船も先に押さえる。
天候が悪ければ延期。
茶太郎は海燕衆の船で外海へ出ない。
「そこまでせな会えへんのか」
波乃が苦笑した。
「そこまでして、初めて六つの子を連れていけるんや」
志乃は譲らなかった。
数日後。
弥七から《青羽便》で返事が届いた。
『割符は合う。
頭領は堺にいる。
浜から出ない条件を了承。
帰路も確保した』
そこで初めて、旅支度が始まった。
茶太郎に付き添うのは宗次、弥七、かん太。
茶丸と白灯も同行する。
友照と千代たちは宇治へ残り、青羽便の返事を受け取る役目になった。
「海の貝、拾ってきてな」
友照が言う。
「勝手に拾っていい場所か確かめてからね」
「そこからか!」
旅は一日では終わらない。
宇治から伏見へ出て、そこから人と荷を運ぶ川船へ乗る。
船頭から最初に言われたのは、景色の話ではなかった。
「船縁へ身を乗り出すな。立つなら声を掛けろ。荷の縄には触るな」
「猫は?」
「猫は……落ちんよう見といてくれ」
茶丸は船底へ伏せたまま、明らかに機嫌が悪い。
「……ニャ」
白灯は揺れる水面が気になるらしく、何度も船縁へ近づこうとする。
そのたび、かん太に抱き戻された。
「お前が一番危ないやないか」
「にゃあ!」
川を下るにつれ、景色が変わった。
宇治では山が近かった。
伏見では蔵と船が並んだ。
さらに進むと川幅が広がり、行き交う荷船も大きくなる。
米俵。
薪。
酒樽。
魚を入れた桶。
人だけでなく、暮らしそのものが水の上を動いていた。
茶太郎は船頭へ尋ねる。
「この船の荷は、全部どこまで行くの?」
「全部同じ場所へは行かへん。途中で降ろす米もあるし、別の船へ積み替える酒もある」
「船も《縁扉》みたいだね」
「何や、それ」
「行き先を分ける場所」
弥七が笑う。
「茶太郎には、何でも道に見えるらしい」
やがて水の匂いが変わった。
川の湿った匂いの奥へ、今まで知らなかった鋭い匂いが混じる。
「しょっぱい匂いする」
「もう近いで」
船頭が前を指した。
茶太郎は立たず、その場から顔を上げた。
水の向こうに、水があった。
川岸のように、すぐ反対側が見えない。
陽の光を受けた水面が、遠くまで続いている。
「……大きい」
それしか言葉が出なかった。
前世で海を見た記憶はある。
だが、六歳の身体で見る海は違っていた。
自分が小さくなったのではない。
世界の方が、急に大きくなったように感じる。
茶丸まで顔を上げていた。
「……ニャァ」
白灯は完全に固まっている。
「にゃ……」
「白灯でも怖いものあるんやな」
かん太が笑った。
「にゃあっ!」
堺へ着くと、波乃が待っていた。
だが、すぐ頭領のところへは案内しない。
「先に宿へ荷を置く。帰り道も確認する」
「頭領が待ってるんじゃないの?」
「待たせとけばええ」
「怒られない?」
「待てへん頭領は船頭やったらあかん」
海燕衆らしい答えだった。
翌朝。
一行は大人の案内で船溜まりへ向かった。
海燕衆の船は、茶太郎が想像したほど巨大ではなかった。
むしろ目についたのは、船体の傷である。
何度も張り替えた板。
太さの違う縄。
補修された帆。
新品の船ではない。
直しながら海を渡ってきた船だった。
船尾には、三本の波と海鳥の旗。
丹波の甕に刻まれていた印と同じだった。
「《海燕》や」
波乃が船名を告げる。
「海燕衆で一番古い名前を継いどる船や」
「二十年前の船?」
「船名だけや。あの頃の板が残っとるかも怪しい」
茶太郎は少し嬉しくなった。
「それでも同じ船なんだ」
「変わったら、同じやないと思うか?」
「ううん」
水輪の繕い鎹を思い出す。
悪いところを替え、残せるところを残す。
形が変わっても、役目と記録がつながれば、続いていく物がある。
船へ勝手に乗ることは許されなかった。
まず船頭が渡し板を固定する。
荷を動かす者が通り終わるまで待つ。
宗次が先。
茶太郎はその後ろ。
弥七が最後につく。
茶丸と白灯は籠へ入れられた。
「……ニャッ!」
「にゃああ!」
「海では影猫衆より船頭の決まりや」
弥七に言われ、二匹は揃って不満顔になった。
甲板へ上がる。
見たことのない縄の結び。
乾かした魚。
水甕。
穀物袋。
修理用の木材。
船員たちは茶太郎を珍しそうに見るが、作業の手を止めない。
その中央で、一人の女が帳面を広げていた。
年は二十代半ばほど。
黒髪を高く束ね、日に焼けた腕には古い傷が何本も走っている。
派手な衣も、頭領らしい飾りもない。
腰には短い刀。
反対側には、縄を切るための小刀。
「頭領」
波乃が呼んだ。
女が振り返った。
まず弥七を見る。
宗次を見る。
かん太を見る。
そして茶太郎を見た。
しばらく沈黙。
「……どれが茶太郎や?」
波乃が茶太郎の肩を指す。
「これ」
「これ?」
女は茶太郎の前へ来て、しゃがみ込んだ。
目線の高さを合わせる。
「六つとは聞いとったけど」
茶太郎の頭から足まで見る。
「ちっさ!」
「六歳だから」
「ほんまに、こいつが伏見から大和まで道をつないだんか?」
「一人でやってないよ」
女の口元が上がった。
「その返し方は気に入った」
彼女は立ち上がる。
「海燕衆頭、千早や」
茶太郎は頭を下げた。
「宇治の茶太郎です」
「知っとる。せやから呼んだ」
千早は一行を船倉近くへ案内した。
そこには宝も、南国の珍しい品もなかった。
代わりに、硬く乾いた飯。
塩漬けの魚。
乾燥させた豆。
水甕。
そして、黒ずんだ野菜の残り。
「これが何か分かるか」
「船のご飯?」
「せや」
「何日分?」
「長いときは、ようけ積む」
「傷まない?」
「傷みにくい物を選ぶ。せやけど、それだけ食うてると困ることが起きる」
千早の顔から笑みが消えた。
「長く海に出た船で、歯茎から血が出る。身体がだるうなる。傷が治りにくくなる。皆がなるわけやない。陸へ戻ってしばらくすると、良うなる者もおる」
茶太郎は即答しなかった。
「水は?」
「悪くなることがある」
「食べ物は、いつ積んだか記録してる?」
「船ごとに違う」
「途中で新しい物を足せる場所は?」
「それを増やしたいから、お前を呼んだ」
千早は海燕衆の航路図を広げた。
だが、茶太郎へ示したのは南の果てではない。
海辺に並ぶ、小さな丸印だった。
「船を強くするだけでは、海は渡れへん」
千早が言う。
「水と飯を替えられる場所が要る。傷んだ者を降ろせる場所も要る」
茶太郎は《青羽便》を思い出した。
鳥だけでは網にならない。
巫女。
商人。
忍び。
宿。
人が休み、確かめ、次へ渡す場所があって初めて道になる。
「海にも《返し場》を作りたいんだね」
「せや」
「でも、ぼくは海のこと知らないよ」
「知っとる奴だけで二十年やって、五艘の道を切らした」
千早は笑った。
「知らん奴の目が要る」
そして一枚の木札を茶太郎へ渡した。
そこには三つだけ書かれていた。
『水』
『飯』
『休む場所』
「海燕衆と水輪を結ぶかは、そのあと決めたらええ」
千早は甲板の向こうの海を指した。
「まず、この三つを一緒に見てくれ」
茶太郎が札を受け取ったとき。
首から下げていた《海結姫》の貝印が、かすかに震えた。
千早の表情が変わる。
「それ……何で動いた?」
「分からない」
海面の一角に、小さな輪が広がった。
一つ。
二つ。
三つ。
風もないのに、輪だけが船へ近づいてくる。
千早が海を見つめ、低く呟いた。
「海結姫さまが、来る」




