第260話 「二十年ぶりの返し紐と、海燕衆」
――帰るとは、昔と同じ場所へ戻ることではない――
「五艘は沈んでへん。二十年かけて、南の海から帰ろうとしてる」
旅装の女がそう言うと、綾の家の中が静まり返った。
弥七は、すぐには信用しなかった。
「二十年も海を漂っとる船がある言うんか?」
「ちゃう」
女は首を横に振る。
「船は何度も替わった。人も替わった。死んだ者も、南の島へ残った者もおる」
「ほな、何が帰るんや」
「道や」
女は腰から細い組紐を取り出した。
甕から見つかった物と同じ、赤、青、黄、白の四色。
「海燕衆は、船そのものを帰すことより先に、途切れた道を一本ずつ結び直してきた」
女は名を、波乃と名乗った。
三十前ほど。
日に焼けた顔の左頬には、細い傷がある。
海燕衆の船頭の一人だという。
「二十年前、五艘が南へ出た。交易の荷も積んどったが、海が荒れたうえ、人同士の争いにも巻き込まれた」
「倭寇なん?」
茶太郎が尋ねた。
波乃は少し笑った。
「そう呼ぶ者もおる」
「人の物を奪った?」
「昔の海燕衆には、やった者もおる」
誤魔化さなかった。
「商いだけで食えんとき、他の船から荷を奪うた者もいた。逆に奪われたこともある。せやから、海燕衆いう名前だけで善い者やと思わん方がええ」
弥七が腕を組む。
「その言い方なら、少しは話を聞ける」
「信用してくれるんか?」
「逆や。信用せんまま聞くんや」
波乃は声を上げて笑った。
「陸の者も、なかなかやな」
彼女は四色の組紐を卓上へ置いた。
「五艘が散ったあと、残った者らは南の港や島々で暮らし始めた。そこで子が生まれ、仲間が増えた。船を造り直し、また別の港へ渡った」
「二十年もしたら、最初に乗ってた人じゃない人も多いね」
「その通りや」
「それでも海燕衆なん?」
「同じ船に乗るから仲間なんやない」
波乃は組紐の結び目へ指を置いた。
「帰る場所を忘れんよう、同じ結び方を子へ教えた。それが海燕衆を残した」
茶太郎は甕から出た古い組紐を見た。
青が三つ。
白が一つ。
赤が二つ。
黄色い輪。
「これも道なんだよね」
「せや」
波乃は古紐と自分の紐を並べた。
「青は水路。白は山越え。赤は荷を預けられる場所。黄の輪は——」
「帰りを待つ場所?」
茶太郎が言う。
波乃の指が止まった。
「よう分かったな」
「甕が埋まってたところに、五艘を待ったって書いてあったから」
黄色い輪は《返し場》。
海から届いた荷や文を、次の道へ渡す場所。
反対に、内陸から海へ戻る文を預かる場所でもあった。
丹波の白石畑は、その一つだった。
「でも、どうして埋めたの?」
「待てんようになったからや」
二十年前。
海の知らせが途切れた。
一年。
二年。
三年。
返し場を守っていた者たちは、それでも待った。
だが戦と飢えで人が散り、海へ続く道も使われなくなった。
最後の守り手は、五艘分の帰り札と貝貨、組紐を甕へ入れた。
いつか同じ結びを知る者が戻れば分かるよう、三枚の《潮石》を載せた。
「墓やなかったんや」
綾が呟く。
「半分は墓やったと思う」
波乃が静かに答える。
「帰らへん者がおると思わな、残された方も生きていけへん」
そして懐から、小さな木札を五枚取り出した。
一枚ずつ、端の形が違う。
甚八が甕から見つかった木片を持ってくる。
「まさか」
五枚のうち一枚と、古い木片を合わせた。
ぴたり。
二つが一枚の札になった。
刻まれていたのは、三本の波と海鳥。
「割符……」
「最初の一艘の返し札や」
波乃の声がわずかに震えた。
二十年前、丹波に残された半分。
南の海を渡り続けた者たちが伝えてきた、もう半分。
それが今、同じ卓上で一枚へ戻った。
綾の家の老人が、手を合わせた。
「ほんまに、帰ってきたんやな」
「一艘分だけや」
波乃は残る四枚を見た。
「あと四つは、返す相手も場所もまだ見つかってへん」
茶太郎は五枚を見つめた。
「海燕衆は、何を運んでるの?」
「何でも、とは言わへん」
波乃は答えた。
「薬になる木の皮。染め物。香り物。乾かした果実。貝。時には鉄や銅。向こうへは布、刃物、器、紙なんかを運ぶ」
「人も?」
弥七が鋭く尋ねた。
波乃の顔から笑みが消えた。
「海には、人まで売り買いする者がおる」
「海燕衆は?」
「今の頭領は、人を荷に数えた船を仲間とは認めへん」
「今の頭領?」
茶太郎が顔を上げる。
「女や」
波乃は少し誇らしそうに言った。
「海へ出たら男も女も関係ない。波を読めん頭領から先に沈む」
「名前は?」
「まだ言えん」
「何で?」
「そなたらを信用しきってへんからや」
今度は弥七が笑った。
「それでええ」
互いに、まだ信用しない。
だからこそ、最初から全部を預けない。
茶太郎は《青羽便》を思い出した。
「海燕衆は、丹波の返し場をまた使いたいの?」
「できればな。せやけど、昔の約定を理由に勝手に戻すつもりはない」
「今ここに住んでる人の場所だもんね」
「せや」
波乃は綾へ頭を下げた。
「白石畑を返し場に戻すかは、この村が決めてくれ」
綾はすぐに答えなかった。
「海の荷が来るようになったら、桑畑だけの話やなくなる。村の皆と相談する」
「それでええ」
「武器や、誰から奪うたか分からん荷は預からへん」
「ええ」
「人も預からへん」
「遭難した人は?」
茶太郎が尋ねた。
綾は少し考えた。
「助ける人と、売り買いする人は別や」
「それ、札に書こう」
こうして、返し場を再び開くための条件が作られ始めた。
荷主が分からない物は受けない。
奪った疑いのある荷は止める。
武器を隠して運ばない。
人を商品として扱わない。
病人や遭難者は荷と分け、まず人として助ける。
海燕衆の印だけで中身を信用しない。
そして、村が断れば道を変える。
「決まりが多いなあ」
波乃が苦笑する。
「海は決まりが少ないん?」
茶太郎が尋ねる。
「逆や」
波乃は笑った。
「破ったら死ぬ決まりが多い」
その言葉で、茶太郎は少しだけ海燕衆を理解した。
夕方。
波乃が庭へ出ると、シオが屋根へ降りてきた。
「ぽぽっ」
波乃が目を丸くする。
「鳩で文を運んどるんか」
「全部じゃないよ。巫女さんも商人さんも忍びも運ぶ」
「海燕衆の文も運べるか?」
「いきなり南の海までは無理」
「そらそうや」
「でも、海から陸へ上がったあとの道なら、つなげるかもしれない」
海燕衆の海路。
青羽便の陸路。
二つを直接一つにはしない。
海辺に《返し場》を置き、そこで人が確かめてから次へ渡す。
「集めるんやなく、結ぶんか」
波乃が呟いた。
茶太郎は頷いた。
「一本切れても、全部止まらないようにしたい」
波乃はしばらく茶太郎を見つめた。
それから懐の奥から、もう一つだけ包みを出した。
「なら、これを見せてもええかもしれん」
中には、親指ほどの白い貝殻が入っていた。
表面へ、波と一本の長い髪を持つ少女が刻まれている。
「誰?」
「海燕衆の頭領が、命の恩人から預かった印や」
「命の恩人?」
波乃は頷いた。
「海で道を失った船を、潮の流れへ戻した姫がおる」
茶丸が貝へ鼻を近づけ、目を細める。
「……ニャッ」
茶太郎にも、かすかな水の気配が伝わってきた。
「人じゃない?」
「さあな」
波乃は貝を包み直した。
「海燕衆では、《海結姫》と呼んどる」
そして茶太郎へ、一枚の小さな割符を差し出した。
「これは、頭領から預かってきた」
そこには短く刻まれていた。
『水輪の茶太郎へ。
海を結ぶ前に、一度、海を見に来い』
宇治から伏見へ。
伏見から丹波へ。
南へ広がってきた水輪の先に、今度は本物の海が現れようとしていた。




