第24話 「大吉山のウリ坊と、皇子の伝承」
――誰かの未練を、代わりに背負わなくてもいい――
大吉山の麓は、夕暮れの光に染まっていた。
宇治上神社の森を抜けると、空気が変わる。
湿った土と落葉の匂い。
その奥に、古くて悲しい味が混じっていた。
「……水、右へ逃げてる」
ナギが山道の先を見つめる。
「左の土、崩れそう」
伊平じいさんが杖で確かめると、左側の地面には細い亀裂が走っていた。
「危なかったのう。こっちは避けるぞ」
ナギが読めるのは、水の行き先だけである。
土を直すことも、崩落を止めることもできない。
それでも、水の偏りが分かれば危険を避けられる。
マキトは木の幹へ、白い光を一つずつ残した。
「帰り道の印だ。長くは残らぬが、日が沈むまでは我らを導くだろう」
希太は立ち止まらない。
何かに呼ばれるように、山の奥へ進んでいく。
「希太、待って!」
ゆかりが追いかける。
やがて一行は、古い塚のように土が盛り上がった場所へ着いた。
この山のどこかに、菟道稚郎子が葬られた。
宇治では、古くからそう伝えられてきた。
橋姫が静かに語る。
「伝承では、応神天皇は菟道稚郎子へ位を継がせようとしました。しかし皇子は、兄の大鷦鷯尊こそ相応しいと考えたといいます」
「お兄さんが、仁徳天皇になった人?」
「ええ。ただし、皇子がどのように亡くなったかは、伝える書物によって異なります」
ゆかりが塚を見つめる。
「金色の糸がある。でも、その周りに黒い糸が絡まってる」
その瞬間、茂みが激しく揺れた。
「キュイッ!」
縞模様の小さな影が飛び出してくる。
丸い鼻。
短い足。
山の土をまとったウリ坊だった。
「かわいい……!」
レオが目を輝かせる。
ウリ坊は勢いよく地面を蹴った。
「キュイッ! 来るな!」
小さな身体から、土の塊が飛び上がる。
マキトが前へ出て、白い幕で土を受け止めた。
「下がれ。守りには入ったが、長くは保たぬ」
「ここは、ぼくが守る!」
ウリ坊は塚の前へ立ちはだかった。
「皇子さまの山だ! 誰にも触らせない! ぼくが決める! ぼくだけで守る!」
茶丸が地面へ前足を置く。
『皇子本人ではない。長い年月、この山へ積み重なった祈りと迷いから生まれた土霊だ』
希太がウリ坊の前へ出た。
「にゃ……」
ウリ坊の動きが止まった。
「その霊気……」
土霊の瞳が大きく見開かれる。
「御猫……? 皇子さまのそばにいた、御猫の匂い……」
希太の金色の瞳に、遠い記憶が浮かんだ。
木造の宮。
若い皇子の膝。
書物をめくる音。
そして、二度と戻らなかった温かな手。
「にゃあ……」
希太が悲しそうに鳴く。
ゆかりは希太をそっと抱き上げた。
「希太は、菟道稚郎子の猫だった魂を持ってる。でも、今はわたしの家族だよ」
「今は……?」
ウリ坊の身体が揺らぐ。
「じゃあ、皇子さまは? 皇子さまは、どうしたかった? 位が欲しかった? 生きたかった? お兄さまを恨んでた?」
黒い糸が、土霊の身体を締めつける。
「ぼくが答えを見つけなきゃ。ぼくが皇子さまの本当の心を決めなきゃ、この山を守れない!」
「決めなくていいよ」
茶太郎が言った。
ウリ坊が振り返る。
「どうして!」
「だって、君は皇子さまじゃないもん」
茶太郎は、亜空間収納から文福茶釜と材料を取り出した。
「皇子さまが本当はどう思ってたか、ぼくたちには分からないよ」
「分からないままでいいの?」
「うん。分からないことを、勝手に決めたらだめだと思う」
橋姫が小さくうなずいた。
「伝承は、人が過去を忘れないために残したものです。しかし、伝承が本人の心をすべて語るわけではありません」
ウリ坊の足元から、力が抜けていく。
「でも……答えがなかったら、ぼくは何を守ればいいの?」
「山を守ればいいよ」
茶太郎は栗を刻み、雑穀と一緒に煮始めた。
「昔の人の気持ちを決めるんじゃなくて、今ここにある木や土や、ここへ来る人を守るの」
湯気とともに、栗の甘い香りが広がった。
ウリ坊の鼻が動く。
「……いい匂い」
「一緒に食べよう」
「ぼくは山の守り手だぞ。食べ物なんかで——」
腹から大きな音が鳴った。
ウリ坊は黙り込んだ。
こたろが笑う。
「お腹すいてる〜!」
「うるさい!」
茶太郎は栗入りの雑穀粥を、小さな椀へよそった。
「これは、山からもらった栗で作ったんだよ。だから、山にも一緒に食べてもらう」
最初のひと匙を、塚の前へ供える。
次の椀を、ウリ坊の前へ置いた。
「いただきますって言うんだよ」
「……いただきます」
ウリ坊が粥を口にする。
栗の甘さと雑穀の香ばしさが、黒い糸の奥へ染み込んでいった。
「温かい……」
ウリ坊の瞳から、土色の涙がこぼれる。
「ぼく……ずっと怖かった。皇子さまの気持ちを忘れたら、ぼくも消えると思ってた」
「忘れなくていいよ。でも、代わりに苦しまなくていい」
茶太郎はウリ坊と目を合わせた。
「君には、君の名前がいるね」
「ぼくの……名前?」
「ウリハ」
「ウリハ……?」
「ウリ坊の《ウリ》と、山に生える《葉》。昔の悲しい気持ちだけじゃなくて、新しい葉っぱを守れるように」
土霊の身体が、柔らかな緑の光に包まれた。
背中の縞模様は若葉の模様へ変わり、足元から小さな芽が顔を出す。
「ぼくは……ウリハ」
ウリハは塚を振り返った。
「皇子さまの本当の心は、ぼくには分からない。でも、皇子さまがいたことは忘れない」
希太が近づき、ウリハの鼻へ自分の鼻を触れた。
「にゃ」
「御猫……ううん、希太。おかえり」
ゆかりの目に映っていた黒い糸が消え、金色の糸だけが残った。
ナギが地面へ触れる。
「水……山の中を、また流れ始めた」
ウリハは前足で土を掻いた。
「ぼく、土の緩みが分かる。木の根が苦しい場所も分かる。でも、山全部を一度に直すことはできない」
「見つけてくれたら、みんなで直すよ」
茶太郎が答える。
「うん。ぼくは山の道を見張る!」
そのとき、茶太郎の胸の奥が温かくなった。
目の前の空間に、秘密基地で見たものと同じ扉の輪郭が浮かぶ。
「これ……基地の扉だ」
茶太郎が手を伸ばすと、扉は手のひらほどの小さな窓になった。
向こう側には、秘密基地の壁が見える。
ウリハは足元の若葉を一枚拾った。
「この山と友達になった印。向こうへ送って」
茶太郎が葉を小窓へ入れる。
若葉は光の向こうへ消え、秘密基地の床へ静かに落ちた。
それ以上、扉は大きくならなかった。
『今は物を一つ通すのが限界だ』
茶丸が告げる。
『人が通れる道になるには、さらに土地との縁を育てねばならぬ』
「急がないよ」
茶太郎は小窓を閉じた。
「最初の道は、ちゃんと歩いて帰る」
マキトが白い印の残る山道へ向き直る。
「ならば我が、皆の帰り道を守ろう」
夕暮れの大吉山を、優しい風が吹き抜けた。
こうして第四の揺れは、《山の縁》を守るウリハとして生まれ変わった。
そして秘密基地には、初めて外の土地と結ばれた、小さな扉の印が残った。




