第257話 「桑の根元の熱と、捨てなかった畑」
――畑を守るとは、全部を救ったことにすることではない――
桑畑へ着いた頃には、夏の夕日が山の端へ触れていた。
畑の持ち主は、伏見郊外の百姓・茂吉。
丹波へ送るための若い桑苗を、五十本ほど育てている。
「撒いたんは、あそこからあそこまでや」
茂吉が畑の半分を指した。
「半袋と言うてたな」
弥七が確かめる。
「……すまん。一袋近い」
「何で少なく言うた?」
「叱られると思うた」
弥七は眉を寄せたが、先に畑を見た。
「今は責める順番やない。残っとる量と、撒いた場所を正しく言うてくれ」
茂吉が土手の陰から空の袋を持ってくる。
底にわずかな土が残っているだけだった。
撒いたのは二列、合わせて二十三本。
根元へ一山ずつ置き、その上から畑の土を薄くかぶせたという。
「水は?」
「撒いたあと、たっぷり掛けた」
「畑の外へ流れたか?」
「そこまでは流してへん」
日が落ちる前に、確認することが決められた。
まず、誰も桑畑へ勝手に入れない。
子どもは根元へ近づかない。
水を流して洗わない。
撒いた列と撒いていない列を、縄と木札で分ける。
畑の下側へ浅い受け溝を作り、雨が降っても外へ流れ出にくくする。
暗くなってから無理な作業はしない。
茶太郎は土に触れず、畑の外から桑を見た。
今のところ葉の色に大きな違いはない。
だが、撒いた列の土へ差し込んだ木の棒は、撒いていない列より温かかった。
鼻を刺す臭いも残っている。
「《土味見》を使うんか?」
茂吉が尋ねる。
「今日は使いません」
「何でや。神さまにもろた力なんやろ?」
「暗い中で急いで使って、ぼくが間違えたら困るからです。それに、熱と臭いだけでも、今すぐ安全とは言えません」
茶太郎の答えに、茂吉は肩を落とした。
「ほな、もう全部枯れるんか」
「それも、まだ決まってないです」
「神の力でも分からんのか」
「分からないことを、分かったって言わないための力だよ」
その夜は、畑の入口へ見張り札を立てるところまでにした。
翌朝。
農作業に慣れた大人たちが集まり、撒いた列を調べた。
袋の土は根元へ深く混ぜ込まれていない。
表面近くに固まっている。
「見える塊だけなら、苗の根を掘らずに取れそうや」
茂吉が言う。
「全部取ろうとして深く掘ったら、桑の根を切る」
甚八が止める。
取り除く範囲を決め、平たい木べらで表面の塊だけをすくう。
作業する大人は手拭いで口元を覆い、作業後は手と道具を洗う。
取り除いた物は元の荷と同じ仮置き場へ運び、井戸や川の近くへ捨てない。
根元の土を大きくかき回さず、乾いた藁を薄く敷く。
新しい肥え土は加えない。
水も、桑の様子と土の湿りを見て必要な分だけ与える。
「何か入れて打ち消さんでええんか?」
茂吉が不安そうに尋ねる。
「何が強すぎるか分からないまま、別の物を足す方が怖いです」
茶太郎は答えた。
撒いた二十三本には黒い札。
撒かなかった二十七本には白い札。
さらに黒札の列から、根元の塊を多く取った五本へ二重線を加えた。
比べるためである。
昼を過ぎると、撒いた列のうち三本だけ、葉の縁がわずかに丸まり始めた。
茂吉が慌てる。
「水や! 水を掛けたら戻るやろ!」
「待って」
茶太郎が止めた。
「土はまだ湿ってる。水が足りないとは決まってない」
畑に詳しい老人も葉と土を見て頷く。
「今は根が苦しんどるのかもしれん。水を増やして空気まで減らしたら、余計に弱る」
三本は目印を増やし、夕方まで観察する。
葉の丸まりは進んだが、幹は立っている。
茶太郎は大人が採った少量の土を、布越しに受け取った。
撒かなかった列の土。
塊を取り除いた場所の土。
少し離れた場所の土。
一つずつ間を空け、《土味見》で確かめる。
撒かなかった土は、薄い穀物のような穏やかな味。
塊を取った土には、焦げる前の苦みと、青い草の刺すような味が残っている。
離れた場所ほど、その苦みは弱かった。
「どうや?」
茂吉が身を乗り出す。
「強いところは残っています。でも、畑全部じゃない」
「桑は助かるんか」
「分かりません。葉が落ちる苗もあるかもしれない。でも、今すぐ全部抜く必要もありません」
茂吉は二十三本を見回した。
「丹波へは送れるか?」
「今は送らない方がいいです」
茶太郎は黒札の列を指した。
「この葉を蚕へ食べさせるのも止めます。桑が生きていても、葉がいつも通りかは別だから」
すぐに丹波の綾へ文が送られた。
『伏見の桑苗二十三本に、寝ていない土を使用。
苗と葉は白札の苗から分ける。
黒札の葉は蚕へ与えない。
経過を見て、送る苗を決め直す』
失敗を隠せば、桑だけでなく蚕へ渡る。
蚕から糸へ。
糸から下京のお藤たちの働き場へ。
一袋の早すぎる土が、遠くの暮らしまで傷つけるかもしれない。
だから、伏見だけで助かったことにはしなかった。
三日後。
葉の縁が丸まった三本のうち、一本は葉を多く落とした。
二本は新しい葉を出さず、動きが止まっている。
残り二十本は見た目に大きな変化がなかった。
だが黒札は外さない。
一週間。
二週間。
撒かなかった列の苗は順調に伸びた。
黒札の列では、十五本が新芽を出した。
五本は育ちが遅い。
二本は葉を落としたまま。
一本は根元から枯れた。
茂吉は枯れた一本の前で、長く頭を下げた。
「俺が、明日伸びるいう言葉に飛びついたせいや」
「うん」
茶太郎は、違うとは言わなかった。
「でも、撒いた場所を話してくれたから、残りを分けられた」
「一袋やったことも、最初から言うべきやった」
「次は、失敗したときほど本当の量を書こう」
枯れた一本も、すぐに燃やしたり畑の隅へ捨てたりしなかった。
大人が根の状態を調べるため、土ごと別の場所へ移す。
原因を決めつけず、同じ失敗を防ぐ記録に残した。
白札の二十七本は丹波へ送る候補に戻された。
黒札の二十二本は伏見に残し、秋まで育ちを比べる。
枯れた一本の損は、消えない。
それでも畑全体を捨てず、危うい苗を安全な苗へ混ぜもしなかった。
「助けるって、元通りにすることやと思うてた」
茂吉が言った。
「元通りにならない物もあるよ」
茶太郎は答える。
「だから、残った物を次の危険にしないところまでやるんだ」
その日の夕方。
丹波からシオが戻ってきた。
綾の返書には、桑苗を急いで送らなくてよいと書かれている。
代わりに、山の畑で集めた三種類の土が小袋に入れられていた。
赤い土。
黒い土。
白い石の混じる土。
文の最後には、こうあった。
『同じ育て土を入れても、畑によって桑の伸び方が違う。
茶太郎に、土そのものの違いを見てほしい』
茶太郎は三つの袋へ、すぐには触れなかった。
「送った場所と、採った深さと、近くの水を聞こう」
《土味見》が開いたからこそ、味わう前に知るべきことが増えていた。
土を料理する次の一歩は、肥え土を作ることではない。
畑ごとに違う空腹を、見分けることだった。




