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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
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第256話 「狐の秘法と、眠っていない土」

 ――早く効くという言葉ほど、何を急がせるのか確かめる――


 茶太郎たちが《伏見水輪・繕い所》へ戻ると、庭の外まで人だかりができていた。


 荷車には、黒い土を詰めた筵袋が十六。

 その前で、頬の丸い男が声を張り上げている。


「狐神さま直伝の肥え土や! 畑へ入れた翌朝には、苗が指一本分も伸びる!」


 袋には赤い狐の顔が描かれ、その下へ《一夜実り土》と書かれていた。


「一夜で?」


 友照が目を丸くする。

 茶太郎は答えず、荷車から距離を取った。

 土からは、湿った草と灰、それに鼻を刺すような臭いが漂っている。


 茶丸が近づこうとして、すぐに足を止めた。


「……ニャッ」


 白灯あかりも鼻をひくつかせ、千代の後ろへ回る。


「猫たちを近づけたらあかん」


 弥七やしちが縄を張り、人だかりを下がらせた。

 子どもは袋へ触れない。

 試しに開けるのも、風下を避けた場所で大人が行う。

 男は不満そうに腕を組んだ。


「何を怖がっとる。土やぞ」


「何を混ぜたか分からんからや」


 弥七が言い返す。


「狐神さまの秘法や」


「狐神さまが自分で詰めたんか?」


「いや……山の者から仕入れた」


「ほな、その山の者が何を入れたか聞いとるか?」


 男は口を閉じた。


 茶太郎は荷車の周りを見た。

 袋に作った日が書かれていない。

 材料もない。

 どこで寝かせ、何度積み直したのかも分からない。


 あるのは狐の絵と、すぐ効くという言葉だけだった。


「売るのを、少し待ってもらえませんか」


 茶太郎が頼む。


「お前が茶太郎か」


 男は値踏みするように見下ろした。


「狐の嫁入りへ招かれたそうやな。なら分かるやろ。これは神さまから授かった土や」


「ぼくが教わったのは、すぐ使える土じゃありません」


「せやけど、狐の秘法には違いない」


「違います」


 茶太郎は、はっきり答えた。


「寝かせて、確かめて、小さく試す方法です。袋の中身が悪いとはまだ決められない。でも、今夜中に畑へ入れていいとも言えません」


「もう買うと決めた者がおる!」


 集まった農家の一人が声を上げた。


「うちの麦は色が悪いんや。明日伸びるなら、銭を払う」


「伸びるかもしれません」


 茶太郎が答えると、男は得意そうに笑った。


「ほら見い」


「でも、根が傷んで倒れるかもしれません。葉だけ伸びて、実が入らないかもしれない。明日の背丈だけでは決められないです」


 農家の男は黙った。


 甚八じんぱちと、畑仕事に詳しい町人が長い柄の道具で袋を開いた。

 表面は黒い。

 だが中から出てきたのは、形の残った青い草、湿った鶏の敷き藁、灰の塊だった。


 中心へ細い木の棒を差し込み、しばらく待つ。

 抜いた棒は、手で触れ続けられないほど温かくなっていた。


「まだ熱を持っとる」


 町人が告げる。


「臭いも強い。これを苗の根元へ固めて入れるんは怖いな」


「腐っとるから効くんや!」


 商人が反論する。


「腐る途中と、寝かせ終わった物は同じやないよ」


 茶太郎は完成した土の見本を、別の木皿へ出してもらった。

 二つを並べる。


 《一夜実り土》には、青い草の筋が残っている。

 狐の里で寝かせた土は、黒くほぐれ、元の形がほとんど分からない。

 臭いも熱も違った。


「茶太郎の力なら、どっちが本物か分かるんやろ?」


 六助が尋ねる。


「分かるかもしれない。でも、ぼくにしか分からない決め方にしたら、ぼくがいない場所で困るよ」


 茶太郎は《土味見つちみ》を使わず、二本の木札を並べた。


 色。

 臭い。

 熱。

 形。


 入れた材料。

 作り始めた日。

 積み直した日。


 それぞれを記す。


「誰でも見られる違いから確かめよう」


 千代が字を読み上げ、町人たちが見比べる。

 商人の男も、やがて袋の中へ目を落とした。


「俺は、騙すつもりやなかった」


「誰から仕入れたんですか?」


「山裾の久兵衛という男や。枯れ草と鶏小屋の掃除屑を集めていた。狐の婚儀のあと、これからは肥え土が売れると言うて……」


「作り方は聞いた?」


「黒ければ使えると」


「狐の絵を袋へ描いたのは?」


「俺や。売れそうやったから」


 弥七が厳しい目を向ける。


「神の名まで勝手に使うたんは、お前の責任や」


 男は肩を落とした。


「袋の代金も、仕入れの銭も払うた。これを売れんかったら、うちは大損や」


「だからって、畑へ入れる人に損を移したらだめです」


 茶太郎は言った。


「でも、全部捨てるとは決めなくていい。安全な場所へ移して、材料を確かめて、寝かせ直せるか大人に見てもらおう」


 その日の販売は止められた。

 十六袋は、井戸や川、炊事場から離れた仮置き場へ運ばれる。

 正体が分かるまで、狐印の札は外す。


 男には、買い手へ預かった銭を返してもらった。

 すぐに全額を返せない分は、名前と額を帳面へ記し、繕い所の大人二人が立ち会った。


「罰だけで終わらせへんのか」


 甚八が尋ねる。


「処分を決めるのは町の大人です。でも、土を寝かせ直す仕事は残ってる」


 失敗した荷を見張る者。

 材料の出所を確かめる者。

 積み直す者。

 熱と臭いを記録する者。


 商人の男にも、自分が売ろうとした十六袋がどう変わるか、最後まで記録させることになった。


 茶太郎たちは、新しい札を作った。

 名を《三眠札みねむりふだ》。


 一つ目の眠りは、入れた物を記す。

 二つ目の眠りは、熱と臭いが変わった日を記す。

 三つ目の眠りは、小さな畑で試した結果を記す。


 三つが揃うまで、《育て土》として売らない。


「狐の絵は描いたらあかんの?」


 商人が尋ねる。


「狐の里が確かめてない物へ、狐の印は使えません」


「ほな、水輪の印なら?」


 千代が即座に首を横へ振った。


「水輪も同じや。名前は、中身の代わりにならへん」


 夕方、返金を受けた農家の男が戻ってきた。


「実は……一袋だけ、先に持ち帰った」


 皆の顔色が変わる。


「畑へ入れたんですか?」


「桑畑へ半分ほど撒いた。丹波へ送る苗を育てとる場所や」


 茶太郎の胸の奥で、《土味見》が苦く震えた。

 伏見で育てていた桑苗は、ようやく丹波の蚕と下京の働き場を結び直したばかりである。


「今から全部掘り返したら、根を傷める」


 甚八が言う。


「水で流したら、井戸や川へ入るかもしれへん」


 弥七はすぐに人を走らせた。


「畑へ誰も入れるな。水も勝手に流すな。まず、撒いた場所と量を確かめる」


 神の名を借りた早すぎる土は、すでに次の仕事の根元へ届いていた。

 茶太郎たちは夜になる前に、桑畑へ向かった。


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『茶太郎がゆく』
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