閑話③ 茶太郎がいない秘密基地 ――子供たちの知らない世界――
『第三話 父ちゃんの知らないふり』
――秘密は、隠す者より見守る者の方が先に気づく――
それから、宗次は月に何度か秘密基地へ通うようになった。
店を閉める。
茶箱を確かめる。
志乃と茶太郎が寝たあと、帳面を懐へ入れて家を出る。
秘密基地では、分福と金長が待っていた。
「今日は幕府側の茶会へ出す菓子を決めるで」
分福が帳面を開く。
「ひこじい――森彦右衛門はんを通じて、まずは小さな茶会へ試しに納める。評判が良ければ、季節ごとの一手納めを狙う」
「一手納め、というのは?」
金長が団子を口へ入れながら尋ねる。
「決められた茶会の菓子を、うちがまとめて用意する約束や。他の店を追い出すんやない。数、値、責任を引き受ける代わりに、次も先に声をかけてもらう」
「つまり、毎回試作品が出る?」
「お前はそればっかりやな」
試す品は三つに絞られた。
水飴を薄く塗った焼き茶団子。
茶葉を練り込んだ蒸し羊羹。
保存しやすい炒り米と茶の小菓子。
茶太郎が霊や傷ついた者のために作った料理は、対象から外した。
人の心へ働きかける霊性料理を、金を取って売ることはしない。
売るのは、味と材料を確かめ、宗次と志乃が普通の料理として作り直せるものだけだった。
「志乃はん、もう仲間みたいなもんやないか」
分福が言う。
「材料の減り方を見たら、気づくやろ」
「まだ聞かれてへん」
「聞かれへんのやない。聞かずに待ってくれとるんじゃ」
金長の言葉に、宗次は黙り込んだ。
◇
その頃、志乃は店の奥で減った米粉を量っていた。
「宗次さん」
「なんや?」
「近頃、帰りが遅いねぇ」
宗次の肩が跳ねる。
「寄合や」
「どこの?」
「茶の……」
「茶の、何?」
「茶の今後を考える寄合や」
宗次の目が右へ動き、左へ動き、最後に天井を見た。
志乃は静かに微笑んだ。
「そう。忙しいんやねぇ」
「お、おう」
「夜道には気をつけてね」
それ以上、志乃は聞かなかった。
けれど宗次が出かけたあと、小さな布袋を一つ棚へ置いた。
中には、試作へ使えるよう細かくした上等な米粉が入っている。
翌朝、それを見つけた宗次は何も言えなかった。
志乃も何も言わない。
夫婦は互いに知らないふりをしたまま、同じ計画を支え始めていた。
◇
秘密を危うくしたのは、やはりマキトだった。
ある日の昼。
茶太郎が秘密基地で茶葉を整理していると、マキトが入口の板を直していた。
「マキト。そこ、壊れてたの?」
「宗次殿が昨夜、銭箱へ足をぶつけた際に外れた」
茶太郎の手が止まった。
「父ちゃんが?」
「うむ」
「昨夜、ここに来たの?」
マキトは動きを止めた。
白い顔が、見る見る強張っていく。
「……今の言葉は忘れてほしい」
「どうして?」
「宗次殿が夜ごと秘密基地へ来ていることは、茶太郎へ伏せる約束なのだ」
「夜ごと来てるんだ……」
秘密を二つ続けて漏らしていた。
マキトは槍を置き、茶太郎の前へ正座する。
「すまぬ。戸口を守ることはできても、言葉の戸口を守るのは難しい」
「父ちゃん、何してるの?」
「それは言えぬ」
今度だけは、マキトも口を閉ざした。
「危ないこと?」
「違う」
「誰かを困らせてる?」
「それも違う」
「じゃあ、父ちゃんが話してくれるまで待つ」
茶太郎はそれ以上尋ねなかった。
その日の夕食。
茶太郎は宗次の顔を何度も見た。
「父ちゃん」
「な、なんや?」
「最近、夜に出かけてる?」
宗次の箸が止まった。
志乃も味噌汁の椀を持ったまま、夫を見る。
「たまにや。茶の相談があってな」
「ふうん」
「どうした?」
「何でもない」
茶太郎は素直に頷き、夕食へ戻った。
宗次は胸を撫で下ろす。
その横で、志乃が小さく呟いた。
「目、泳いでるよ」
◇
計画は、ゆっくり進んだ。
三好家へ納める菓子は、決めた数を越えなかった。
森彦右衛門を通じて茶会へ出した蒸し羊羹は評判となり、次の季節にも声がかかった。
公家の茶席からも注文が来たが、宗次は一度に受けすぎなかった。
材料が足りなければ断る。
働く者へ先に取り分を渡す。
茶太郎の名も、霊験も使わない。
残った銭だけを、秘密基地の奥にある箱へ入れた。
ちゃりん。
ちゃりん。
最初は箱の底で寂しく鳴っていた銭が、年を重ねるごとに重い音へ変わっていく。
宇治橋東側の土地についても、宗次は急いで買おうとはしなかった。
道の流れ。
川が増水したときの高さ。
荷車が止まれる広さ。
茶葉と水を安全に置ける場所。
一つずつ調べ、土地の者へ話を通し、将来借りられるよう小さな約束を結んでいった。
「まだ店は建てへんのか?」
金長が尋ねる。
「茶太郎が自分で選べる年になるまで待つ」
「驚かせたいんやろ?」
「驚かせたい。せやけど、押しつけたないんや」
宗次は店の絵を見つめた。
「料理人になるか、茶を売るか、別の道へ行くか。決めるんは茶太郎や。店が要らんと言うたら、別の形で使えるように銭と土地だけ残す」
分福は珍しく、冗談を言わなかった。
「ええ父ちゃんやな」
「急にどうした」
「せやけど商いは甘いだけやないで。これから先、失敗することも、銭が減ることもある」
「分かっとる」
「それでも続ける?」
「自分、不器用やから、やめられまへんな」
宗次が答える。
分福は、にやりと笑った。
宗次も、同じように笑う。
少し離れた場所で、金長が試作品の皿を自分の方へ寄せていた。
「金長はん。それ三つ目やで」
「未来への投資じゃ」
「ただの食べすぎや」
秘密基地に、大人たちの笑い声が響いた。
◇
茶太郎は、その計画を知らないまま成長した。
ただ時折、不思議に思うことはあった。
父の店には、三好家の荷札がついた箱が届く。
森彦右衛門が来るたび、宗次と小声で帳面を確かめる。
志乃は菓子の配合を記した紙を、誰にも見せず大切にしまう。
秘密基地の分福は、ときどき銭の数を数えながら笑っている。
マキトは何か言いかけるたび、自分の口を両手で塞いだ。
けれど茶太郎は、誰かを困らせる味を感じなかった。
父や母から伝わるのは、少しの緊張と、温かな甘さだけだった。
だから、話してくれる日まで待つことにした。
やがて元服を迎える頃。
秘密基地の奥に置かれた銭箱は、一人の若者が店と屋敷を構え、新しい仕事を始めるための財へ育っていくことになる。
その銭が、父と茶釜と食いしん坊の狸による、夜な夜なの密談から始まったことを――。
茶太郎は、まだ知らない。
宗次と茶釜の悪だくみは続きます。
面白いと思っていただけたら、ぜひ評価(★)をお願いします!




