第255話 「土を料理する三つの寝床」
――土へ返す物にも、場所と時と順番がある――
白狐の御祖が示した三つの輪は、婚儀が終わっても消えなかった。
一つ目の輪には、落ち葉と刈り草。
二つ目には、黒くほぐれた土。
三つ目には、青々とした稲。
「この通りに混ぜたら、田が元気になるん?」
稲乃が尋ねる。
「絵だけ真似ても実らぬ」
御祖は尾を揺らした。
「人が飯を食うように、土も物を受け取る。だが、人の食い残しをそのまま土へ押し込めばよいわけではない」
茶太郎は、痩せた田で見つけた白い根を思い出した。
古い藁と泥が腐りきらずに固まり、水を黒く濁らせていた。
「土の中で、まだ食べられる形になってなかったんだ」
「そうや。火を通さぬ豆が腹を苦しめることがあるように、若すぎる草や糞は、土の中で熱を持ち、作物の根を傷めることがある」
かん太が顔をしかめる。
「糞も使うんか?」
「使える物もある。せやけど、何でも一緒にしたらあかん」
御祖が前足を動かすと、地面に新しい印が浮かんだ。
井戸。
川。
炊事場。
その三つから、離れた場所に大きな四角が描かれる。
「土の寝床は、水を飲む場所や飯を作る場所から離す。流れ出した物が井戸や川へ入らぬところを選ぶ」
弥七が周囲を見回した。
「雨水が谷へ落ちる場所も避けなあかんな」
「人の厠から出た物は?」
志乃が尋ねる。
「初めは混ぜぬ方がよい」
御祖は即答した。
「扱いを誤れば病を運ぶ。まずは落ち葉、藁、種を付ける前の草、木を燃やしたあとの灰を少し。それに、敷き藁と混じった家畜の糞を別に寝かせて試せ」
「灰をたくさん入れたら?」
「土を傷める。薬味と同じや。少しで足りる」
茶太郎は木札へ記した。
何でも集めない。
井戸、川、炊事場から離す。
人の厠の物は混ぜない。
病気の獣の糞や、正体の分からない物も入れない。
灰は少量。
子どもだけでは扱わない。
「決まりばっかりやな」
稲乃が言う。
「お稲荷さんを作ったときも、決まりの方が長かったよ」
「うまかったから許す」
御祖は一つ目の輪へ入った。
「まず、三つの寝床を作れ」
一つ目は、乾いた物を多く入れる寝床。
落ち葉、刻んだ藁、枯れ草。
二つ目は、それらへ少量の青い草や家畜の敷き藁を挟む寝床。
三つ目は、何も加えない土。
比べるための場所だった。
「三つ目にも何か入れへんと、かわいそうやない?」
友照が尋ねる。
「何もしない場所がなければ、変わった理由が分からないよ」
茶太郎が答える。
「雨が多かっただけかもしれない。苗が強かっただけかもしれないから」
御祖の黄金の瞳が細くなった。
「そなたは、神の言葉まで疑うのか」
「疑うんじゃなくて、どの田でも同じになるか確かめたいんです」
「よい」
白狐は満足そうに尾を振った。
「信じることと、確かめることは争わぬ」
狐の里と人の里から大人たちが集められた。
土づくりの場所を決めるのは、実際に水の流れを知る里人である。
弥七たちは雨の日の流れを聞き、井戸より低く、川へ直接流れ込まない緩やかな斜面を選んだ。
寝床の周囲には、流れ出した水を受ける浅い溝を掘る。
重い土や刃物を扱うのは大人の仕事。
茶太郎たちは離れた場所で、入れた物と量を木札へ記した。
最初の寝床へ、乾いた落ち葉を敷く。
その上へ刻んだ藁。
さらに土を薄くかぶせる。
水は握って雫が落ち続けない程度。
濡らしすぎず、乾かしすぎない。
二つ目には、乾いた物の間へ青い草と、十分に分けて保管されていた家畜の敷き藁を少し挟んだ。
最後に雨除けの屋根を掛ける。
密閉はしない。
「息が要るんやな」
穂高が言う。
「土の寝床にも空気の通り道が要る」
御祖が答えた。
「熱を確かめ、臭いが強すぎれば広げ、偏りがあれば大人が返す。ただし熱いところへ、子どもが手を入れてはならぬ」
翌日、寝床の中央へ差し込んだ細い木の棒が温かくなった。
三日後には、白い湯気がわずかに立った。
かん太が驚いて近づこうとする。
「火ぃついとるんか?」
「触ったらあかん」
弥七が肩をつかんだ。
大人が長い道具で中を確かめる。
火はない。
だが、草や落ち葉が変わる途中で熱を持っている。
強い臭いが出た二つ目の寝床は、青い草を入れすぎていた。
御祖は答えを教えなかった。
「どうする」
穂高が考える。
「乾いた藁を足して、広げる。水が多い場所は端へ移す」
「やってみよ」
稲乃も袖をまくった。
大人たちが藁を加え、空気が通るように積み直す。
数日後、刺激の強い臭いは弱くなった。
寝床の中では、葉の形が崩れ始めていた。
茶太郎は毎日、色、臭い、温かさ、湿り方を記録した。
ひと月。
ふた月。
春の終わりに作った寝床が、夏の入口を迎える頃。
中身は黒くほぐれ、最初に入れた草の形がほとんど分からなくなった。
御祖が尋ねる。
「食える土になったと思うか」
茶太郎は一握りを取ろうとしたが、志乃に止められた。
「まず大人が確かめてから」
「うん」
大人が臭いと熱を確かめる。
強い腐敗臭はない。
熱も周囲の土とほとんど変わらない。
異物がないことを見てから、茶太郎は布越しに少量を受け取った。
その瞬間。
舌で味わっていないのに、土の中の気配が広がった。
乾いた甘さ。
雨上がりの苦み。
まだ形を変えきっていない草の青さ。
それぞれが、料理の味のように重なっている。
「……聞こえる」
「何が?」
稲乃が耳を近づける。
「声じゃない。土が、もう食べられるって……味で分かる」
茶太郎の胸の奥で、《霊性味覚》が静かに震えた。
これまで感じ取ってきたのは、食べ物と霊の乱れだった。
今は、作物を育てる土の熟れ具合が、淡い味として伝わってくる。
新しい力は、空から豊かな土を降らせなかった。
寝かせる時間を縮めもしない。
ただ、まだ早い物と、次へ進める物の境目を、茶太郎へ知らせた。
茶太郎は帳面に新しい名を書いた。
《土味見》。
そして、その下へ大きく付け加える。
『力だけで決めない。熱、臭い、色と、育ち方も比べる』
「せっかく力が開いたのに、信用せえへんの?」
稲乃が尋ねる。
「ぼくが間違えることもあるから」
「神の教えも確かめ、己の力も確かめるか」
御祖は目を細めた。
「それでこそ、長く使える知恵になる」
完成した土は、痩せた田の全てへ入れなかった。
田の端を四つに分ける。
何も入れない場所。
一つ目の寝床の土を少量入れる場所。
二つ目の寝床の土を少量入れる場所。
量を変えた場所。
苗の数、水の深さ、葉の色を、里人と穂高が記録する。
「これで、すぐ豊作になる?」
友照が期待を込めて尋ねた。
「まだ分からない」
茶太郎は答えた。
「土がよくても、水が漏れたままなら育たない。畦も直して、同じ苗を植えて、最後まで見ないと」
稲乃と穂高は、二人で畦の修繕札を掲げた。
婚儀で結んだ赤紐は、札が風に飛ばされないよう使われている。
役目を飾る紐から、田を守る紐へ。
その夕方、青羽便のシオが一枚の文を運んできた。
伏見からだった。
『繕い所に、腐らせた草を売る男が現れた。
狐の秘法と称し、今夜中に畑へ入れろと言っている』
茶太郎は黒く熟れた土と、届いた文を見比べた。
新しい知恵が生まれれば、それを待てない者が現れる。
そして時には、待たない者を狙って、偽物を売る者も現れる。
「伏見へ戻ろう」
《土味見》が最初に見分けることになったのは、豊かな土ではない。
神の名を借りた、早すぎる土だった。




