第253話 「逃げた花婿と、実らない畑」
――同じ場所から逃げても、逃げた理由まで同じとは限らない――
『相手も、婚儀から逃げた』
白い木札を前に、秘密基地の皆が黙り込んだ。
最初に口を開いたのは、かん太だった。
「狐の嫁入りって、新郎も新婦もおらんでもできるんか?」
「できへんやろ」
友照が答える。
「ほな、中止やな」
「そう簡単には決められないよ」
茶太郎は木札を裏返した。
裏には小さな地図が描かれている。
宇治の東にある山。
細い谷川。
その先に、三本の稲穂を束ねた印。
地図の端には、稲乃の字で一言だけ添えてあった。
『助けて』
「迎えに来い、やなくて、助けてか」
弥七が目を細める。
「花婿を見つけるだけやないんやろな」
茶太郎は頷いた。
「たぶん稲乃は、帰って話した。でも、話し合う相手がいなくなったんだ」
六歳の茶太郎だけで、見知らぬ山へ行くことはできない。
弥七と宗次が付き添い、茶丸と白灯が先を確かめることになった。
かん太と友照も行きたがったが、狐の領域で何が起こるか分からない。
二人には秘密基地で連絡を待ってもらう。
「勝手に追ってきたらあかんぞ」
弥七が念を押す。
「分かっとる」
かん太は答えたが、白灯に足を踏まれていた。
どうやら信用されていないらしい。
一行が山裾へ着くと、白髪の老女が待っていた。
稲乃を迎えに来た、あの老女である。
「茶太郎どの。急なお呼び立て、お許しください」
「稲乃は?」
「里へ戻られております。ご両親へ望みを伝え、婚儀を延ばす約束も取り付けられました」
「よかった」
「ですが、先方の若君が姿を消しました」
花婿の名は、穂高。
稲乃より二つ年上で、山を隔てた社の一族だという。
婚儀の前夜、置き手紙を一枚残して消えた。
『実らぬ田を前に、実りを祝う夫にはなれない』
「婚儀が嫌やとは書いてへんのやな」
弥七が言う。
「はい。稲乃さまとの縁についても、何も」
「どこの田のこと?」
茶太郎が尋ねると、老女は地図にある稲穂の印を指した。
「山向こうの小さな里です。穂高さまが幼い頃から、たびたび訪ねておられました」
「田が悪くなってるの?」
「三年続けて実りが減っております。神事は重ねましたが、戻りません」
「土と水は調べた?」
老女は答えられなかった。
山道を越えると、細長い田が見えてきた。
水は入っている。
だが苗の育ちは揃わず、葉の色も薄い。
田の周囲には、去年の藁が厚く積まれた場所と、土がむき出しになった場所がある。
畦の一部は崩れ、水が少しずつ漏れていた。
茶太郎は田へ下りようとせず、畦の外から様子を見る。
「見ただけでは、何が足りないか決められないね」
「神の血を引く者でも分からぬのですか」
老女が尋ねる。
「稲乃たちが稲を守っていても、田ごとの土の中までは同じじゃないでしょう?」
「……おっしゃる通りです」
茶丸が、田とは反対側の藪へ顔を向けた。
「……ニャッ」
白灯も地面の匂いを嗅ぎ、斜面へ続く足跡を見つける。
人の草履跡。
それに重なる、若い狐の足跡。
跡をたどると、崩れかけた小屋があった。
戸口には空の水筒と、半分に割った握り飯。
その横で、一人の少年が土を握っていた。
日に焼けた顔。
深緑の小袖。
髪には、実の入っていない稲穂が一本差してある。
「穂高さま」
老女が呼ぶ。
少年は顔を上げたが、逃げなかった。
「見つかったか」
「皆さまが捜しておられます」
「婚儀はせぬ」
「稲乃さまも、何も決めずには行わぬと申されました」
穂高の表情が変わる。
「稲乃どのが?」
「ご自分の望みを、ご両親へ伝えられました」
「なら、なおさら戻れぬ」
「どうして?」
茶太郎が尋ねた。
穂高は、手の中の土を開いた。
「私は、稲を守る家の跡取りだ。婚儀を終えれば、新しい田の守り手として皆の前へ立つ」
「うん」
「だが、この里の田は痩せ続けている。里人は供え物が足りないと言われ、残り少ない米まで社へ運んだ。それでも実りは戻らなかった」
穂高は乾いた土を握り直す。
「何もできぬまま美しい衣を着て、豊作を祝うなどできない」
「だから逃げたの?」
「私がいなくなれば、婚儀も祝いも止まると思った」
「田はよくならないよ」
茶太郎が言うと、穂高は唇を噛んだ。
「分かっている」
「稲乃も、逃げただけでは何も伝わらないって気づいた。君も帰って、何を変えたいか話した方がいい」
「戻れば、神事を増やせと言われるだけだ」
「それなら、この田で起きていることを先に書こう」
茶太郎は帳面を開いた。
苗の育ちが揃わない。
畦から水が漏れている。
藁の積み方に偏りがある。
土の色と固さが場所ごとに違う。
何年、どのくらい収穫が減ったのかは、里人へ聞かなければ分からない。
「神事が悪いって決めるんじゃない。神事だけで直るとも決めない。水と土と作り方を、一つずつ確かめよう」
「そなたは、田も分かるのか?」
「少ししか分からない。だから、作っている人と、土を知る人に教えてもらう」
穂高は意外そうに茶太郎を見た。
「答えを持ってきたのではないのか」
「持ってきたのは、何を確かめるか書く帳面だけだよ」
そのとき、背後の藪が大きく揺れた。
赤茶色の狐が飛び出し、空中で少女の姿へ変わる。
「穂高!」
「稲乃どの?」
稲乃は勢いのまま穂高へ近づき、その額を指で弾いた。
「痛っ」
「何で逃げたんや!」
「そなたも逃げたと聞いたぞ!」
「うちは帰った!」
「私も戻るつもりだった!」
「いつや!」
「田を直してからだ!」
「一人で直せるんか!」
「……直せぬ」
「ほな、先に言え!」
山へ響くほど怒鳴ったあと、稲乃は肩で息をした。
穂高は額を押さえながら、頭を下げる。
「すまなかった」
「うちにやない。捜し回った皆と、この里の人にや」
「分かっている」
稲乃は茶太郎の帳面を覗き込んだ。
「田の悪いところを調べるんやな」
「うん。でも勝手に土へ何かを混ぜたらだめ。小さく区切って試して、変化を比べる」
「婚儀より先に?」
老女が困惑した声を上げる。
稲乃と穂高は、互いの顔を初めて真正面から見た。
「そなたは、婚儀が嫌なのか」
穂高が尋ねる。
「知らん相手へ黙って嫁ぐんが嫌やった」
「では、今は?」
「まだ知らん。せやから話す」
稲乃も問い返す。
「そっちは、うちが嫌なんか?」
「嫌うほど、そなたを知らない」
「同じやな」
二人の間から、少しだけ険しさが消えた。
穂高は立ち上がり、手に付いた土を払う。
「戻って話そう。婚儀をするかどうかも、この田をどう支えるかも」
「逃げずに?」
「そなたもな」
「うちは、もう逃げへん」
二人は並んで山道を下り始めた。
その背を見送りながら、茶太郎は痩せた田を振り返る。
田の隅に、ひときわ育ちの悪い一角がある。
白灯がその土へ近づき、すぐに鼻を離した。
「にゃっ」
茶丸も前足で地面を掻きかけ、動きを止める。
土の下から現れたのは、白く絡み合った細い根だった。
生きた稲の根ではない。
古い藁と泥が、腐りきらずに固まっている。
その周囲だけ、水が黒く濁っていた。
「全部の田に、同じことをしたらあかん」
いつの間にか、畦の向こうへ白い狐が座っていた。
目の色は、稲が実る直前の黄金。
老女が息を呑み、地へ伏した。
「御祖さま……」
白狐は茶太郎を見つめた。
「土には、食わせる順番がある。その順番を知りたくば、狐の嫁入りへ来るがよい」
晴れた空から、細かな雨が降り始める。
稲乃が山道の先から振り返った。
「茶太郎! 招待されたで!」
田の水面に陽光と雨粒が重なり、幾重もの小さな輪を描いた。
婚儀を行うかどうかは、まだ決まっていない。
それでも狐たちは、その日に備えて道を開き始めていた。




