↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
PR
260/338

第252話 「狐の迎えと、茶太郎のお稲荷さん」

 ――帰るとは、黙って従うことではない――


 秘密基地の外に立っていたのは、武装した追手ではなかった。

 白髪を赤い紐で結んだ老女と、四人の若者。

 全員が旅装をしており、腰に刀はない。

 手にしているのは、稲穂を結んだ細い杖と、小さな鈴だけだった。


 弥七やしちが確かめる。


稲乃いなのを連れ戻しに来たんか」


「迎えに参りました」


 老女は静かに答えた。


「無理に縛って連れ帰るつもりはございません。ですが、このままでは山も里も捜索を続けます」


「婚儀は?」


「三日後に迫っております」


 秘密基地の中で、稲乃の尻尾が膨らんだ。


「やっぱり連れ戻す気や!」


 扉を開けて飛び出そうとする稲乃を、茶太郎は止めなかった。

 その代わり、木札を差し出す。


「言いたいことを書いてから出た方がいいよ」


「今から書いとったら遅いやろ!」


「口だけだと、怒ったときに忘れるかもしれない」


 稲乃は一歩進み、それから戻ってきた。


「……筆を貸して」


 茶太郎は、自分で字を書くのが難しいところを志乃に手伝ってもらい、木札へ三つの望みを記した。


 一つ。

 嫁ぐ相手と、婚儀の前に直接話すこと。


 一つ。

 嫁いだ後も宇治や人里へ下り、田畑と暮らしを自分の目で見ること。


 一つ。

 社の役目を夫婦だけに背負わせず、家の者と分けること。


 稲乃は三つを読み返し、さらに付け加えた。


「嫌や言うたら、日を延ばすこと」


 志乃が最後の一文を書く。

 稲乃は木札を持ち、今度こそ入口から外へ出た。

 老女が深く頭を下げる。


「稲乃さま。ご無事で何よりでございました」


「婆さま。うちは、まだ帰ると決めてへん」


「承知しております」


「婚儀の前に、相手へ会わせて」


「そのためにも、まずお戻りください」


「戻った途端、衣を着せて社へ閉じ込めるんと違うやろな」


「そのようなことはいたしません」


「口だけでは信じられへん」


 稲乃は木札を見せた。


「これを、うちの父と母にも読ませて。三つとも話し合うまで、婚儀は始めへん」


 老女はすぐには受け取らなかった。


「この条件を、どなたがお考えに?」


「うちや」


 稲乃は胸を張った。

 それから小さな声で付け加える。


「……書く順番だけ、茶太郎に手伝うてもろた」


 老女の視線が、六歳の茶太郎へ向く。


「そなたが、宇治の茶太郎どのですか」


「はい」


「姫をかくまわれたので?」


「お客として入口から入ってもらいました。でも、黙って隠すつもりはありません」


「なぜ帰るよう勧めたのです」


「逃げたままだと、稲乃の嫌なことだけじゃなく、変えたいことも伝わらないからです」


 老女は茶太郎をしばらく見つめた。

 やがて、稲乃の木札を両手で受け取る。


「この三つ、必ず御前で読み上げましょう。婚儀を行うかどうかは、その後です」


「ほんまやな?」


「稲を守る者が、実らぬ約束を口にしてはなりませぬ」


 稲乃の狐耳が、わずかに起き上がった。

 話がまとまりかけたところへ、豆腐屋の主人が坂道を上ってきた。

 手には蓋付きの籠を抱えている。


「茶太郎。頼まれた試し物、持ってきたぞ」


「もうできたの?」


「薄う切った豆腐を油へ入れたら、うまいこと膨らんだ。ただし油の火は怖い。子どもが真似したらあかんし、職人でも目を離したらあかん」


「うん。作り方と一緒に、火へ近づかない決まりも書く」


 籠の中には、黄金色に揚がった薄い豆腐が並んでいた。

 熱い油を使う工程は、豆腐屋の主人と大人だけが行った。


 秘密基地では火を使わない。

 一行は宗次の家の炊事場へ移り、志乃が揚げた豆腐を湯へ通して余分な油を落とした。


 それを出汁と少量の味噌で煮る。

 甘い調味料を多く使えないため、煮切った甘酒を少し加えて角を取った。

 十分に冷ましてから、端をそっと開く。

 中には、米を入れられる空洞ができていた。


「袋になった!」


 友照が目を輝かせる。


「詰めすぎたら破れるで」


 志乃に教えられ、茶太郎たちは冷ました具入り飯を小さく丸めた。

 手を清め、豆腐の袋へ一つずつ入れる。


 青菜と胡麻を混ぜた物。

 刻んだ茸を混ぜた物。

 何も混ぜない白飯。

 外から区別できるよう、袋の口の折り方を変えた。


「白飯は一つ折り。青菜は二つ折り。茸は横へ倒す」


「字を読めへん人にも分かるな」


 かん太が嬉しそうに並べる。

 最初の味見は、豆腐屋の主人と志乃が行った。


 傷みがないことを確かめてから、子どもたちへ一つずつ渡される。

 稲乃は白飯入りを両手で持った。


「これ、狐の耳みたいやな」


 尖った二つの角を見て、白灯も首を傾げる。


「にゃ?」


 稲乃が一口かじった。

 甘酒の穏やかな甘みと、出汁を含んだ豆腐の味が、温かい米へ染みている。


 狐耳が立つ。

 尻尾も立つ。

 だが稲乃は、すぐには感想を口にしなかった。


「どう?」


 茶太郎が尋ねる。


「……まだ分からん」


 もう一口。


「稲乃、尻尾が答えてるよ」


「尻尾は別や!」


 三口目を食べ終える頃には、険しかった表情がすっかり消えていた。


「名前は決めたんか?」


「まだだよ」


「なら、《茶太郎のお稲荷さん》にしよ」


「どうしてぼくの名前?」


「うちが帰るきっかけになった飯やからや。それに、稲乃の『稲』も入っとる」


「お稲乃さん、じゃないの?」


「それでは、うちの名前そのままやろ!」


 笑い声が炊事場へ広がった。

 茶太郎は木札へ、試作品の名を書いた。


 《茶太郎のお稲荷さん》。


 ただし、その下には小さく注意も記す。


 揚げ仕事は大人が行う。

 油から目を離さない。

 作った日のうちに食べる。

 具によって口の折り方を変える。

 食べる者に合わない材料は入れない。


「名前より、決まりの方が長いな」


 稲乃が笑う。


「安全に作れないと、次も食べられないから」


「ほな、次も作るんやな?」


「うまくいかなかったところを直してからね」


 稲乃は残っていた一つを、老女へ差し出した。


「婆さまも食べて」


「よろしいのですか」


「帰り道で、うちが逃げた理由をちゃんと聞いてほしい。その話をするための飯や」


 老女は両手で受け取った。


「承りました」


 稲乃は赤紐を結び直し、狐の一行へ加わった。

 森へ入る直前、茶太郎を振り返る。


「三日後、雨が降っても晴れてても、空を見とき」


「どうして?」


「話がまとまったら、迎えを出す」


「まとまらなかったら?」


「また入口から来る」


 稲乃は笑い、赤茶色の狐へ姿を変えた。

 鈴の音とともに、一行が木々の奥へ消えていく。


 その翌朝。

 秘密基地の入口に、稲穂で編んだ小さな輪が掛けられていた。

 輪の中央には、白い木札が一枚。


『相手も、婚儀から逃げた』


 茶太郎たちは、揃って空を見上げた。

 狐の嫁入りは、まだ始まる前から二人の新郎新婦を見失っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
面白いと思っていただけたら、ぜひブックマークや評価(★)をお願いします!
『茶太郎がゆく』
style=
目次からブックマークをお願いします
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。