第251話 「逃げた狐姫と、包まれたご飯」
――答えを急ぐ前に、何から逃げてきたのかを聞く――
森の奥で鳴り始めた鈴は、一つではなかった。
ちりん。
ちりん。
音は少しずつ宇治の秘密基地へ近づいてくる。
狐耳の少女は素早く立ち上がり、逃げ道を探した。
「裏から出る!」
「待って」
茶太郎が呼び止める。
「何や。うちを捕まえて渡すんか?」
「君が誰かも、追ってくる人が何をしに来るのかも分からない。だから、先に大人を呼ぶ」
「大人を呼んだら、連れ戻されるやろ!」
「子どもだけで隠したら、もっと大きな騒ぎになるよ」
少女は歯を食いしばった。
尻尾が大きく膨らんでいる。
茶太郎は、逃げ道を塞ごうとはしなかった。
「逃げたいなら止められない。でも、山へ戻ったら、追う人とぶつかるかもしれない」
かん太も耳を澄ませる。
「鈴は二手に分かれとる。山道と川沿いや」
「先回りされてるね」
「何で分かるんや」
少女が驚くと、かん太は胸を張った。
「俺らの秘密基地やぞ。この辺の道なら知っとる」
白灯が入口へ立ち、森の方角を見張る。
茶丸は少女の隣へ座った。
「……ニャッ」
「何や、黒いの」
「茶丸は、逃げる前に話せって言ってるのかも」
「猫のくせに偉そうやな」
「そっちも狐やろ」
かん太が言い返すと、少女の狐耳がぴくりと動いた。
茶太郎は友照へ、弥七を呼びに行ってもらった。
その間、少女を秘密基地の中へ招き入れる。
隠すためではない。
入口から入ると決めた、最初の客としてだった。
「それで、どうして嫁入りが嫌なの?」
茶太郎が尋ねると、少女は膝を抱えた。
「知らん相手やからや」
「会ったことがないの?」
「遠目に一度だけ見た。向こうは礼をして、うちは木の陰から見ただけや」
「どんな人?」
「知らん。声も聞いてへん」
「なら、嫌なのはその人?」
「……違う」
少女は唇を尖らせた。
「嫁いだら、決められた社を守れと言われる。決められた時に笑うて、決められた祭で舞うて、勝手に山へも町へも下りたらあかん」
秘密基地の壁には、子どもたちが持ち寄った物が並んでいる。
曲がった木片。
珍しい石。
乾かした花。
使い終えた木札。
どれも立派な宝ではない。
けれど、誰かに置き場所を決められた物でもなかった。
「ここはええな」
少女が呟く。
「身分も役目も聞かれへん。失敗しても、次に何するか話し合う。飯まで作る」
「だから毎日見てたの?」
「毎日やない。三日に一度くらいや」
「昨日も、一昨日もいたよ」
「細かいことを数えるな!」
狐耳が真っ赤になった。
そこへ弥七と志乃が駆けつけた。
事情を聞いた弥七は、少女から距離を取って腰を下ろす。
「追う鈴の者へ、ここにおるとはまだ伝えへん。ただし、危ない真似をする者かどうかは確かめる」
「うちの家の者や。危害は加えへん」
「ほな、何で逃げる?」
「連れ戻すからや!」
「連れ戻されるんと、傷つけられるんは別や」
少女は黙り込んだ。
志乃は狐耳にも尻尾にも驚かなかった。
ただ、少女の手と顔を見た。
「昨日から、握り飯しか食べてへんのと違う?」
「水も飲んだ」
「それは食べたうちに入らへん」
志乃は持ってきた籠を開いた。
中には炊いた米と、煮た野菜が入っている。
それに、近所の豆腐屋から分けてもらった薄い豆腐があった。
形が崩れ、店へ出せなかった物だという。
「これを試そうと思ってたんやけど、話が先やな」
茶太郎は薄い豆腐を見つめた。
前世で食べた、甘辛い袋に包まれた酢飯を思い出す。
けれど、目の前の豆腐は薄すぎて、そのままでは米を包めない。
「これ、油で揚げたら膨らむかな」
「熱い油は危ないで」
志乃がすぐに釘を刺す。
「うん。ぼくは近づかない。豆腐屋さんに試してもらえないかな」
少女の耳が立った。
「油で揚げた豆腐?」
「知ってるの?」
「山の麓の店で食べた。狐の姿やったから、端しかもらえへんかったけど」
「好き?」
「別に」
尻尾が大きく左右へ揺れた。
白灯がそれを追って首を動かす。
「にゃ、にゃ、にゃ」
「見るな!」
茶太郎は炊いた米へ、細かく刻んだ煮野菜を混ぜた。
味は薄くする。
狐の姿でも食べられるよう、葱や刺激の強い物は入れない。
それを小さく握り、薄い豆腐で挟んでみた。
だが、持ち上げると崩れてしまう。
「あかんね」
「握り飯だけでええやろ」
かん太が言う。
「でも、包めたら乾きにくくなるかもしれない。手も汚れにくいし、中に何が入ってるか分けられる」
味のためだけではない。
運びやすさと、食べる人に合わせて中身を変えられる形。
茶太郎は木札へ、米を包む袋の絵を描いた。
「揚げた豆腐を開いて、煮汁を含ませて、ご飯を入れる」
「名前は?」
友照に尋ねられ、茶太郎は狐耳の少女を見る。
「まだ試してないから、名前はあと」
「ほな、うちが味見したる」
「君だけで決めたらだめだよ。人が食べる分と、狐の姿で食べる分は材料を分けて確かめないと」
「面倒やな」
「面倒なところを飛ばすと、食べた人が困るから」
少女は茶太郎の木札を覗き込んだ。
「そなた、ほんまに六つか?」
「うん」
「何で、すぐに答えを出さへんのや」
「分からないことが多いから」
「うちの嫁入りも?」
「うん。君の話だけ聞いて、家の人が全部悪いとは決められない」
少女の表情が曇る。
「ほな、帰れ言うんか」
「帰った方がいいと思う」
茶太郎は静かに答えた。
「でも、何も言わずに元へ戻るんじゃない。嫌なことと、確かめたいことを木札にして持って帰る」
「嫁ぐ相手に会わせろ、と書いてもええんか?」
「うん。会って、話して、それでも嫌なら、どうして嫌なのか言える」
「社の役目を変えたいとも?」
「それも話した方がいい。逃げたままだと、君の考えは誰にも届かないよ」
少女は長い間、木札を見つめた。
やがて一本の指で、袋に包まれた握り飯の絵をなぞる。
「これがうまかったら、帰る」
「料理と話し合いは別だよ」
「きっかけは要るやろ!」
その言葉には、先ほどまでの強がりとは違う響きがあった。
本当は帰りたい。
だが、自分から帰る理由が見つからないのだ。
茶太郎は頷いた。
「じゃあ、試作ができるまで、追ってきた人に待ってもらおう」
弥七が立ち上がる。
「俺が鈴の者と話す。姿を現すんは、相手の名と用件を確かめてからや」
「うちも行く」
「今は待て。会う順番を決めるんも、逃げずに話すための準備や」
少女は渋々座り直した。
森の鈴が、秘密基地のすぐ近くで止まる。
外から、低く穏やかな声がした。
「稲乃さま。お迎えに参りました」
少女の肩が跳ねた。
茶太郎は、その名を繰り返す。
「稲乃っていうの?」
「……そうや」
少女——稲乃は、赤紐を握り締めた。
「宇迦之御魂神の御裔、稲乃。稲と食を守る家の、逃げ出した姫や」
秘密基地の外で、再び鈴が鳴った。
その音に重なるように、志乃が持ってきた木札へ一滴の雨が落ちる。
空は、まだ晴れていた。




