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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
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第250話 「握り飯を盗む狐と、秘密基地の新しい客」

 ――客には入口があり、悩みには出口がある――


 赤茶色の狐は、茂みの奥から茶太郎たちを見つめていた。


 細い鼻先。

 ぴんと立った耳。

 春の日を集めたような毛並み。

 野の獣にしては汚れが少なく、首には細い赤紐が結ばれている。


「狐や!」


 かん太が声を上げた瞬間、狐は尻尾を翻して藪の中へ消えた。

 茶丸が低く身を伏せる。


「……ニャッ」


 白灯あかりも、狐の消えた方角へ駆け出そうとした。


「待って」


 茶太郎が呼び止めると、二匹は不満そうに振り返った。


「追いかけたら、もっと隠れるよ」


「にゃあ……」


 白灯には納得できないらしい。

 影猫衆の縄張りから、握り飯が盗まれたのである。

 しかも、猫たちが目を離したわずかな間に。


 茶太郎は葉の上に残った米粒を調べた。


 握り飯は一つだけ。

 味噌を塗った物も、塩を振った物も残っている。

 なくなったのは、何も付けていない小さな握り飯だった。


「たまたまかな?」


 友照が尋ねる。


「まだ分からない。もう一度だけ確かめよう」


 だが、野の獣へ無闇に食べ物を置くわけにはいかない。

 食べ残しが腐れば虫や鼠を呼ぶ。人の食べ物に慣れさせれば、畑や家へ入るようになるかもしれない。


 茶太郎たちは弥七やしちへ事情を話し、見守れる昼の間だけ、少量を置く許しを得た。


「捕まえる罠は仕掛けたらあかんぞ」


「うん。何をするか見るだけ」


「日が落ちる前に、残った物は必ず片づけるんや」


 翌日、秘密基地の外へ三つの小さな握り飯を並べた。


 一つは、何も付けない白飯。

 一つは、刻んだ青菜入り。

 一つは、薄く味噌を塗った物。

 その近くへ水を張った椀も置く。


 子どもたちは基地の板壁に細い隙間を作り、息を潜めた。


 茶丸は入口の右。

 白灯は左。

 二匹とも、尻尾だけが忙しなく揺れている。


 しばらくして、草がかすかに動いた。


 赤茶色の耳が現れる。

 狐はすぐには近づかなかった。


 一度、風の匂いを嗅ぐ。

 二度、周囲を見回す。

 三度目に、ようやく握り飯の前へ座った。


 前足を伸ばしたのは、白飯だった。


「やっぱり、味のないのを選んだ」


 茶太郎が囁く。


 狐は白飯を半分ほど食べたところで、ぴたりと止まった。

 茶丸の尻尾が壁へ当たったのだ。


 ぱたん。

 狐の耳が秘密基地へ向く。


 茶丸は動かない。

 白灯も動かない。


 しかし、狐は何かを知っているように目を細めた。

 そして残りの握り飯をくわえ、藪へ戻っていった。


「逃げた……」


 友照が息を吐く。


「まだや」


 かん太が隙間から外を見た。

 ほどなくして狐は戻ってきた。


 口には、食べ残した握り飯がない。

 代わりに、一枚の青い木の葉をくわえていた。


 狐は葉を白飯の置かれていた場所へ置き、前足で二度押さえた。

 青菜入りにも味噌付きにも手を出さず、水を少し飲んで去っていく。

 葉の表には、細い爪で稲穂のような印が刻まれていた。


「代金のつもりやろか」


 かん太が首を傾げる。


「狐が、そんなことする?」


 友照の問いに、誰も答えられなかった。


 翌日は、握り飯を置かなかった。

 代わりに、茶太郎は木札を立てた。

 字だけでは狐に読めないかもしれない。そこで、開いた扉と、椀と、人が頭を下げる絵を描いた。


 その下へ短く書く。


『食べたいなら、入口から』


「狐に礼儀を教えるんか?」


 六助が笑った。


「盗むつもりじゃなかったかもしれないから、こっちの決まりを知らせるの」


 日が傾くまで、狐は現れなかった。


 茶太郎たちは木札を片づけようと外へ出た。

 そのとき、秘密基地の屋根から小石が転がり落ちた。


 ころん。

 ころころ。


 全員が見上げる。

 狐が屋根の上へ座っていた。


「いつの間に……」


 白灯が毛を逆立てる。


「にゃあっ!」


 狐は驚きもせず、前足で顔を洗った。

 茶丸が屋根へ飛び上がろうとしたが、茶太郎が抱き止めた。


「お客かもしれないよ」


「……ニャッ」


「まだ盗人と決まってない」


 茶太郎は屋根の狐へ声をかけた。


「昨日の葉っぱ、ありがとう。でも、ここはぼくらの秘密基地なんだ。勝手に入ったらだめだよ」


 狐は前足を止めた。


「食べ物が欲しいなら、大人と相談して分けられる物を決める。畑から取るのも、台所へ入るのもだめ」


 狐は尻尾を一度だけ振った。


「ここへ来たいなら、入口から来て」


 しばらく沈黙が続いた。

 かん太が茶太郎の袖を引く。


「狐に話しても分からへんのと違う?」


 その瞬間だった。


「分かっとるわ」


 屋根の上から、少女の声が落ちてきた。


 子どもたちは一斉に固まった。

 茶丸と白灯まで、目を丸くしている。


 狐は身軽に屋根から飛び下りた。

 地面へ足が触れた途端、赤茶色の毛並みが春霞に包まれる。


 霞の中から現れたのは、茶太郎より少し年上に見える少女だった。


 短く切った黒髪。

 勝ち気な琥珀色の瞳。

 動きやすい小袖の腰には、狐と同じ赤紐が巻かれている。


 頭の上には、隠しきれなかった二つの狐耳。

 背後では、大きな尻尾が苛立たしげに揺れていた。


「盗んでへん。あれは供え物やと思うたから、いただいただけや」


「ここ、お社じゃないよ」


 茶太郎が答えると、少女は言葉に詰まった。


「そ、それなら次から入口を使う」


 彼女は木札に描かれた扉を見て、腕を組んだ。


「せやけど、うちは客やない。たまたま近くを通っただけや」


「何日も?」


「……何日もや」


「毎日、ぼくらを見てたの?」


「見張ってたんやない。見物してただけや」


 少女は胸を張ったものの、腹が小さく鳴った。

 ぐう。


 白灯が尻尾を立てる。


「にゃ」


「笑うな、白いの!」


「白灯だよ」


「名前なんか聞いてへん!」


 茶太郎は笑わず、秘密基地の入口を開けた。


「残ってるご飯があるか、大人に聞いてくる。君の分があるなら、ここで一緒に食べよう」


「施しはいらん」


「じゃあ、あの葉っぱの分」


 少女は再び言葉に詰まった。

 茶太郎が入口の横へ座ると、友照たちも少し離れて腰を下ろした。

 茶丸と白灯だけは、少女の左右を固めている。


「名前は?」


 茶太郎が尋ねた。

 少女は赤紐へ触れ、視線を逸らした。


「今は言えへん」


「帰るところは?」


「ある」


「帰れないの?」


「帰らへんのや」


 強い言葉だった。

 だが、揺れた狐耳は、少女の迷いを隠せていなかった。


「家の人が心配してるかもしれないよ」


「心配してるんやない。探してるだけや」


「どうして?」


 少女はしばらく黙っていた。

 やがて秘密基地の仲間たちを一人ずつ見回し、茶太郎の前へ身を乗り出す。


「六つの子でも、人の悩みをほどくって聞いた」


「誰から?」


「風と雀と、口の軽い鳩からや」


 青羽便の誰かが聞けば、きっと抗議しただろう。

 少女は声を落とした。


「なら、うちの悩みにも答えてみい」


 琥珀色の瞳が、まっすぐ茶太郎を見つめる。


「決められた相手へ嫁げと言われたら、どうしたらええ?」


 春の夕空は晴れている。

 それなのに、秘密基地の屋根へ、雨粒が一つだけ落ちた。

 少女はその音を聞くなり、狐耳を伏せた。


「まずい。もう見つかったかもしれへん」


 遠くの森で、いくつもの鈴が鳴り始めた。

 赤い狐の姫を探す、不思議な行列が宇治へ近づいていた。


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『茶太郎がゆく』
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