第249話 「最初の繭と、売らなかった一筋」
――最初にできた物ほど、急いで値を付けてはいけない――
綾の蚕小屋に、最初の白い繭ができた。
その翌日には三つ。
さらに次の日には、籠のあちこちで蚕が糸を吐き始めた。
細い枝を組んだ枠の間へ身体を置き、自分の周りへ糸を重ねていく。
一巻き。
また一巻き。
白い影が少しずつ厚くなり、やがて中の蚕が見えなくなる。
「触ってもいい?」
六助が尋ねると、綾は首を横に振った。
「まだあかん。繭を作り始めた蚕は動かさん。枠も揺らさんといて」
茶太郎たち子どもは、蚕小屋の外から記録するだけになった。
どの籠から、いつ繭を作り始めたか。
桑と楮の札を替えられた籠か。
途中で食べる量が戻った蚕か。
異変のなかった籠と比べ、繭になるまでの日数に違いがあるか。
元気になったように見えた蚕も、全てが同じ大きさの繭を作ったわけではない。
小さい繭。
形の崩れた繭。
薄く、中が透けて見える繭。
しっかりと白い糸を重ねた繭。
「できた物だけ見たら、全部白い繭や」
綾が言った。
「せやけど、育った途中を記してへんかったら、何で違いが出たか分からへん」
最初の繭がそろい始めたと聞き、京から一人の糸商人が訪ねてきた。
錦屋利右衛門とは取引のなかった、小さな問屋の主だった。
「水輪と内藤家が進める初糸なら、高う売れる。繭のままで買い取ろう」
差し出された値は、村人たちが予想したものより高かった。
桑苗の植え直し。
蚕を育てた者の賃銭。
水路直しの負担。
失った分を補うには、ありがたい申し出だった。
それでも綾は、すぐに売らなかった。
「まだ糸にしてへん」
「繭を見れば分かる。白うて形もええ」
「外から見えるところだけで値を決めたら、偽荷と同じや」
商人は言葉を失った。
三方へ送られた偽荷も、外から見える上側には上等な糸が入っていた。
中まで確かめず、名と見た目だけで値を付ければ、同じ失敗を繰り返すことになる。
「ほな、糸にしたら売ってくれるか?」
「糸にしただけでも売らへん。まず、どれだけ取れて、どれだけ切れて、どれを残すか確かめる」
「残す?」
繭は全てを糸へするものではなかった。
次の蚕へ命をつなぐため、蛾になるまで残す繭も要る。
弱った籠からできた繭を、見た目だけで次へ残してよいかも慎重に考えなければならない。
綾は元気な籠の繭から、次へ残す候補を分けた。
糸にする繭。
次代へ残す繭。
形が崩れ、一本の長い糸にはしにくい繭。
異変のあった籠からでき、すぐほかと混ぜずに置く繭。
四つは、別々の籠へ入れられた。
札だけでなく、籠の持ち手に異なる刻みを入れる。
移すたびに二人で確かめる。
お藤は、形の崩れた繭を見つめた。
「長い糸が取れへんかったら、捨てるん?」
「真綿に回せる物もある」
「ほな、下京の女衆に試させて」
一本の長い糸にはならなくても、繭をほぐして重ねれば、柔らかな綿状の材料になる。
衣の間へ薄く入れる。
擦れやすい場所を守る肌当ての試作に使う。
ただし、異変のあった繭を、何も確かめず人の肌へ使うことはしない。
綾が状態を分け、扱ってよいと判断した物だけを渡す。
「良い繭だけ買うたら、形の悪い繭を育てた人には銭が残らへん」
お藤が言った。
「でも、全部を同じ値にしたら、丁寧に育てた違いも消えてしまう」
茶太郎は、繕い所で古金を分けたときのことを思い出した。
全てを重さだけで売らない。
全てを同じ物として扱わない。
それぞれに残っている役目を調べる。
「使い道ごとに、値を分けたらどうかな」
長く均一な生糸になる繭。
真綿へ回せる繭。
次へ残すため売らない繭。
状態が分かるまで使わない繭。
売れない物にも、育てた記録と数は残す。
失敗した分を一人へ押しつけず、桑を育てた者、蚕を世話した者、糸を取る者、運ぶ者の取り分を先に決める。
糸問屋にも仕事は残された。
品質を確かめる。
湿らせず保管する。
必要な量をまとめる。
下京や京の織り手へ運ぶ。
ただし値と良し悪しを、一人では決めない。
「私らと一緒に帳面を持てるなら、取引します」
綾が商人へ告げた。
商人は、しばらく四つの籠を見比べた。
「分かった。せやけど、商いにならんほど細かい決まりなら続かへん。かかった手間も帳面へ入れてくれ」
「それも書く」
綾は答えた。
作り手だけが無理をしても続かない。
運ぶ者や商う者へ、正しい働きの銭が残らなくても続かない。
誰かを道から追い出すのではなく、誰が何をしたか見える道へ変えることになった。
繭から糸を取る試しの日。
熱い湯と火を使う作業は、経験のある大人たちだけで行った。
子どもは火床から離れ、糸の長さと切れた回数を記録する。
茶丸と白灯も、作業場の縄より内側へ入らない。
綾は、ほぐれ始めた細い糸口を見つけた。
一本では弱い糸を何本か合わせ、切れないよう静かに引いていく。
白い繭から、光を含んだ糸が伸びた。
お藤が息を呑む。
「こんな細いもんが、布になるんやな」
「一筋だけでは布にならへん」
綾は糸を切らさないよう、手元を見たまま答えた。
「何本も合わせて、撚って、運んで、織って、やっとや」
最初に取れた生糸は、売らなかった。
幕府へも、内藤家へも献上しない。
水輪の新商品として見せることもしなかった。
綾の村。
お藤の仕事場。
立ち会った糸問屋。
伏見の《縁扉》。
四か所へ分け、試し糸として保管する。
どの繭から、誰が、いつ取った糸か。
切れた回数と、取れた長さ。
全て同じ記録を添えた。
偽の水輪印は押さない。
代わりに、桑の葉、繭、糸巻き、受け取る手の四つの印を、別々の者が一つずつ入れた。
どれか一人では完成しない印だった。
夕餉に、茶太郎は粟と茸の炊き込み飯を作った。
桑の葉も実も使わない。
蚕の分を、人が祝いだからと取り上げないためだった。
お藤と綾は、同じ膳を挟んで座った。
「下京へ来るんやろ?」
「蚕を置いて、ずっとは行けへん」
「ほな、私が丹波へ来る」
「仕事場はどうするん」
「任せられる人を育てる」
二人がまた離れても、仕事は止まらない。
誰か一人がいなければ動かない場所にはしない。
最初の糸は売られなかった。
けれど、その一筋から、桑畑と蚕小屋と女衆の働き場と、正直に商う問屋を結ぶ道が始まった。
数日後、宇治へ戻った茶太郎を、秘密基地の仲間たちが迎えた。
ところが、供えてあった小さな握り飯が一つだけ消えている。
地面には、猫とも犬とも違う足跡。
茂みの奥で、赤みを帯びた尾が揺れた。
「……狐?」
茶丸が目を細める。
「ニャッ」
誰かに見つかった狐は逃げるはずだった。
だがその狐は、枝の間から顔を出し、茶太郎たちの楽しげな様子をもう一度のぞき込んだ。




