第248話 「父の古文と、道を閉じた元水守」
――守りたいという思いも、他人の暮らしを壊せば刃になる――
久世源右衛門。
かつて日置雪の父に仕え、丹波の四つの村へ水の日を伝えていた元水守。
その名が出たあとも、茶太郎はすぐに源右衛門を悪人とは決めなかった。
「名前が書いてあったの?」
「いや」
弥七が答える。
「利右衛門が聞いたんは、水の取り決めを預かる男や。昔の名簿で姿が見えへんのが、源右衛門やった。それだけや」
「じゃあ、まだ確かめないと」
疑う理由はある。
しかし、名簿に一人だけいないから犯人だと決めれば、偽の印を信じた者たちと同じになる。
茶太郎たちは、《縁扉》へ事件で使われた物を並べた。
役目を終えた幕府方の通行文。
昔の水の取り決め。
使わなくなった欠け水輪印。
古い荷札。
どれも新しく作られた偽物ではなかった。
昔は本物として使われ、今は役目を終えた物ばかりである。
「古い物を集められる人や」
千代が言った。
「それと、どの印が何に使われとったか知ってる人」
「でも、水輪の古い印までどうやって知ったんだろう」
茶太郎は、空になっていた小箱を思い出した。
繕い所には多くの者が出入りする。
壊れた印の処分を後回しにしていたことも、誰かが見れば分かる。
源右衛門一人だけが知れた情報ではない。
雪はしばらく考え、一通の古文を取り出した。
父が存命だった頃、丹波から伏見へ荷を通した記録である。
紙の端には、利右衛門の指示書に残っていたものと似た花押があった。
「これ、敵の花押やないんか?」
六助が尋ねる。
「違う」
雪の声が震えた。
「父の花押です」
薄く残った形を、敵対する者の文で見たと思ったのは間違いだった。
雪の父の古い文そのものが、切り取られて使われていたのだ。
「父の文は、家が乱れたときに失われたと思うてた」
「誰かに預けてへんかった?」
茶太郎が尋ねた。
雪は目を閉じ、幼い頃の記憶を探った。
「源右衛門です。水の文も、道の文も、村で必要になるからいうて……父が預けた」
古文書が保管されていたのは、樫村よりさらに上流の《水守小屋》だった。
水路を見回る者が休み、村々へ届ける木札や縄を置いていた場所である。
源右衛門が役目を退いてから、小屋を使う者はいない。
日置雪は内藤家に縁のある使者と、上流の水守・弥兵衛、町役の大人たちとともに水守小屋へ向かった。
弥七も同行する。
茶太郎たち子どもは、樫村の寄合所に残った。
源右衛門が武器を持っている可能性も、古文を焼こうとする可能性もある。
影猫衆は茶丸だけが大人たちの近くで周囲を見張り、ほかは子どもたちと待つことになった。
水守小屋の戸は、開いていた。
中には、白髪交じりの男が一人座っている。
前には三つの文箱。
腰に刀はない。
火鉢にも火は入っていなかった。
「来ると思うておりました」
源右衛門は雪へ頭を下げた。
「お久しゅうございます、雪さま」
「私を、そう呼ばないで」
雪は小屋へ踏み込まず、戸口の外から答えた。
「今の私は、あなたの主の娘として来たんやない。水を止められた村と、名を使われた人たちの話を聞くために来ました」
源右衛門は、文箱の一つを押し出した。
中には雪の父の古文が入っている。
切り取られた文。
印だけ残された通行札。
水の日を記した古帳面。
黒い一本を撚った縄の注文控え。
これまでの妨害に使われた物とつながる証拠が、そろっていた。
「あなたが、半次と錦屋を動かしたん?」
「はい」
「水甕の札を替えたのも?」
「半次へ命じました」
「蚕の葉も?」
「桑の札を替え、仕事が失敗したように見せろと」
源右衛門は否定しなかった。
ただ、病人を出すつもりはなかったと言った。
「水甕の中身までは知らなんだ。蚕も、何頭か弱れば桑育てを諦めると思うただけです」
「知らなかったら、許されると思う?」
「思いませぬ」
病んだ七人。
死んだ三頭の蚕。
水を失った村。
偽りの命令で武器を向け合いかけた者たち。
源右衛門が望んだ以上の被害が出たとしても、始めた責任は消えない。
「どうして?」
雪は尋ねた。
「どうして、父の文まで使うたん?」
源右衛門は、しばらく水路の音を聞いていた。
「御父上が亡くなられ、日置の家が弱ったあと、丹波へ来た者は皆、道を開くと言いました」
道を開く。
荷を通す。
新しい主へつなぐ。
その言葉のあとには、兵糧を求める者も、役目を押しつける者も、土地を量り直す者も来た。
源右衛門は、村が外と結ばれるたび、何かを奪われると考えるようになった。
「今度は幕府と内藤家。その次は、さらに大きな者が来る。桑と糸で銭が生まれれば、必ず取り上げに来ます」
「だから、先に道を閉じようとしたん?」
「はい。幕府の名が嫌われ、内藤家が退き、水輪が信用を失えば、村は元へ戻れる」
「元って、いつ?」
源右衛門は答えなかった。
雪の父がいた頃も、水争いはあった。
飢えも、戦も、重い負担もあった。
完全に閉じられ、誰にも奪われなかった村など、初めから存在していない。
「道を閉じたら、悪い人だけ来なくなるんやない」
雪は言った。
「薬も、米も、助けを知らせる文も来なくなる。綾の糸を待つお藤にも届かへん」
「外の者を信じろと?」
「全部を信じるんやない。確かめる道を増やすんです」
源右衛門が守ろうとしたものを、雪は笑わなかった。
村を恐れた理由も、父へ仕えた年月も否定しない。
だが、守るという言葉で他人の水や仕事を壊すことは認めなかった。
「あなたが村を守りたかったことと、あなたがしたことは、分けて裁かれます」
源右衛門は、静かに両手を前へ出した。
捕らえるのは雪ではない。
町役と、被害を受けた村々の大人たちだった。
古文書も全て記録され、誰の物かを確かめてから返される。
日置家の文だからといって、雪が一人で持ち去ることもなかった。
水守小屋の裏からは、もう一つの箱が見つかった。
中には、源右衛門へ送られた指示書と銭が入っている。
『幕府と内藤の縁を断て。
日置の旧領に道を戻せば、日置家の名を再び立てる』
差出人の名はない。
源右衛門は、日置家を復興させるという言葉にも動かされていた。
だが指示書の花押は、また別の古文から切り取られたものだった。
「雇い主の正体は?」
弥七が尋ねる。
「知りませぬ。文と銭は、北の峠にある祠へ置かれていました」
さらに背後に誰かいる可能性は残る。
それでも、源右衛門が持っていた文と道がなければ、同じやり方で村々を争わせることは難しくなる。
まず目の前の仕掛けは止まった。
夕方、雪たちが樫村へ戻ると、茶太郎は温め直した粟粥を用意していた。
「終わった?」
「源右衛門は捕らえられた。でも、全部終わったとはまだ言えへん」
「そっか」
茶太郎は、それ以上聞かなかった。
雪へ小さな椀を渡し、食べられる分だけよそった。
綾からも、蚕の知らせが届いている。
弱っていた籠のうち、残る蚕は桑の葉を食べ続けていた。
そして一頭が、籠の隅で白い糸を吐き始めたという。
失った命は戻らない。
傷んだ苗も、すぐには育たない。
それでも、生き残った蚕は自分の周りへ細い糸を重ねていく。
一巻き。
また一巻き。
閉じこもるための繭は、やがて外の世界へ渡る糸になる。
その夜、茶太郎は《縁扉》へ新しい言葉を掛けた。
『道は、開けば奪われることがある。
閉じれば、届かなくなるものがある。
だから、開くか閉じるかだけで決めない。
誰と、どう確かめながら通るかを決める』
翌朝、綾の蚕小屋では、最初の白い繭が完成していた。




