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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
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第248話 「父の古文と、道を閉じた元水守」

 ――守りたいという思いも、他人の暮らしを壊せば刃になる――


 久世源右衛門くぜ・げんえもん


 かつて日置雪へき・ゆきの父に仕え、丹波の四つの村へ水の日を伝えていた元水守。

 その名が出たあとも、茶太郎はすぐに源右衛門を悪人とは決めなかった。


「名前が書いてあったの?」


「いや」


 弥七やしちが答える。


「利右衛門が聞いたんは、水の取り決めを預かる男や。昔の名簿で姿が見えへんのが、源右衛門やった。それだけや」


「じゃあ、まだ確かめないと」


 疑う理由はある。

 しかし、名簿に一人だけいないから犯人だと決めれば、偽の印を信じた者たちと同じになる。


 茶太郎たちは、《縁扉えんぴ》へ事件で使われた物を並べた。


 役目を終えた幕府方の通行文。

 昔の水の取り決め。

 使わなくなった欠け水輪印。

 古い荷札。

 どれも新しく作られた偽物ではなかった。


 昔は本物として使われ、今は役目を終えた物ばかりである。


「古い物を集められる人や」


 千代が言った。


「それと、どの印が何に使われとったか知ってる人」


「でも、水輪の古い印までどうやって知ったんだろう」


 茶太郎は、空になっていた小箱を思い出した。


 繕い所には多くの者が出入りする。

 壊れた印の処分を後回しにしていたことも、誰かが見れば分かる。

 源右衛門一人だけが知れた情報ではない。


 雪はしばらく考え、一通の古文を取り出した。

 父が存命だった頃、丹波から伏見へ荷を通した記録である。

 紙の端には、利右衛門の指示書に残っていたものと似た花押があった。


「これ、敵の花押やないんか?」


 六助が尋ねる。


「違う」


 雪の声が震えた。


「父の花押です」


 薄く残った形を、敵対する者の文で見たと思ったのは間違いだった。

 雪の父の古い文そのものが、切り取られて使われていたのだ。


「父の文は、家が乱れたときに失われたと思うてた」


「誰かに預けてへんかった?」


 茶太郎が尋ねた。

 雪は目を閉じ、幼い頃の記憶を探った。


「源右衛門です。水の文も、道の文も、村で必要になるからいうて……父が預けた」


 古文書が保管されていたのは、樫村よりさらに上流の《水守小屋》だった。

 水路を見回る者が休み、村々へ届ける木札や縄を置いていた場所である。

 源右衛門が役目を退いてから、小屋を使う者はいない。


 日置雪は内藤家に縁のある使者と、上流の水守・弥兵衛やへえ、町役の大人たちとともに水守小屋へ向かった。

 弥七も同行する。

 茶太郎たち子どもは、樫村の寄合所に残った。


 源右衛門が武器を持っている可能性も、古文を焼こうとする可能性もある。

 影猫衆は茶丸だけが大人たちの近くで周囲を見張り、ほかは子どもたちと待つことになった。


 水守小屋の戸は、開いていた。

 中には、白髪交じりの男が一人座っている。


 前には三つの文箱。

 腰に刀はない。

 火鉢にも火は入っていなかった。


「来ると思うておりました」


 源右衛門は雪へ頭を下げた。


「お久しゅうございます、雪さま」


「私を、そう呼ばないで」


 雪は小屋へ踏み込まず、戸口の外から答えた。


「今の私は、あなたの主の娘として来たんやない。水を止められた村と、名を使われた人たちの話を聞くために来ました」


 源右衛門は、文箱の一つを押し出した。

 中には雪の父の古文が入っている。


 切り取られた文。

 印だけ残された通行札。

 水の日を記した古帳面。

 黒い一本を撚った縄の注文控え。


 これまでの妨害に使われた物とつながる証拠が、そろっていた。


「あなたが、半次と錦屋を動かしたん?」


「はい」


「水甕の札を替えたのも?」


「半次へ命じました」


「蚕の葉も?」


「桑の札を替え、仕事が失敗したように見せろと」


 源右衛門は否定しなかった。

 ただ、病人を出すつもりはなかったと言った。


「水甕の中身までは知らなんだ。蚕も、何頭か弱れば桑育てを諦めると思うただけです」


「知らなかったら、許されると思う?」


「思いませぬ」


 病んだ七人。

 死んだ三頭の蚕。

 水を失った村。

 偽りの命令で武器を向け合いかけた者たち。


 源右衛門が望んだ以上の被害が出たとしても、始めた責任は消えない。


「どうして?」


 雪は尋ねた。


「どうして、父の文まで使うたん?」


 源右衛門は、しばらく水路の音を聞いていた。


「御父上が亡くなられ、日置の家が弱ったあと、丹波へ来た者は皆、道を開くと言いました」


 道を開く。

 荷を通す。

 新しい主へつなぐ。


 その言葉のあとには、兵糧を求める者も、役目を押しつける者も、土地を量り直す者も来た。

 源右衛門は、村が外と結ばれるたび、何かを奪われると考えるようになった。


「今度は幕府と内藤家。その次は、さらに大きな者が来る。桑と糸で銭が生まれれば、必ず取り上げに来ます」


「だから、先に道を閉じようとしたん?」


「はい。幕府の名が嫌われ、内藤家が退き、水輪が信用を失えば、村は元へ戻れる」


「元って、いつ?」


 源右衛門は答えなかった。


 雪の父がいた頃も、水争いはあった。

 飢えも、戦も、重い負担もあった。

 完全に閉じられ、誰にも奪われなかった村など、初めから存在していない。


「道を閉じたら、悪い人だけ来なくなるんやない」


 雪は言った。


「薬も、米も、助けを知らせる文も来なくなる。綾の糸を待つお藤にも届かへん」


「外の者を信じろと?」


「全部を信じるんやない。確かめる道を増やすんです」


 源右衛門が守ろうとしたものを、雪は笑わなかった。


 村を恐れた理由も、父へ仕えた年月も否定しない。

 だが、守るという言葉で他人の水や仕事を壊すことは認めなかった。


「あなたが村を守りたかったことと、あなたがしたことは、分けて裁かれます」


 源右衛門は、静かに両手を前へ出した。


 捕らえるのは雪ではない。

 町役と、被害を受けた村々の大人たちだった。


 古文書も全て記録され、誰の物かを確かめてから返される。

 日置家の文だからといって、雪が一人で持ち去ることもなかった。


 水守小屋の裏からは、もう一つの箱が見つかった。

 中には、源右衛門へ送られた指示書と銭が入っている。


『幕府と内藤の縁を断て。

 日置の旧領に道を戻せば、日置家の名を再び立てる』


 差出人の名はない。

 源右衛門は、日置家を復興させるという言葉にも動かされていた。

 だが指示書の花押は、また別の古文から切り取られたものだった。


「雇い主の正体は?」


 弥七が尋ねる。


「知りませぬ。文と銭は、北の峠にある祠へ置かれていました」


 さらに背後に誰かいる可能性は残る。

 それでも、源右衛門が持っていた文と道がなければ、同じやり方で村々を争わせることは難しくなる。

 まず目の前の仕掛けは止まった。


 夕方、雪たちが樫村へ戻ると、茶太郎は温め直した粟粥を用意していた。


「終わった?」


「源右衛門は捕らえられた。でも、全部終わったとはまだ言えへん」


「そっか」


 茶太郎は、それ以上聞かなかった。

 雪へ小さな椀を渡し、食べられる分だけよそった。


 綾からも、蚕の知らせが届いている。

 弱っていた籠のうち、残る蚕は桑の葉を食べ続けていた。

 そして一頭が、籠の隅で白い糸を吐き始めたという。


 失った命は戻らない。

 傷んだ苗も、すぐには育たない。

 それでも、生き残った蚕は自分の周りへ細い糸を重ねていく。


 一巻き。

 また一巻き。

 閉じこもるための繭は、やがて外の世界へ渡る糸になる。


 その夜、茶太郎は《縁扉》へ新しい言葉を掛けた。


『道は、開けば奪われることがある。

 閉じれば、届かなくなるものがある。

 だから、開くか閉じるかだけで決めない。

 誰と、どう確かめながら通るかを決める』


 翌朝、綾の蚕小屋では、最初の白い繭が完成していた。


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『茶太郎がゆく』
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